都市街下奇譚

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十二夜目『近道禁止』

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これは、とある友人から聞いた話なんですがね、そうマスターの久保田は、グラスを磨きながら何気ない気配で口を開く。客足は奇妙なほど途絶えて、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。



※※※



矢根尾俊一は白い息を吐きながら、新しく住み始めたアパートへの家路を急いでいた。新しい住みかは駅から十五分も歩かねばならず、普段は自転車を使っていたのだが間の悪い事に自転車を盗まれてしまったのだ。その手には駅前のコンビニの弁当が、暖かな熱を放ちながら揺れている。

遠いんだよな、家まで。弁当冷めちまう。

ここを突っ切れたらなと家の壁を睨み付けながら、人気のない道を足早に進む。それが目に入ったのはそんな急ぐ帰り道の途中の事だった。
正直なところ車を使って職場まで行きたかった。しかし自宅から駐車場まで歩いて十分かかる上に、職場の傍には駐車場は有料だ。仕事場の塾が駅前なのだから、矢根尾は渋々徒歩で通勤するしか方法がなかった。バスに乗ろうにも、徒歩で五分駅と反対方向に歩く羽目になる。



※※※


専門学校を辞めて大学に入りなおした頃の一人暮らしは、まだこれよりはましな暮らしだった気がする。

元々矢根尾は漫画家になるつもりで上京して専門学校に入ったのだが、絵はそれなりだと自分では思っていた。ところが、話を作るのが致命的に下手だったのだ。何度も漫画を出版社に持ち込んでは、「話が面白くないんだよね。」「話がどっかで見たんだよね。」「オリジナリティがないんだよね」と吐き捨てるように言い続けられる。それに食らいついて漫画を描く程の意欲は、元々堪え性のない矢根尾にはなかった。漫画家を諦めて親の脛を噛り大学に入り直したのも、別段は入れればどこの大学でも良かったし先なんて考えもしない。楽に過ごせれば先なんてどうでも良かったというのが、矢根尾の正直な気持ちだったのだ。そこからの矢根尾の人生は、平凡と言うには随分と下り坂な人生だった。

最初のけちはあの女が現れた事だ。

あの女とは矢根尾が、唯一若い頃に結婚した女の事だ。大人しい田舎から出てきた、世間知らずの見た目は可愛らしい女だった。しかも、国家資格を持って何時でも高給が稼げる術を持っている女。
世間知らずで物を知らないから、矢根尾の言うなりに何でも許した女は酷く便利で良かった。女は身の回りの世話から、性的な欲求まで何でも矢根尾がしたいようにさせた。
楽になる生活に堕落する矢根尾を、女は矢根尾の事を好きだと言うのに引き止めもしない。頭がいい女だと思っていたが、矢根尾が落ちぶれても一向に止めもせずにただ見守った。そして、唐突に矢根尾を放置して、家に帰ると姿を消したのだ。矢根尾が信じて待っていてやったのに、女はその後も戻らず唐突に離婚届を出せと詰め寄った。矢根尾に色々なことを教えてもらったと言うのに、矢根尾を堕落させて知らんぷりをしていたとは何て恩知らずな女だと思ったものだ。

あいつが大人しく、1号をしてればこんなことにはならなかったのに。

自分の母親は兎も角父親が矢根尾の事を見る目がかわったのは、あの女が両親と一緒に離婚したいとぬけぬけと言いに来た時からだ。女は矢根尾が両親に隠して来たことを盾にとって、離婚しろと脅してきた。

自分の体が淫乱な雌豚に躾られているくせに、俺に楯突きやがって。

最初は馬鹿な女だ、俺から離れて誰がお前を満足させるんだ?と思ったものだ。でも、何時までたっても女は戻りたいと泣きついても来ないままだった。やがて、矢根尾自身も女は戻らないことを認めるしかなくなる。
今でも昨日の事のように思い出せるあの時のあの女が、それまで見たなかで一番凛として美人に思えるのが忌々しい。あの女が最低限の物を持って引き上げた後、矢根尾は女が居なかった前の生活に戻ろうとした。ところが一度味わってしまった他人が、自分の身の回りの世話を全てやってくれる便利さは忘れられない。

