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赤髪の少女【7】
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その日の宵、澪は絃の元を訪れていた。歩澄は甘味が好きで、時折持って行くと聞いていたからだ。温泉へ連れていってもらったお礼をしようと思ったが、鍛刀と剣術くらいしか得意なものがない澪。料理も稽古中に九重が拵えていたため、上達しなかった。
そこで、絃に甘味の作り方を教えてもらおうとやって来たのだった。
「自ら持っていくの? へぇ……いつの間にか歩澄様と仲良くなったの?」
「ち、違うよ! 仲良くとかではなくて……ただ、お礼に」
澪が口ごもると、絃はふっと微笑み「歩澄様はね、小豆がお好きなの。今宵は少し冷えるようだし汁粉を持っていってはどうかしら」と提案した。
澪は二つ返事で絃から汁粉の作り方を教わることに納得した。
共に汁粉を作り、暖かい内に歩澄の元へと向かった。今宵評定はないと伺っていたためまだ大広間にいるか不安であったが、中からは灯りが漏れていた。
澪は障子の前に一旦座る。
「……誰だ」
宵とあって警戒しているのか、隔たり一枚の向こう側から歩澄がそう尋ねた。
「澪です」
「……どうかしたのか?」
「甘味をお持ちしました」
「甘味? 入れ」
歩澄の声は、拍子抜けといった具合だった。中に入ると、丁子油の匂いがした。恐らく先程まで刀を手入れしていたのであろう。
澪は汁粉を歩澄に差し出し、「絃さんに作り方を教えていただきました。今日のお礼がしたいと思いまして」と一つほのかに微笑んだ。
その初しい澪の姿に、歩澄の胸はうるさい程音を立てた。
「これを、私に……?」
「はい。歩澄様は小豆がお好きだと聞きました。今宵は少し冷えるようなので、暖かいものがよろしいのではないかと絃さんに薦められました」
「……そうか」
「あ、毒など入っていませんよ?」
澪はキョトンとした顔で歩澄に宣言する。歩澄は口をへの字にし「わかっている。姑息な真似はしないのであろう?」と言いながら、器を持った。
まだ熱い程で、湯気が昇っている。歩澄はそっと口をつける。甘くて上品な味わいであった。絃の味付けは、幼い頃からの歩澄の好みを受け継いでいる。それでいて澪が拵えたというのだ。心が落ち着くような気がした。
「美味いな……」
「本当ですか!?」
「ああ」
「よかったあ……」
そう安堵したように、顔を綻ばせる澪。おぼんを胸元にやり、ぎゅっと両手で抱き締めている。その姿が何とも言えぬ可愛らしさだった。
歩澄は、体温が上昇していくのを己でも感じていた。耳まで赤くなった顔を隠すかのように、器を口元に持っていったまま澪の顔を覗き見した。
澪は嬉しそうに歩澄が食すのを見ている。まるで主人に相手をしてもらいたいと請う犬のようだと歩澄は思った。
歩澄は汁粉を平らげると、器と箸を置いた。そのまま視線を澪に移し、「美味かった。……その、明日も持ってこい」と言った。
澪は一瞬首を傾げたが、「わかりました。では、明日もご用意しますね」そう言って笑った。
翌日から澪は、毎日宵になると甘味を持って歩澄の元を訪れるようになった。誰かのために料理を振る舞うことなど今までなかった。ただ、一度だけ握り飯を美味しいと言ってくれた蒼のことは忘れられずにいた。
こうして歩澄の元へ甘味を運び、ほんの少しだけ笑みを浮かべてくれるようになった。それが嬉しくて澪は毎日欠かさず歩澄の元へと向かったのだった。
「歩澄様、今宵はかすていらというものをお持ちしました。噂では聞いておりましたが、作ったのはもちろんのこと、見るのも初めてでございます」
