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ヤンデレ男の娘の取り扱い方2~デタラメブッキングデート~

65.HAPPY、BAD、TRUE

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 時間は夜の10時を回った。
 歯を磨いた後、リビングでファッション番組を視聴している結城へ声をかける。

「僕、先に寝るよ」

「ん? そう? 早いね」

 彼は前髪をカチューシャで上げ、袖まくりをして化粧水を顔に塗りたくっているところだった。
 同性で歳も同じ人間が、母親を彷彿とさせる仕草をしているのは何度見ても少し抵抗感がある。

「疲れてるみたいだ。おやすみ」

「良い夢を」

 彼のふざけて言った言葉を背に、リビングを離れる。

 ……夢を見るのは眠りが浅いからだ。
 良い夢であっても悪夢であっても、夢を見ること自体は、あまり健康に良くはない。
 皮肉ではないだろうが、出来るならぐっすり眠りたいものだ。

 今日は熱中症で気絶し、夕方も一眠りした。
 夢を見ないほどにノンレムの穏やかに意識を失いたいが、どうだろうか……。
 そもそもバイオリズムが狂ったかもしれない。寝付けるのだろうか……。

 自室で冷房を起動し3時間後に切れるようタイマーを付ける。
 電灯を消し、ベッドに転がる。

 寝付くまでと携帯電話でインターネットのニュースを閲覧していたが、みるみる瞼も手足も重くなっていく。
 すぐに抗いがたい睡魔の波へと呑まれていった。





――――もしも君が私の手の届かない場所へ行ってしまっても、私は君をいつまでも探し彷徨うだろう。

日が暮れ、夜の帳が落ち、ランプの灯りさえ一寸先を照らさなくなったとしても、如何な深い闇の中にあったとしても。

歩き、もがき、手を伸ばし、君を求め続ける。

ずっとずっと。

君という光が、この指先に触れるまで……ずっと――――





 それが明晰夢だと、すぐに理解した。
 明晰夢とは自覚のある夢中のこと。
 幻に囚われた覚醒状態。
 いかにそれが、現実味を帯びた光景だったとしても、現実にはない歪みを認識しているから。

 僕は、走る電車の中に立っていた。
 赤茶けたサビだらけの車内。
 窓はすべて割れている。吊り革は根元からちぎれて、数本しか残っていない。網棚も手摺も腐食しボロボロに崩れていた。座席の損壊も著しく、カビも生えている。床は砂とガラス片が散らばっていた。
 サビと埃の臭いがした。

 まるで廃車同然の電車。
 だが割れた窓の向こうに見える、オレンジ色の照明が灯る地下鉄坑内の景色は凄まじい速さで右から左へ流れていく。
 時折鉄が軋む音の混じる、電車の車輪も走行音を叫び続けている。
 あるいは走行に伴う上下の微振動も。

 紛れもなく走っていた。
 どことも知れない、地下鉄の中を。


 ここはいつもの、赤と黒の白昼夢ではない。
 あの空気の重々しさがない。
 駆り立てられる恐怖や焦燥感もない。
 足を取られるタールのような血溜まりの地面もだ。
 ここは妙に現実感を伴った、純然たる夢の中だ……と思う。

 半壊した出入りドアの前に、場違いな看板が立っている。
 歪曲したジュラルミンの柱が床から生え、先端にサイケデリックな電飾が付いた表示画。
 3つの案内が書いてある。

 後方の車両に向かって『HAPPY』、前方の車両に向かって『BAD』、そして割れた窓に向かって『TRUE』。

 僕は、何故かそのいずれかに進まねばならないという観念に囚われた。
 どれかを、選ばなければいけない。
 ここで立ち止まっている、あるいはここが夢の中ならば目を覚ます、そういった選択だってあったはずだ。
 しかし、選択がその3つのどれかへ進むしかない、と思わされた。

 思わされた……誰に?

 HAPPY、BAD、TRUE。
 どれかを選ぶなら……どれかを選ばなければならないなら、ハッピーを選びたい。
 ハッピーエンドを望まない人間など、いるのだろうか。

 後方車両の引き戸に手をかける。
 立て付けが悪く、酷く重い。
 足も使って壊れんばかりに強く、横へと力を加えてようやく開いた。
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