料理だって作りたての暖かい物を出されるのと、コンビニの弁当じゃ違いは歴然だ。

自分で作ればいいだけだが、あの女程の料理は矢根尾には出来なかった。家はあっという間に汚れて、ゴミで埋まっていく。あの女が病気の間に一時的にゴミが溢れていたのとは、全く別物の蓄積する汚れに矢根尾は昔と同じで見ないふりをする。
そのアパートを追い出されるはめになったのは、蓄積したゴミが排水溝を何回か詰まらせ床を洪水で洗ったのが二度目を数えた後の事だった。
親の金で新しいアパートに移りアルバイトで塾の講師をしながら、矢根尾はあの女に似た女が手に入らないか何時までも思案し続ける。

「ねぇ、バック欲しいんだけどなぁ。」
「ああ?何いってんの、自分でそんなの買えよ。」

新しい女はどれもこれも矢根尾には何かを求めるくせに、自分から何かしようとはしない女ばかりだ。自分から矢根尾の部屋を掃除して綺麗に整えて、暖かい食事を作ろうとした女はあれ以来見つからないでいる。そう飲みの席で友人に愚痴を言うと、大学時代からの長い付き合いの小泉が諭すように口を開く。

「矢根ちゃん、ねえさんみたいな人は普通居ないんだよ?矢根ちゃんが変わんなきゃ。」
「俺が?何を変われっての?」
「ねえさんみたいな一生懸命やってくれる人、追い詰めたのは矢根ちゃんでしょ?大事にしてあげなかったのは矢根ちゃんだよ?相手の事を大事にしてあげなきゃ誰も矢根ちゃんと一緒にいてくれないよ?」

年下の癖に諭す口ぶりが勘に障る。小泉はいつの間にか結婚して子供がいるのだが、子供ができた途端偉そうに矢根尾に説教するようになった。矢根尾にも本当は子供が出来たことがあったが、矢根尾が諭してあの女に中絶させたと話したら小泉は顔色を変えて怒ったようだ。

「何考えてんの?矢根ちゃん、子供が出来てたんなら尚更生活改めて大人になんなきゃ駄目でしょ?ねえさんよく我慢してくれたって感謝するべきだろ?」
「うるせえな、お前にあいつの何が分かるんだよ?あいつは俺なしではいられない体に俺がしてやったんだ。」

矢根尾を理解もせずに説教ばかり。長い付き合いの友人だったのだが、酒の席で言われた言葉に逆に激怒して矢根尾は小泉に殴りかかってしまった。それから、ふっつり友人の小泉とは、縁が切れてしまった。仕方がないから謝ってやろうと電話をしても、いつの間にか電話番号まで変えてしまっていたのだ。家に行ってまで謝ってやる筋合いはないし、と飲みながら矢根尾は言葉を続ける。

「謝ってやろうとおもったのにさ、あいつは電話番号まで変えてんだよ。小泉が言うからさ、あいつにも許してやるから戻ってこいってメールしてやったら、メアド変えてやがるし。」
「矢根ちゃん、本気でそう思ってんの?」

同じくらい長い付き合いの友人の小早川が小さい声で問いかける。

「何が?」
「本気でねえさんがメールで許したら戻ってくるって考えてんの?」

目の前の小早川は以前あの女と夜道で抱き合っていたと、昔の仲間内で噂になったことがあった。若い頃から女に手が早く、矢根尾の彼女を奪ったこともある男だ。あれから随分とたったが、それを忘れた振りをして付き合ってやっているのだ。

「何で戻って来ないんだよ?俺の命令だぞ?」

飲みの席で小早川にはあの女を矢根尾が調教して奴隷にしていたことは、こっそりと教えてやった。その時の唖然とした顔は矢根尾には、かなり満足できる驚愕の表情だったのだ。

「矢根ちゃんさ?現実見た方がいいよ?ねえさんはきっと矢根ちゃんの事なんか思い出したくもないと思うよ。俺だったらそう思う。」

唐突にそんなことを言い出した小早川に、矢根尾の方が面食らう。矢根尾が人を一人調教して奴隷にしたのに驚き感心したとずっと思っていたのに、小早川は酷く冷たい目で矢根尾を見下ろす。

「思い出したくもないだろうし、下手したらトラウマになって苦しんでるかもしんないよ。本当だったら謝ってすむことじゃない事ばっかりしてたんだから。」

そう言って小早川は呆れたように溜め息をつきながら、席を立つと矢根尾を残して店を後にした。
何だってあいつらは揃いも揃ってあの女の方を持つのだろう。矢根尾は酒を煽りながらあの女の事を考える。


