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豊潤な郷【20】
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伊吹は、先程家来に言われた「伊吹様の奥方様にはあのような方が来て下さると良いですね」という言葉を思い出していたのだ。
まるで初々しい新婚のようなやり取りに、胸がざわめき鼓動は高鳴る。歩澄の女であることなど忘れて、澪に興味が沸いている自分に気付いた時には、もっと澪のことが知りたいと思うようになっていた。
食事が終わると、伊吹は澪を自室に呼んだ。二人で少し話をしたかったのだ。何の話でもよかった。澪のことを知りたかった。匠閃郷の事も、潤銘郷を初めて見て驚いた事も、伊吹は興味深そうに聞いた。
澪が嬉しそうに話すと伊吹も嬉しくなり、時に切なそうな顔をすると、守ってやりたい気持ちになった。
すっかり遅くなってしまい、伊吹は申し訳ないと澪に謝ったが、内心はとても心満たされていた。久々に上気する程の楽しい一時を得られたのだ。
伊吹自ら澪を客室へと送っていく。自室までの廊下を歩きながら、歩澄の迎えなど来なければいいのにと思っていた。
書状さえ書かなければ、わからなかった。一日だけ様子を見て、そのまま翠穣城に留まらせてしまえばよかった。そんな邪な考えが一瞬巡り、伊吹は慌てて首を左右に振った。
「いかん……澪は歩澄の女だ」
自分を正すかのように深呼吸をする。しかし、褥に横になっても思い出すのは澪の笑顔ばかりだった。明日も共に農作業をしてくれるのだろうか。そう考えると、嬉しさが込み上げ、とても眠れそうになかった。
中々寝付けないまま、鳥の鳴き声で朝の知らせを受ける。頭をがしがしと掻き、一晩中澪の事を考えていた自分に苦笑した。
仕方なく支度を整え畑に行けば、澪の姿はなかった。
(昨日は遅くまで付き合わせてしまったからな……)
まだ寝ているならそれでもいいと笑みを溢し、先に水汲みでもしていようと樽置き場に目を向けた。しかし、そこには樽も荷台もない。あの大量の水汲みは伊吹くらいにしか到底こなせない。
「まさか……」
思い当たるのは、伊吹と対等に水汲みをしていた澪のこと。走って井戸まで行くと、思った通り、澪が空の樽を持ち上げているところだった。
「何を……しているのだ」
「あ! 落様! おはようございます! 先に一人でもできることをしておこうかと思いまして」
そう言って澪は笑顔を見せた。まだ誰もいない早朝に、一人で水汲みにやってきていた澪。非力で全てにおいて守ってやらねばならぬ女人とは違い、強く逞しく、一生懸命な澪の姿に改めて感心した。
「俺がくるのを待っていれば……」
伊吹は、言いかけてやめた。澪の様子がいつもと違ったのだ。というよりも、姿に違和感があった。それもすぐに何かと気付く。
「そなた、髪が……」
不思議な光景であった。ようやく出てきた日の光に照されて、澪の髪はところどころ鮮やかな赤に変色していたのだ。その部分がきらきらと輝き、あまりの美しさについ見とれた。
「ああ……先程髪紐が解けてしまいまして、水を汲んでいる最中でしたので濡らしてしまいました」
「いや、そうではなく……何故色が……」
「髪が濡れるとこのように色が変わって見えるのです。幼い頃よりそうでした。後は、月明かりの下でも光の加減によってこう見えます」
「何とも不思議な話だな……。昨日はまったく気付かなかった」
「昨日は湯浴みの後、しっかりと水気をとり乾かしてから食事に行きました故、当然です」
そう言って澪が笑えば、美しい髪も相まって一際美しい姫に見えた。その刹那、伊吹の鼓動は激しく音を立て、きゅっと痛む。言い訳できない程、澪に惹かれ始めていた。
「美しい……な」
「そうでしょうか? ふふ、嬉しいです。歩澄様もとても褒めてくださるのですよ」
澪が嬉しそうに顔を緩める。しかし、その顔は伊吹に向けられたものではなく、歩澄を思い出しての事。それに気付いた伊吹は、胸の中をざわざわとした複雑な感情が渦巻いた。