ある日澪は、そんな事を言ってかすていらを持ってきた。潤銘郷では十数年も前から食されてきた甘味である。異国から入って来たものだが、今となっては誰もが食べたことのある人気の甘味。
澪がじっとそれを見つめているものだから、歩澄はつい笑ってしまった。
歯を見せて笑う姿を、澪は初めて目の当たりにした。緩んだ目元は優しく、くしゃっと笑えば幼く見えた。
澪の心の中にも、とくとくと鼓動を速める何かが存在し始めていた。
「そ、そんなに笑わなくてもいいではないですか……」
「ははっ、子供のように物欲しそうな顔をするものだからおかしくてな」
「そ、そんな! 物欲しそうなどとはっ!」
澪は顔を真っ赤にさせて否定した。統主の甘味を横取りしようなどと思ったわけではない。ただ、ほんの少し興味があっただけ。そう言いたいのだが、動揺した澪は何の言葉を発せずにいた。
「よい。今宵はお前が食べるといい」
そう言って歩澄は皿を澪に差し出した。
「め、滅相もない! これは歩澄様のために!」
「よいと言っているであろう。私なら毎日とて食せる」
そう言われてしまっては返す言葉もない。澪は、おずおずと歩澄を見上げ「よろしいのですか?」と尋ねた。
「ああ」
歩澄がもう一度頷いたのを確認し、澪はその皿を手に取った。輝くような美しい黄色に、上で存在感を放つ濃い茶色。薄い層が不思議で、楊枝でつつく。切り分けた時とは感触が違う気がした。
恐る恐るそれを口にする。甘くてしっとりとしていた。優しい香りが鼻を抜けていく。いつまでも口いっぱいに広がる味わい。澪は、驚いて言葉を失った。
「美味いか?」
歩澄がそう訪ねると、澪は目を輝かせて「美味しいです! こんなにも美味なものがこの世に存在するなどとは知りませんでした!」そう声を張り上げた。
実に幸せそうな表情で黙々とかすていらを頬張る澪。歩澄は、その姿を見て再び笑みが溢れた。
(甘味一つでここまで喜ぶのか……。匠閃郷の姫は不思議な女だ。しかし、姫でこれだ。他の民は食うものにも困っているのであろうな……)
歩澄は澪の姿に、匠閃郷の貧困についても真剣に考え始めていた。
そこで、絃に甘味の作り方を教えてもらおうとやって来たのだった。
「自ら持っていくの? へぇ……いつの間にか歩澄様と仲良くなったの?」
「ち、違うよ! 仲良くとかではなくて……ただ、お礼に」
澪が口ごもると、絃はふっと微笑み「歩澄様はね、小豆がお好きなの。今宵は少し冷えるようだし汁粉を持っていってはどうかしら」と提案した。
澪は二つ返事で絃から汁粉の作り方を教わることに納得した。
共に汁粉を作り、暖かい内に歩澄の元へと向かった。今宵評定はないと伺っていたためまだ大広間にいるか不安であったが、中からは灯りが漏れていた。
澪は障子の前に一旦座る。
「……誰だ」
宵とあって警戒しているのか、隔たり一枚の向こう側から歩澄がそう尋ねた。
「澪です」
「……どうかしたのか?」
「甘味をお持ちしました」
「甘味? 入れ」
歩澄の声は、拍子抜けといった具合だった。中に入ると、丁子油の匂いがした。恐らく先程まで刀を手入れしていたのであろう。
澪は汁粉を歩澄に差し出し、「絃さんに作り方を教えていただきました。今日のお礼がしたいと思いまして」と一つほのかに微笑んだ。
その初しい澪の姿に、歩澄の胸はうるさい程音を立てた。
「これを、私に……?」
「はい。歩澄様は小豆がお好きだと聞きました。今宵は少し冷えるようなので、暖かいものがよろしいのではないかと絃さんに薦められました」
「……そうか」
「あ、毒など入っていませんよ?」
澪はキョトンとした顔で歩澄に宣言する。歩澄は口をへの字にし「わかっている。姑息な真似はしないのであろう?」と言いながら、器を持った。
