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「あんさん……うちの旦さんに、嫁入りしまへんか?」
 白河スズの元に突然やって来たその女性は、スズの顔を見るなり、いきなりそう言った。
 スズは迷うよりも、驚いて言葉が出なかった。
 女性は、大阪の両替商『百鬼屋なぎりや』の先代主の妻・相間そうま寿子ひさこと名乗った。『旦さん』とは『店主』のことであり、この寿子の息子にあたるらしい。
 五尺五寸と女性にしては上背のあるその人が、ぴんと背筋を伸ばすと何とも凄みがある。加えて牡丹をあしらった大きな柄の着物、そして顔につけた白地に朱を挿した狐の面……それらを纏うことで、艶やかさと気迫とを兼ね備えることになっていた。美しいが怖い、といった印象だった。
 そんな客が、東京の下町にある小さな洋食店にやってきて、いきなり突飛なことを言うものだから、スズでなくともその場の誰もが唖然とした。
 店の主であるスズの養父も、女将である養母も、夫妻の娘である同い年の義姉も、店にいた客たちも、皆だ。
 もちろん一番驚いているのはスズだ。なにせ華やかで殿方からの恋文の数が自慢の義姉ではなく、養母のお古の地味な着物を纏って野暮ったい自分が、そんなことを言われたのだから。
「あの……私、ですか?」
「わての前には、あんさんしか居てはりませんけど?」
 こんな目の前で言われれば、間違えようはない。それでも、スズには信じられなかった。
 そしてスズと同様、いやもっと信じられないといった様子の義姉がずいっと前に出た。
「あの……どなたかとお間違えじゃないですか? お嫁さんて、その……この子が?」 
 義姉はちらりとスズを見やる。言わずとも、その視線がすべてを物語っていた。こんな子に縁談なんて来るわけがないと。
 義姉の目論見は、なんとなくわかる。狐面と言動はかなり異様だが、佇まいと出で立ちは、ただ者ではない。背後には同じく面を着けた下男らしき男が控えていることからも、さぞや名のある豪商に違いない。
 スズにもわかるのだから、この義姉がそう考えないわけがない。そして、次に出る言葉も、見当が付いた。
「お宅様のような立派なお家に、この子が嫁いでもお名前に傷が付いてしまうかと。それよりも.……」
 いつの間にか厨房から養父母も出てきて、一緒になって義姉の背中を押していた。だが彼らが何か言う前に、寿子はため息交じりに告げた。
「それよりも……そちらのお嬢さんの方が、うちの嫁に相応しい……そう言いたいんでっか?」
 普通なら尻込みするような言葉だが、義姉はむしろ、一歩進み出た。
「ええ、そうです。私なら立派な女将に……」
 そう言いかけたところで、ため息と似た、だがもっと大きく響く笑い声が聞こえた。
「どうでっしゃろ。あんさんには、難しいて思いますけどなぁ」
「な、なんで……!」
「そやかてあんさん、うちが何の商いしてるんか知りまへんやろ。店の主のことも」
 寿子は、初めて顔を義姉や養父母たちに向けた。
 一人一人、間近で面を見た義姉たちは小さく悲鳴を上げた。その顔は、まるで怪物が餌を前にして舌なめずりしているかのようだった。
「ええこと教えてあげますわ。うちの旦さん……あんさんが嫁に行きたいて言わはったお人はな、なんと……『ばけもん』なんですわ」
 時は、明治43年。文明開化、富国強兵を掲げる世の中に似つかわしくない言葉がするりと飛び出して、スズの運命を、包み込んでいくのだった。
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