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弐章 比良山の若天狗
十九
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神社で倒れた太郎は、夜になっても目を覚まさなかった。血の気の失せた顔に冷たい汗が常に浮かんでいた。眠っている間、ずっとうなされている。
いったいどういう症状なのか、医者に診せればわかるのかもしれない。普通の人間ならば。だが太郎は、普通の人間とは違う存在だ。何が起こっていて、どうすればいいのか、藍には皆目見当がつかなかった。傍にいた、同じ天狗である治朗が様子を見るしかないと言うのだから、それに従うほかない。
今も枕元で足ろうが目覚めるのを、ただ待つしかできない。
微かな寝息と、連れてきた呼子が藍の周りをチョロチョロ歩き回る音だけが、離れの太郎の部屋の中に響いていた。
「私のせい……なんでしょうか」
ぽつりと、考えていたことが口をついてこぼれ出た。隣にいた治朗は、答えることはなかった。
「太郎さん、昨日は学校までお弁当を届けに来て、倒れてました。今日は私を助けようと、もっと急いで来たから……?」
「……そう、かもな」
厳しい響きだった。だが、治朗は言葉を探りながら紡ぎ出していた。決して、藍を責めようというつもりではないようだ。
「だが、兄者がご自身でお決めになったこと。お前や俺が口を出せることではない」
「私まで口を出しちゃだめなんですか? 私が原因なのに?」
「ああ、そうだ。元々、天狗とは力のある霊山で修行を重ねた修験者と同一視されることが多い。山で厳しい修行を重ねた結果、人智を越えたことをやってのけるようになった修験者を、人々が恐れ敬ったのだと言われている。そして実際に、俺たち天狗は山に入り、その敬虔さから、または飽くなき探求心から、強き正義感から、山を治める神々によって認められ召し上げられる。山の中の神域でこそ力を発揮できる者であり、そこを出れば力を失うのは、自明の理なのだ」
藍は、そんなことは初めて耳にした。それに、考えもしなかった。
初めて会った時の太郎は奇天烈な雰囲気の持ち主だったが、強く、頼りになった。そのことには、感謝もしていた。
こんな風に弱々しく、すぐに倒れてしまうようになるなど、想像もつかなかった。ましてそれが、山を下りたからという人間には信じられない理由だったなど、どうして考えられようか。
「で、でも治朗さんは? 山から下りて一日以上は経ってるけど、すごく元気ですよ」
「一日二日程度ならばな。それに俺は、ほんの少し力を使ったに過ぎん。兄者の日々負われているご負担に比べれば……」
「太郎さんが日々負っているって、何をですか?」
治朗は、しまったという風に口を塞いだ。失言だったようだ。だがはっきりと聞いてしまった今、無視はできなかった。
治朗は、自分をじっと見つめる……というより睨み続ける藍に、ため息交じりに答えた。
「この家とお前、両方に結界を張っておられる」
「ケッカイ?」
「身を守るための見えない壁のようなものだ。お前は気づいていないようだが、兄者がこの家に来られてからずっと、お前の周囲には結界が張られている。今までよりも格段に、あやかしとの接触が減ったはずだ」
「……言われてみれば」
以前は、姿を見るだけならば3日とおかず見かけていたものだが、ここ1週間ほどは、まったく見ていない。
それもこれも、すべて太郎が守ってくれていたからだと、治朗は言う。
「結界も、自分一人の気配をしばらく消す程度ならいくらでもできる。だが兄者のように他人を、常に、それも家ごと守るとなると、そのご負担は計り知れない」
「ちょっと何かしただけで、こんなになっちゃうほど……?」
藍の問いかけに、治朗は今度こそ頷いた。
「な、なんで……私は、違うって……許嫁じゃないって言ったのに。どうしてそこまで……?」
「兄者のお心の問題だ。お前にも俺にも、計り知れるものではないだろう」
その言葉は、納得がいくようで、納得ができなかった。半分は藍のことだというのに。先ほど言った自身の言葉が、藍の中で何度も何度も反芻した。
それほどに”姫”のことを想っていたーーそれしか、わからない。
だが今の太郎を目の前にしては、もう自分は無関係だとは言えなかった。
ぎゅっと握りしめた拳のもとに、呼子が寄ってきた。ふんふんと鼻を鳴らして、藍の手のひらに鼻先をすり寄せている。
「……どうしたの?」
ふいに頭を撫でてやりたくなる仕草だった。一見すると子犬のようにも見えるその背に、思わず手を伸ばそうとした。
その手を、誰かが遮った。
「駄目だ」
その声は、藍たちの眼下から聞こえた。