歩澄とは恋仲である澪。当然、歩澄はこの美しい髪に触れ、肌に触れ、夜を独占するのだろう。そう考えたら、沸々と込み上げるのは嫉妬以外の何物でもなかった。
まるで初々しい新婚のようなやり取りに、胸がざわめき鼓動は高鳴る。歩澄の女であることなど忘れて、澪に興味が沸いている自分に気付いた時には、もっと澪のことが知りたいと思うようになっていた。
食事が終わると、伊吹は澪を自室に呼んだ。二人で少し話をしたかったのだ。何の話でもよかった。澪のことを知りたかった。匠閃郷の事も、潤銘郷を初めて見て驚いた事も、伊吹は興味深そうに聞いた。
澪が嬉しそうに話すと伊吹も嬉しくなり、時に切なそうな顔をすると、守ってやりたい気持ちになった。
すっかり遅くなってしまい、伊吹は申し訳ないと澪に謝ったが、内心はとても心満たされていた。久々に上気する程の楽しい一時を得られたのだ。
伊吹自ら澪を客室へと送っていく。自室までの廊下を歩きながら、歩澄の迎えなど来なければいいのにと思っていた。
書状さえ書かなければ、わからなかった。一日だけ様子を見て、そのまま翠穣城に留まらせてしまえばよかった。そんな邪な考えが一瞬巡り、伊吹は慌てて首を左右に振った。
「いかん……澪は歩澄の女だ」
自分を正すかのように深呼吸をする。しかし、褥に横になっても思い出すのは澪の笑顔ばかりだった。明日も共に農作業をしてくれるのだろうか。そう考えると、嬉しさが込み上げ、とても眠れそうになかった。
中々寝付けないまま、鳥の鳴き声で朝の知らせを受ける。頭をがしがしと掻き、一晩中澪の事を考えていた自分に苦笑した。
仕方なく支度を整え畑に行けば、澪の姿はなかった。
(昨日は遅くまで付き合わせてしまったからな……)
まだ寝ているならそれでもいいと笑みを溢し、先に水汲みでもしていようと樽置き場に目を向けた。しかし、そこには樽も荷台もない。あの大量の水汲みは伊吹くらいにしか到底こなせない。
「まさか……」
思い当たるのは、伊吹と対等に水汲みをしていた澪のこと。走って井戸まで行くと、思った通り、澪が空の樽を持ち上げているところだった。
「何を……しているのだ」
「あ! 落様! おはようございます! 先に一人でもできることをしておこうかと思いまして」
そう言って澪は笑顔を見せた。まだ誰もいない早朝に、一人で水汲みにやってきていた澪。非力で全てにおいて守ってやらねばならぬ女人とは違い、強く逞しく、一生懸命な澪の姿に改めて感心した。
「俺がくるのを待っていれば……」
伊吹は、言いかけてやめた。澪の様子がいつもと違ったのだ。というよりも、姿に違和感があった。それもすぐに何かと気付く。
「そなた、髪が……」
不思議な光景であった。ようやく出てきた日の光に照されて、澪の髪はところどころ鮮やかな赤に変色していたのだ。その部分がきらきらと輝き、あまりの美しさについ見とれた。
「ああ……先程髪紐が解けてしまいまして、水を汲んでいる最中でしたので濡らしてしまいました」
「いや、そうではなく……何故色が……」
「髪が濡れるとこのように色が変わって見えるのです。幼い頃よりそうでした。後は、月明かりの下でも光の加減によってこう見えます」
「何とも不思議な話だな……。昨日はまったく気付かなかった」
「昨日は湯浴みの後、しっかりと水気をとり乾かしてから食事に行きました故、当然です」
そう言って澪が笑えば、美しい髪も相まって一際美しい姫に見えた。その刹那、伊吹の鼓動は激しく音を立て、きゅっと痛む。言い訳できない程、澪に惹かれ始めていた。
「美しい……な」
「そうでしょうか? ふふ、嬉しいです。歩澄様もとても褒めてくださるのですよ」
澪が嬉しそうに顔を緩める。しかし、その顔は伊吹に向けられたものではなく、歩澄を思い出しての事。それに気付いた伊吹は、胸の中をざわざわとした複雑な感情が渦巻いた。
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