となりの天狗様

真鳥カノ

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弐章 比良山の若天狗

十二

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 4限目の体育の授業が終わり、制服に着替えると昼休み……昼食の時間だ。藍の胃袋も盛大に悲鳴を上げている。朝食はおにぎりを食べたとはいえ、体育があった上に、お弁当も持っていない。
 購買部へ行くという手もあるが、体育の着替えがあったせいで出遅れている。いいものは手に入らないだろう。
「でも行かないよりはマシか」
 ため息をつきながら、藍は購買部へと向かおうとした。その時、奇妙な音がした。
ーーコイ
「?」
 周囲を見回しても、音の発生源らしきものは見当たらない。廊下を歩く他の誰も、気にする素振りがない。ということは、この音は藍だけに聞こえていることになる。
(まさか、例の変なモノ……あやかし?)
 藍は今度はできるだけ平静を装って周囲を見回した。あの、黒い靄のようなものがまだいたのかと息を飲んだ。
 先ほどは自分の走るコース上にいきなり現れて困惑した。勢いに任せて、ハードル走の要領で飛び越えてしまおうかとも思ったが、まさかの人物の登場で調子が狂ってしまった。そういえば彼は、何をしに来たのか。どうせならお弁当を持って来てくれればよかったのに。
 様々な考えが巡って、当初の考えからかなりズレたことに気付いたその時、また聞こえた。
ーー聞こえているか。中庭に来い
 音と言うより、声だった。不思議と、どこかで聞いたことのある声だ。
「……あ、治朗坊さん?」
 声だけしか聞こえていないが、確かに彼の声だ。声は、スマートフォンで話している時とも少し違って、頭の中に直接響いて来た。
ーーそうだ、治朗坊だ。お前の弁当を持って来たから…………
「え、何これ? どうやって会話してるんですか? 頭にチップでも埋め込まれたんですか、私?」
ーー神通力・他心智證通たしんちしょうつうだ。他者の心を知り……まぁ今のように会話のようなこともできる
「すごい! 電話いらずだ!……って変なこと考えてたらばれるってこと!?」
ーー弁当を持って中庭で待っているんだが……いらないんだな
「い、いりますいります! 少々お待ちください!」
 今の状況では、『弁当』は他の何よりも甘美な言葉だった。思わず大声で復唱してしまった口を塞ぎ、藍は再び方向転換をした。
 向かう先は、中庭だ。

******

「ほら」
 治朗は、藍が来るなり大きな包みを差し出した。
「本当にこれなんですか?」
 太郎が昨日持って来たものは確かに藍が普段から使っている弁当箱だったが、今日治朗が持って来た包みはそれよりも大きかった。2倍もしくは3倍はありそうだ。
「何かの間違いじゃ……?」
「そんなわけがあるか。俺は兄者が料理を作るところから、鼻歌を歌いながら詰めているところまで全てこの目で見たんだぞ」
 では、残念ながら間違いない。藍にとっては、間違いであって欲しかった。
 藍がその包みを受け取ると、思わず取り落としそうになるほどの重量だった。果たして、藍一人の胃袋に納まりきるのか。藍の頭に先程とは真逆の心配事が浮かんでいた。
「ではな、確かに渡したぞ」
 治朗はそう言うと、踵を返した。背中には黒い羽を広げている。どうやら帰るらしい。
「あ、あの……」
「何だ?」
 治朗が羽を広げたままこちらを振り返った。相変わらず目が吊り上がっていたが、敵意は感じない。
「あの……さっきは、ありがとうございました」
 助けてもらったことには変わりはない。藍は深々と頭を下げた。お礼は早い方がいいというのが、母の教えなのだ。
 いきなり頭を下げられた治朗の方は、戸惑って動きを止めていた。
 何と言っていいかわからないのか、黙ったまま視線をうろうろと彷徨わせている。
「そ、その……なんだ。礼はさっき言っていたぞ。忘れたか」
「その後投げ飛ばしたので、ノーカウントかなと思いまして……」
「あれはまぁ、俺が悪かった。だからその……そんなに何度も頭を下げることは……うん?」
 しどろもどろになっていた治朗が、ふとしゃがみこんだ。お辞儀をしたのではなく、落ちていた何かを拾ったようだった。
 立ち上がり眺めていたのは、何かの紙切れのようだ。
「……帰れなくなった」
「は?」
 治朗は羽をしまい、普通の人間と同じ出で立ちに戻ると、紙切れを藍にも見せた。そこには、達筆な文字が書かれていた。曰くーー
『いい天気だし、ピクニック気分で仲良くなってね 太郎坊より』
 包みを開けてみると、そこには藍の弁当箱のほかに、もう少し大きな男性用の弁当箱が、もう一つ。
 両者とも、言葉が出なかった。だが、二人同時に、この重量であった理由が理解できたのは言うまでもない。それまで感謝の念や、照れや恥じらいといった感情が浮かんでいた顔は一気に固まっていった。
 そして、ふたり同時にため息をこぼした。
「まぁ……仕方ないですね」
「そうだな。仕方ない」
 ちなみに包みの中には、外で食べることまで想定していたのか、きちんとレジャーシートまで入れられていたのだった。
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