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弐章 比良山の若天狗
七
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結局、昼休みは太郎の介抱と治朗との攻防でまるまる使い切ってしまった。教室に戻れば、クラスの全員からそわそわした様子で見られ、お弁当も食べそびれ……放課後になった今まで、踏んだり蹴ったりだった。
思い返すたびに、ため息が出る。幸い車道沿いで人通りも多い。藍のため息など、車の走行音や道行く人の声がかき消してくれる。藍は盛大にため息をこぼしつつ、前を行く人との間にある距離がどんどん開いていく様を見て、ますます大きなためいきをこぼした。
今まっすぐに帰ったら、太郎とあの治朗という男がいる。倒れた太郎を連れ帰ったので、家にいるに違いない。そう考えると、帰る足取りが自然と重くなっていくのだ。
「……寄り道、しちゃおうかな」
ほんの少しだけ、と自分に言い聞かせつつ、藍はくるりと向きを変えた。その時、視界の端で何かが動いた。
藍に見えていたのは、前を歩く人と、歩道と、車が様々行き交う車道、そして、車の合間から顔を出す猫。猫は、車が行き交う車道を、合間を縫ってぴょこぴょこ走っていた。そこへ、後方から車が突っ込んでくる。
「危ない!」
藍は駆け寄ったが、間に合わない。
猫が、迫りくる車のフロントに激突してしまうーーそんな想像をして、思わず目を閉じた。だが、どうしたことか、何の音も聞こえない。
代わりに、車道の方から何か小さな、ボールのようなものがぽーんと飛んできた。藍が思わず受け止めると、小さなボールのようなそれは、声を上げた。
「にゃあ」
「え? 猫……? さっきの?」
車道の真ん中あたりにいたというのに、どこをどうやってこんなところまで逃げてきたのか、いや飛んできたのか。
とりあえず一目でわかることは、猫は一滴の血も流すことなく、とても元気そうだと言うことだ。
「よ、よかった……?」
安心はしたが、いったい何が起こったのかわからない。それを教えてくれそうな存在は、歩道の脇にいた。猫の代わりに自分が、前から後ろから来る車を避けて、命からがらここまでたどり着いたという様相の、猪だった。猪を実際に見たのは動物園くらいだが、それにしても大きな猪だ。立ち上がれば人間などよりずっと大きいだろう。
傷だらけで、瀕死の重傷を負い、フラフラしている……かと思いきや、猪は毅然と立っている。まるで人の手は借りないと言わんばかりの佇まいだ。
その姿を見つけ、藍の手のひらに収まっていた猫はそこから逃れようともがいた。
「痛っ!」
まだ自分では制御できないらしい爪にひっかかれ、藍の指に小さな傷を作った。だが猫はかまわず飛び降り、猪のもとへ飛んでいった。恩人のことが、わかるのだろう。
猪もまた、自分が救った猫を温かな目で見守っている。猫に怪我がないとわかったのか、猪は踵を返して、走り去ろうとした。その時だった。藍が、猪の後ろ脚に傷口を見つけたのは。
「ち、ちょっと待って」
藍は、思わず呼び止めた。猪を、だ。言葉なんて通じるはずもないというのに。
だが意外にも、猪は立ち止まった。
何か用か、と問うような姿で、藍を見つめている。藍は動かない猪に近寄り、そっとハンカチを取り出して、猪の後ろ足の傷に巻いてやった。
はじめは警戒していたものの、傷の手当と分かったのか、大人しくされるがままになっていた。
「はい、もういいよ」
本当は消毒などもしたいが、今は無理だった。ハンカチを巻くだけの簡潔な手当だったが、何もしないよりはいいはず。
猪もそう思ったのか、ぺこりと頭を下げて、歩き出した。あれはお辞儀なんだろうかと藍は首をかしげていた。だが確認する間もなく、猪は立ち去ってしまった。足を引きずりながらも、その動きは素早かった。
藍がその後ろ姿を見送っていると、背中から声が聞こえた。
姿が見えなくなるまで、歩く姿を見守ろうと思える懸命な姿だった。
「何をしている」
「いえ、猪がね……」
「猪? どこに?」
「いたんですよ、さっきまで……って、うわ!」
問いに応えようと振り返り、藍は後悔した。
そこに立っていたのは、先程よりはマシとはいえ、眉間に深いしわを刻んだ、仏頂面の、治朗坊その人だった。