「血を与え続けちゃ、駄目だ」
そう言って、太郎は藍の手を呼子から遠ざけた。横たわったままでも、その鋭い眼光は、まっすぐに呼子を刺し貫こうとしていた。
いったいどういう症状なのか、医者に診せればわかるのかもしれない。普通の人間ならば。だが太郎は、普通の人間とは違う存在だ。何が起こっていて、どうすればいいのか、藍には皆目見当がつかなかった。傍にいた、同じ天狗である治朗が様子を見るしかないと言うのだから、それに従うほかない。
今も枕元で足ろうが目覚めるのを、ただ待つしかできない。
微かな寝息と、連れてきた呼子が藍の周りをチョロチョロ歩き回る音だけが、離れの太郎の部屋の中に響いていた。
「私のせい……なんでしょうか」
ぽつりと、考えていたことが口をついてこぼれ出た。隣にいた治朗は、答えることはなかった。
「太郎さん、昨日は学校までお弁当を届けに来て、倒れてました。今日は私を助けようと、もっと急いで来たから……?」
「……そう、かもな」
厳しい響きだった。だが、治朗は言葉を探りながら紡ぎ出していた。決して、藍を責めようというつもりではないようだ。
「だが、兄者がご自身でお決めになったこと。お前や俺が口を出せることではない」
「私まで口を出しちゃだめなんですか? 私が原因なのに?」
「ああ、そうだ。元々、天狗とは力のある霊山で修行を重ねた修験者と同一視されることが多い。山で厳しい修行を重ねた結果、人智を越えたことをやってのけるようになった修験者を、人々が恐れ敬ったのだと言われている。そして実際に、俺たち天狗は山に入り、その敬虔さから、または飽くなき探求心から、強き正義感から、山を治める神々によって認められ召し上げられる。山の中の神域でこそ力を発揮できる者であり、そこを出れば力を失うのは、自明の理なのだ」
藍は、そんなことは初めて耳にした。それに、考えもしなかった。
初めて会った時の太郎は奇天烈な雰囲気の持ち主だったが、強く、頼りになった。そのことには、感謝もしていた。
こんな風に弱々しく、すぐに倒れてしまうようになるなど、想像もつかなかった。ましてそれが、山を下りたからという人間には信じられない理由だったなど、どうして考えられようか。
「で、でも治朗さんは? 山から下りて一日以上は経ってるけど、すごく元気ですよ」
「一日二日程度ならばな。それに俺は、ほんの少し力を使ったに過ぎん。兄者の日々負われているご負担に比べれば……」
「太郎さんが日々負っているって、何をですか?」
治朗は、しまったという風に口を塞いだ。失言だったようだ。だがはっきりと聞いてしまった今、無視はできなかった。
治朗は、自分をじっと見つめる……というより睨み続ける藍に、ため息交じりに答えた。
「この家とお前、両方に結界を張っておられる」
「ケッカイ?」
「身を守るための見えない壁のようなものだ。お前は気づいていないようだが、兄者がこの家に来られてからずっと、お前の周囲には結界が張られている。今までよりも格段に、あやかしとの接触が減ったはずだ」
「……言われてみれば」
以前は、姿を見るだけならば3日とおかず見かけていたものだが、ここ1週間ほどは、まったく見ていない。
それもこれも、すべて太郎が守ってくれていたからだと、治朗は言う。
「結界も、自分一人の気配をしばらく消す程度ならいくらでもできる。だが兄者のように他人を、常に、それも家ごと守るとなると、そのご負担は計り知れない」
「ちょっと何かしただけで、こんなになっちゃうほど……?」
藍の問いかけに、治朗は今度こそ頷いた。
「な、なんで……私は、違うって……許嫁じゃないって言ったのに。どうしてそこまで……?」
「兄者のお心の問題だ。お前にも俺にも、計り知れるものではないだろう」
その言葉は、納得がいくようで、納得ができなかった。半分は藍のことだというのに。先ほど言った自身の言葉が、藍の中で何度も何度も反芻した。
それほどに”姫”のことを想っていたーーそれしか、わからない。
だが今の太郎を目の前にしては、もう自分は無関係だとは言えなかった。
ぎゅっと握りしめた拳のもとに、呼子が寄ってきた。ふんふんと鼻を鳴らして、藍の手のひらに鼻先をすり寄せている。
「……どうしたの?」
ふいに頭を撫でてやりたくなる仕草だった。一見すると子犬のようにも見えるその背に、思わず手を伸ばそうとした。
その手を、誰かが遮った。
「駄目だ」
その声は、藍たちの眼下から聞こえた。
「血を与え続けちゃ、駄目だ」
そう言って、太郎は藍の手を呼子から遠ざけた。横たわったままでも、その鋭い眼光は、まっすぐに呼子を刺し貫こうとしていた。
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