※※※


長い間コンビニや出来合いの弁当の世話になる生活が続いて、当然のようになってくる。いつの間にか長く付き合っていた友人は去り、新しい友人とばかり付き合うようになっていた。そんな中今の新しい住みかに移ったのは、つい最近の事だ。前の住みかは何回か家賃を入れるのが遅くなっただけで、契約更新をしないと突然通達された。しかも、敷金も礼金もゴミ屋敷を、片付けるとか言われて丸々とられてしまったのが忌々しい。親に転居の費用を頼んだが、父親からは拒否されコッソリと母親に何とか工面して貰った。
そんなことを考えながら手に下げる微かな温もりが、次第に冷えていくのが分かる。

ちぇ…せっかく弁当買ったのに、家につく頃には冷えちまうなぁ。

肩をすくめながら歩いていた矢根尾の眼に、不意に違和感が生じたのはそんな時だった。その原因を探すようにあたりを見回すと、それは案外簡単に見つける事が出来た。目の前のブロック塀に黒いペンキの様なもので一言。

『近道禁止』

意図が分からないのは、その書き込みが矢根尾の足元くらいの高さにあるからだ。こんな低いところに、それも黒で書いて誰が見るというんだろうと文字を見下ろす。
そこは矢根尾が住むアパートへ曲がる数本手前の路地だった。近道という響きが心を惹き付けるのは、楽ができるという意識のせいだろうか。
辺りは少し古い住宅地特有の細い路地だ。そこを曲がっても網の目の様な道は、きっと自分のアパートにも続いているだろう。矢根尾は好奇心も手伝って思わず、その路地奥を覗き込んだ。見た限り路地は通行止めと言うわけでもなく、何の違和感もなく普通に住宅地に続いているように見える。

行ってみるか?

禁止と書かれているのに天の邪鬼な心が、矢根尾の好奇心を痛く刺激する。子供の悪戯書きだろうとたかをくくって矢根尾はその路地に足を踏み入れた。

すげぇ…ほんとに近かった。

十五分がなんとたった十二分。ほんの三分だが道をショートカットして自分のアパートの前に辿り着き、矢根尾は今来た道を振り返る。暗がりでどう歩いたのかはハッキリしないが、確かに時計では早く帰りついた。

こりゃ、得したよなぁ。いい道見つけちゃったな。

そう思いながら、まだ少し温もりの残る弁当を片手に矢根尾は満足げにアパートの階段を昇った。
それから毎日、矢根尾は近道を使った。次第にアパートから出てあの路地に抜け出る道が分かるようになって、行きも帰りも近道を使うようになる。何しろ近道禁止とは書いてあるものの、私道と言うわけでもないし誰かの家の軒先を歩くわけでもない。歴とした公道を歩いているのだから、遠回りするよりは近い道を歩くに限る。


数日後今まで真っ直ぐ通っていた道に、また同じような高さでブロック塀に書かれた『近道禁止』の文字を見つけた。何故こんな足元に書くのだろうと、矢根尾はその文字を見下ろす。文字は子供の悪戯にしては、キチンとした書き筆で大人の字のようだ。しかし、大人がこの高さにこれを書くには体勢が難しくはないだろうか。そんなことを考えながら、再び路地の奥を覗きこむ。今度も路地は住宅地の中に細く真っ直ぐ走る公道で、眺めている矢根尾の横をすり抜けて当然のように人が歩いて進んでいく。OLらしいスーツ姿の女がカツカツとヒールを鳴らして腰を振りながら歩いていくのを眺めていた矢根尾は、思いきったようにその道に足を踏み入れた。

やった、新しい近道だ。

アパートの前で時計を見下ろすと最初は十五分の道のりが、十分しか経っていなかったのに目を丸くする。弁当はまだ暖かさを幾分残しているし、五分の短縮は大きい収穫だ。矢根尾は鼻歌混じりにアパートの階段を駆け上がった。少しでも楽になるなら、それに越したことはないのは当然のことではないか。



※※※


その後も何度か『近道禁止』にであった。普段歩いていたときには気がつかないのに、ある日突然塀や縁石に黒いペンキで『近道禁止』の文字が現れる。筆跡は大概同じように見えるが、正確に同じとは言えない。同じなのはいつも下手すると地面につくんじゃないかというくらい、足元に書かれていること。大人が書くには、地面に腹這いにでもならないと書けない位置具合だ。
次の近道を進んでみると今度はアパートまで十分が約七分になった。その次の近道では、約五分に更に道のりが短縮したのだ。矢根尾は喜んで最短のその道を使うようになった。何しろ弁当は暖かいまま口に入れる事が出来るし、朝も十分の余裕ができたのだ。近道を利用するのが、楽しくてたまらなかった。慣れてしまうまでは、だが。楽に慣れてしまうと、それが当然に変わる。もっと短い近道を探そうと自分で違う道を歩いてみたが、逆に時間は二十分になったり三十分になったりでちっとも上手く行かなかった。


