となりの天狗様

真鳥カノ

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五章 天狗様、奔る 

十一

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 神通力による移動は一瞬だった。気付くと見慣れた太郎の部屋ではなく、見慣れない山の中の風景が広がっていた。
「ここは……」
兜山かぶとやまという山だ」
 僧正坊の声が、近くから聞こえた。太郎が周囲を見回すと、すぐ近くに治朗も三郎もいる。無事に、目的の山まで四人揃って来られたらしい。
 しかし、安心などできない。むしろ周囲に漂う冷たい空気に、全身が総毛立つ気がした。
「何なんだ、このおぞましい気は……」
「これが、鬼の気ということだろうな」
 三郎を見ると、それまでひっついていた管狐たちの姿が消えていた。この空気に恐れをなして、管に戻ったのだろう。治朗の方を見ると……いつの間についてきたのか、呼子が治朗の肩に乗りながらも、丸くなって震えていた。
 太郎たちですら寒気を覚えるこの気配に、未熟な管狐やひ弱な呼子が耐えられるはずがなかった。
「これほどの存在に、今まで気付かなかったのか」
 太郎の、驚きと後悔が滲んだ言葉だった。
 寒気がするのは、鬼の気配のせいだけではない。この山には、鬼以外の気配がほとんど感じられない。それはつまり、他の生き物やあやかしがほとんどいないということになる。元々平和に暮らしていたはずの、呼子の仲間たちも、皆だ。
「致し方ない。あの者が結界を張って、この山から出さないようにしていたんだからな。山の存在そのものまでは隠せなかったようだがな。だが、その結界が仇となって、他のモノたちは喰われてしまったか……」
「それほど強い鬼がいるからかな? 同じ山の中にいるはずなのに、この鈴がまったく反応しない。それに藍の気も、まるで感じない。」
 太郎の手には、藍と揃いの鈴があった。音が鳴らないのはいつも通りだが、この鈴同士が、互いに共鳴して危険を知らせたり、居場所を知らせる。
 今まで何度もそうして藍の危機に駆けつけてきたというのに、今は、少しも反応を見せないのだった。
「そりゃあ、自分たちの周囲に結界を張り巡らせて逃げるくらいはするだろうね。あの猪娘も、あの者も、喰えば相当な力を得られるだろうから」
 それだけだろうか、そう呟く言葉を飲み込みつつ、太郎は首をかしげていた。だが言葉を一つ一つ拾い上げてみて、気付いた。
「つまり……今、藍の気を感じないのは、誰かが結界の中で保護しているから……?」
 僧正坊が頷く代わりに、ニヤリと笑った。その状況を、読んでいたらしい。
 ほっと息をつく治朗だったが、代わって三郎が疑問を口にした。
「その知り合いってのはいったい何者なんだ? そいつは喰われてはないのか?」
「私の知る限りでは、喰われてはいないね」
「では、山から逃げたのか?」
「いいや」
 僧正坊は静かに首を横に振ると、太郎たちの視界から外れていた木々の奥を指さした。指された方には、かすかに建物が見えた。家と言うほどではない、庵と呼ばれる小さな建物だ。古びて、色が剥げ落ちたりはしているが、朽ちてはいない。
 中に入ると、雨漏りなども見られない。まるで、つい最近まで誰かが住んでいたかのような様子だった。
「ここに、住んでいるのか?」
「ああ。住み始めたのは近年のようだがね。それまでは色々な山を転々としていたようだよ。富士に大山だいせん、|彦山、大峰山に石鎚山、他にもたくさん……鞍馬にもね」
「もしかして、かの義経に剣術だの兵法だのを仕込んだ天狗っていうのは、鞍馬の天狗じゃないのか?」
「その通り。当時、鞍馬に住んでいた・・・・・天狗だ。それがいつしか鞍馬の天狗……果ては私という話にまで発展してしまった。いやはや困ったものだよ」
 悩ましげにため息をつく僧正坊を、三郎はあきれた顔で見ていた。
 鞍馬の天狗は、能の演目になったり、時代劇のモチーフになったりしている。義経人気も相まって、それはそれは有名になり、今では愛宕山天狗を凌ぐ知名度なのだ。
「お前、絶対自分の手柄にして喜んでるだろ……」
「失敬な。私がそんな泥棒猫に見えるのかい」
「そうとしか言えねえだろ」
「その話は今はいい! 肝心の、その天狗っていうのは何者なんだよ」
 三郎が話をそらせた気まずさからか一歩退き、対して僧正坊は一歩、太郎に歩み寄った。太郎の焦る顔を、楽しんで眺めているようだ。
「……知りたいかい?」
「藍を助ける手がかりになるなら」
「それはどうかわからないな……なにせ彼は、破門になった天狗なのだから」
「破門? 何をしたんだ?」
 僧正坊は、太郎と三郎、そして治朗にも順番に視線を配ってから、語った。
「罪を犯したんだよ。天狗の身でありながら、人間の勢力争いに力を貸してしまった。しかも、天狗像を傷つけるなんて愚行まで犯した。よりによって、愛宕でね」
 僧正坊の思わせぶりな言葉に苛立っていた太郎だが、今、確信を持った。
「やっぱり……スイか」
 僧正坊から聞いた話を組み立てていくと、自然と、かつて自分を慕ってくれていた者の名が浮かんだ。
 山に暮らす獣の身でありながら、空を行く太郎の姿に憧れ、懸命に修行を重ねた者の名が。そして、その名が浮かぶと同時に、太郎の顔には笑みが浮かんだ。
「そうか……藍が言っていた大きな猪というのは、やっぱり慧のことだったんだ……なら、心配ない」
「信用できる者か?」
「できる。身につけた力も技も、並の天狗たちでは遠く及ばない使い手だ」
「力もですが……人となりは?」
 治朗が、必死の形相で尋ねた。一度罪を犯して破門にまでなった者だ。身につけた力をどんな風に悪用するかわかったものじゃない。
 だが、太郎はそんな不安を吹き飛ばすように頷いた。
「言わずもがな」
 その顔が、力強く告げていた。藍は無事に違いないと。
「とはいえ、一刻も早く藍の元に行かねばならないのは変わりません。どのように居場所を探します?」
 まだ少し焦りを隠せない治朗に、太郎はさらに不敵な笑みを向けた。そして、治朗の肩を指さした。
「そいつが、いるじゃないか」
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