まだ熱い程で、湯気が昇っている。歩澄はそっと口をつける。甘くて上品な味わいであった。絃の味付けは、幼い頃からの歩澄の好みを受け継いでいる。それでいて澪が拵えたというのだ。心が落ち着くような気がした。
「美味いな……」
「本当ですか!?」
「ああ」
「よかったあ……」
そう安堵したように、顔を綻ばせる澪。おぼんを胸元にやり、ぎゅっと両手で抱き締めている。その姿が何とも言えぬ可愛らしさだった。
歩澄は、体温が上昇していくのを己でも感じていた。耳まで赤くなった顔を隠すかのように、器を口元に持っていったまま澪の顔を覗き見した。
澪は嬉しそうに歩澄が食すのを見ている。まるで主人に相手をしてもらいたいと請う犬のようだと歩澄は思った。
歩澄は汁粉を平らげると、器と箸を置いた。そのまま視線を澪に移し、「美味かった。……その、明日も持ってこい」と言った。
澪は一瞬首を傾げたが、「わかりました。では、明日もご用意しますね」そう言って笑った。
翌日から澪は、毎日宵になると甘味を持って歩澄の元を訪れるようになった。誰かのために料理を振る舞うことなど今までなかった。ただ、一度だけ握り飯を美味しいと言ってくれた蒼のことは忘れられずにいた。
こうして歩澄の元へ甘味を運び、ほんの少しだけ笑みを浮かべてくれるようになった。それが嬉しくて澪は毎日欠かさず歩澄の元へと向かったのだった。
「歩澄様、今宵はかすていらというものをお持ちしました。噂では聞いておりましたが、作ったのはもちろんのこと、見るのも初めてでございます」
ある日澪は、そんな事を言ってかすていらを持ってきた。潤銘郷では十数年も前から食されてきた甘味である。異国から入って来たものだが、今となっては誰もが食べたことのある人気の甘味。
澪がじっとそれを見つめているものだから、歩澄はつい笑ってしまった。
歯を見せて笑う姿を、澪は初めて目の当たりにした。緩んだ目元は優しく、くしゃっと笑えば幼く見えた。
澪の心の中にも、とくとくと鼓動を速める何かが存在し始めていた。
「そ、そんなに笑わなくてもいいではないですか……」
「ははっ、子供のように物欲しそうな顔をするものだからおかしくてな」
「そ、そんな! 物欲しそうなどとはっ!」
澪は顔を真っ赤にさせて否定した。統主の甘味を横取りしようなどと思ったわけではない。ただ、ほんの少し興味があっただけ。そう言いたいのだが、動揺した澪は何の言葉を発せずにいた。
「よい。今宵はお前が食べるといい」
そう言って歩澄は皿を澪に差し出した。
「め、滅相もない! これは歩澄様のために!」
「よいと言っているであろう。私なら毎日とて食せる」
そう言われてしまっては返す言葉もない。澪は、おずおずと歩澄を見上げ「よろしいのですか?」と尋ねた。
「ああ」
歩澄がもう一度頷いたのを確認し、澪はその皿を手に取った。輝くような美しい黄色に、上で存在感を放つ濃い茶色。薄い層が不思議で、楊枝でつつく。切り分けた時とは感触が違う気がした。
恐る恐るそれを口にする。甘くてしっとりとしていた。優しい香りが鼻を抜けていく。いつまでも口いっぱいに広がる味わい。澪は、驚いて言葉を失った。
「美味いか?」
歩澄がそう訪ねると、澪は目を輝かせて「美味しいです! こんなにも美味なものがこの世に存在するなどとは知りませんでした!」そう声を張り上げた。
実に幸せそうな表情で黙々とかすていらを頬張る澪。歩澄は、その姿を見て再び笑みが溢れた。
(甘味一つでここまで喜ぶのか……。匠閃郷の姫は不思議な女だ。しかし、姫でこれだ。他の民は食うものにも困っているのであろうな……)
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