※※※


「あ、母さん?俺、俊一だけど。」
『どうしたの?電話してくるなんて。』

電話口の母親の声が微かに声を落とすのが分かって、矢根尾は気が滅入る。最近の母親は電話をすると、矢根尾が厄介事を連絡してくると思っているようだ。強ち間違っていないというところが、悔しい所なのだが矢根尾には母親しか頼る術がない。

「悪いけどさぁ、また引っ越さなきゃなんなくって。」
『何で?!あんた何やったの?』

予想外の口ぶりに矢根尾は眉を潜めた。理由をいう前に何やったのは、母親のいう台詞ではないじゃないかと奥歯を噛みしめる。

「いや、更新契約しないって言われたんだよ、なにもしてないよ。」
『…何もしてなかったら契約しないなんて言うわけないでしょう?』

それも最もな意見だ。正直に言えば、ゴミ屋敷になっている部屋の下の部屋から苦情が大家に届いたのだ。ゴミの下がどうなってるか何て、正直矢根尾は気にもしたことがなかった。配水管が詰まってゴミに染みた水が、屋根裏から下の部屋に汚水になって染み出したのだ。お陰で敷金も礼金も戻ってこないどころか、下手すると賠償金まで払わされるかもしれない。

「金がなくってさぁ。」
『もう、工面できるお金はないのよ、俊に幾らあげてると思ってんの?』

ああ?と思わず不機嫌な声が溢れる。暫く前警察に勘違いで捕まった時に、警察から出るのに保釈金を払わせた事をまだ母は根に持っているようだ。結局あれは嫌疑不十分で不起訴になったんだから、無罪だと説明しても母は随分と納得しなかった。
結局母は金の工面をしてくれ、賠償金はそれで賄った。残念だがそれ以上は工面できないと言われて引っ越しは自分の金でやるしかなくなってしまった。駅近のアパートを探しても中々大家がうんと言わない。こっちが借りてやると言ってるのに、相手が矢根尾の事を勘ぐって拒否するのに辟易してしまう。

せっかく借りてやるっていってるんだから、さっさと貸せよ。

やっとの事で見つかったのは、駅から徒歩四十分もある古いアパートの一階だった。古い上にオートロックでもないオンボロアパートの利点は家賃が安い位なもので、駐車場も傍にない。やむを得ず以前の駐車場をそのまま使うことにしたが、そうなると歩いて三十分、駅まで四十分だ。こんな馬鹿な話あってたまるかと普通なら考えるが、矢根尾にはあの『近道禁止』がある。
新しい住みかから歩きながら、足元を探し回ると『近道禁止』のひとつ目が見つかった。その道を使って歩くと駅からアパートまでが、三十分になったのだ。

たった一個の近道で十分なんて最高記録の近道だな。

矢根尾は次々と『近道禁止』を見つけ出した。あっという間に住んでいるアパートから駅までは十分に短縮されて、弁当を買っても暖かいまま家まで辿り着ける。

「ってな、近道禁止って書いてんだけど公道な訳。」

飲み仲間の茂木に言うと、感心したように目を丸くした。茂木と貞友は最近の飲み仲間で、大分長い付き合いになっている。何時も矢根尾のする事に感心してついてくる、矢根尾にとっては弟分みたいな奴等だ。

「でも、禁止って事はなんかあるんじゃないすか?何も起きないんですか?」
「公道だぞ?歩いてて何にも起きやしない。まぁ、人通りが少ない気はするけどな。」
「成る程、人気が少ないから禁止って事ですかね?」

矢根尾もそんな理由なんだろうと考えていた。人があまり通らないから夜道が危険だとか、そんな理由で近道禁止。それなら何となく理解できる気がする。

「それにしても四十分が十分って凄くないすか?何処とおってんですか?」

スマホの地図アプリを開いた貞友に、地図を眺めながら矢根尾もおやと眉を潜めた。考えてみると四十分が十分ってのは、どう考えても距離感がおかしい気がする。言われて地図アプリを眺めても、何処をどう回って歩いているのか矢根尾には説明ができなかった。

「矢根尾さん、ワープしてんじゃないすか?」

おかしそうに酔った茂木が言ってくるのに矢根尾は笑いながら、そんなわけあるかと答えたものの自分が通っている道に不安が過っている自分に気がつく。


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