「で? お前は何をしている? いつもなら帰宅している時間なのにおかしいと、兄者が嘆いておられるが」
「え、えーと……」
藍は弁明の余地なく、治朗によって連行されていった……。
思い返すたびに、ため息が出る。幸い車道沿いで人通りも多い。藍のため息など、車の走行音や道行く人の声がかき消してくれる。藍は盛大にため息をこぼしつつ、前を行く人との間にある距離がどんどん開いていく様を見て、ますます大きなためいきをこぼした。
今まっすぐに帰ったら、太郎とあの治朗という男がいる。倒れた太郎を連れ帰ったので、家にいるに違いない。そう考えると、帰る足取りが自然と重くなっていくのだ。
「……寄り道、しちゃおうかな」
ほんの少しだけ、と自分に言い聞かせつつ、藍はくるりと向きを変えた。その時、視界の端で何かが動いた。
藍に見えていたのは、前を歩く人と、歩道と、車が様々行き交う車道、そして、車の合間から顔を出す猫。猫は、車が行き交う車道を、合間を縫ってぴょこぴょこ走っていた。そこへ、後方から車が突っ込んでくる。
「危ない!」
藍は駆け寄ったが、間に合わない。
猫が、迫りくる車のフロントに激突してしまうーーそんな想像をして、思わず目を閉じた。だが、どうしたことか、何の音も聞こえない。
代わりに、車道の方から何か小さな、ボールのようなものがぽーんと飛んできた。藍が思わず受け止めると、小さなボールのようなそれは、声を上げた。
「にゃあ」
「え? 猫……? さっきの?」
車道の真ん中あたりにいたというのに、どこをどうやってこんなところまで逃げてきたのか、いや飛んできたのか。
とりあえず一目でわかることは、猫は一滴の血も流すことなく、とても元気そうだと言うことだ。
「よ、よかった……?」
安心はしたが、いったい何が起こったのかわからない。それを教えてくれそうな存在は、歩道の脇にいた。猫の代わりに自分が、前から後ろから来る車を避けて、命からがらここまでたどり着いたという様相の、猪だった。猪を実際に見たのは動物園くらいだが、それにしても大きな猪だ。立ち上がれば人間などよりずっと大きいだろう。
傷だらけで、瀕死の重傷を負い、フラフラしている……かと思いきや、猪は毅然と立っている。まるで人の手は借りないと言わんばかりの佇まいだ。
その姿を見つけ、藍の手のひらに収まっていた猫はそこから逃れようともがいた。
「痛っ!」
まだ自分では制御できないらしい爪にひっかかれ、藍の指に小さな傷を作った。だが猫はかまわず飛び降り、猪のもとへ飛んでいった。恩人のことが、わかるのだろう。
猪もまた、自分が救った猫を温かな目で見守っている。猫に怪我がないとわかったのか、猪は踵を返して、走り去ろうとした。その時だった。藍が、猪の後ろ脚に傷口を見つけたのは。
「ち、ちょっと待って」
藍は、思わず呼び止めた。猪を、だ。言葉なんて通じるはずもないというのに。
だが意外にも、猪は立ち止まった。
何か用か、と問うような姿で、藍を見つめている。藍は動かない猪に近寄り、そっとハンカチを取り出して、猪の後ろ足の傷に巻いてやった。
はじめは警戒していたものの、傷の手当と分かったのか、大人しくされるがままになっていた。
「はい、もういいよ」
本当は消毒などもしたいが、今は無理だった。ハンカチを巻くだけの簡潔な手当だったが、何もしないよりはいいはず。
猪もそう思ったのか、ぺこりと頭を下げて、歩き出した。あれはお辞儀なんだろうかと藍は首をかしげていた。だが確認する間もなく、猪は立ち去ってしまった。足を引きずりながらも、その動きは素早かった。
藍がその後ろ姿を見送っていると、背中から声が聞こえた。
姿が見えなくなるまで、歩く姿を見守ろうと思える懸命な姿だった。
「何をしている」
「いえ、猪がね……」
「猪? どこに?」
「いたんですよ、さっきまで……って、うわ!」
問いに応えようと振り返り、藍は後悔した。
そこに立っていたのは、先程よりはマシとはいえ、眉間に深いしわを刻んだ、仏頂面の、治朗坊その人だった。
「で? お前は何をしている? いつもなら帰宅している時間なのにおかしいと、兄者が嘆いておられるが」
「え、えーと……」
藍は弁明の余地なく、治朗によって連行されていった……。
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