都市街下奇譚

文字の大きさ
上 下
25 / 111

二十夜目続『黒髪』

しおりを挟む
これどうしようかしら。

箱の中を何気なく見下ろして里津は、苦笑いしながら考え込んだ。まるで手の中の箱の中を覗くと、そこに人の頭が入っているように見える。流石に自分のものだから驚きはしないけど、こうしてみてもこんなに抜け落ちたことが信じられない。しかも、艶々とした髪の毛は美しく絹糸みたいに箱に収まっているのだ。

鬘でも作れてしまいそう。

大量の髪の毛がどんなに抜け落ちても円形脱毛も見当たらず、髪の量も減るわけではない。こうなってくると、脱毛自体に自分の意識が慣れ始めているのが分かる。しかも、枕にゴッソリと抜けることが減ってきたのも、ストレスに体が馴染んだということなのかもしれない。里津は苦笑いしながら大量の髪の毛を見下ろしながら、仕方がないと蓋をしてクローゼットに大切なもののようにしまいこむ。実際に髪が抜ける量も次第に減って入るのだから、里津もそう気にする事もないのかもしれない。



※※※



どれくらいの時が経っただろう。
ふとある日の夜、里津は眠りの向こうで室内に佇む人影を感じた。見ているのは夢の中の情景なのだろうが、クローゼットに向かって無言で立っているのはどう見ても女だ。後ろ姿で女と分かるのは、体のラインというより髪の毛が女だと告げている。里津と同じくらいの長さの艶やかで光沢のある、シットリと濡れたような美しい黒髪。それは里津に比べても格段に美しい黒髪だった。

あなたが、私と間違われている人なのね?

そう里津が囁きかけると美しい髪をした女は、低くクローゼットに向かって笑ったようだ。その女の低い笑いは、酷く里津の勘に障る笑いだった。

何で、態々私の周りに現れるの?

里津の声に女は更に笑う。女がわざと里津の勘に障るようにしているのが、その笑いには感じられて里津は女に向かって怒りの声を投げつける。

何でなの!答えなさいよ!

女は髪を見せつけるだけで、こちらを振り向こうとはけしてしない。その方が里津が悔しくて腹立たしい気持ちになると、女は分かっていてやっているのだ。起き上がって掴みかかってやりたいのに、体が言うことをきかない。しかも、目を閉じてみないようにしたいのに、瞼を閉じることも出来ないから何時までもあの髪の毛が目に入る。

何でよ、何で態々私の周りに来るの!?

ハッと飛び起きて里津はクローゼットに目を向けるが、やはり夢だったのかそこには誰もいるわけがない。それなのに里津は目が覚めても、夢の中の女に感じた激しい怒りはおさまらなかった。何故か夢の中の女は、現実に実在していてわざと里津の周りに出没しているような気がしてならないのだ。



※※※



「佐倉さんより綺麗な黒髪、初めて見たのよ。」

駆け寄ってきて告げた同僚のその言葉に、里津は衝撃のあまり言葉がでなかった。自分より美しい綺麗な黒髪の女が遂に夢から這い出してきたのだと考えた自分に、里津は言葉もなく相手の顔を見つめる。彼女は少し得意気に見える表情で、里津の顔を覗きこむみたいにして話す。

「駅前の喫茶店でお茶してたら、カウンターでお茶してる人の髪がね、本当艶々で黒々とした髪なんだけど。」

彼女のそういう瞳が何故か里津にはざまあみろと、嘲笑っているように感じるのは何故だろう。今まで自慢だったものに、更に上がいると嘲笑われるのが、とてつもなく腹立たしかった。その里津の思いが顔に出たのだろうか、相手は少し困惑したように里津の顔を見つめて黙りこむ。

「喫茶店って何処です?」

里津が静かな声で問いかけると、彼女は気を取り直したように喫茶店を教えてそそくさと決まり悪そうに立ち去った。里津は教えられた喫茶店に今日にでも行ってみるつもりだと、言うまでもなく顔にありありと浮かんでいただろう。
仕事を早退して立ち寄った喫茶店は、そんなところにあると知らなければ大通りからでは気がつかない。レトロな感じのする雰囲気のいい店で、心地よい音量で音楽が流れている店だった。でも、そんなことは二の次で里津が知りたかったのは、美しい髪の女が本当に居るのかどうかだ。自分より美しい髪の女が本当にここに来るのなら、自分の目で確かめなくては気がすまない。

「誰かとお待ち合わせですか?」

ウエイトレスが紅茶一杯で長居している里津に、気を使って声をかけてきた。流石に紅茶一杯で何時間もは悪いかと、里津は腰を上げて待ってたけど来ないみたいと言い分けのように呟く。栗毛の彼女は確かに綺麗な髪かもしれないけど、里津が気にしているのは自分と同じ黒髪の女の存在なのだ。店を出てから何とか出入りする客を見張ろうにも、この店の出入り口を観察できる場所がない。大通りから入る客を眺めようにも、反対側の通りから入ってこられたら確認の使用がないのだ。そうなると、やはり店の中で確認できるまで待つしかない。次の日は仕事を休んで、朝から店にいたけど流石に昼になって気まずくなって店を出た。次の日も同じ。職場からは連休をとるなら、診断書を出すようにと電話がかかってきていた。

そんなの後で何とかするわよ。

里津にとっては髪の事が何よりも優先なのだと、会社にも分かってもらいたかった。五日も同じことをすると自分が誰かを待ち構えているのに、店員だって気がつき初めている。流石にこれ以上ただ居続けるのは気まずくなるかもしれないと思った時、黒髪の青年が店に入って来たのに一瞬息が詰まった。

綺麗な黒髪だけど彼は男性よ、女性じゃない。

確かに驚くほど綺麗で艶やかな黒髪だけど、女性でないのなら何も問題ではない。里津の苛立ちの対象は、どんなに黒髪でも男性ではなく女性でしかないのだ。カウンターで男性の店員と何かを話している後ろ姿を、チラリとだけ見て里津は深い溜め息をついた。まるで、里津のその様子だけ見ていれば、誰か恋しい人を待ち続けているようにも見える。



※※※



一週間通いつめたけれど、結局美しい黒髪の女性には、一度も出会うことはなかった。まるで夢から這い出た女は、夢の中でしか里津には髪を見せないといっているような気がする。
一週間目の夜、留守番電話に会社からのメッセージが残されているのに気がついた。留守番電話に残されたのは二日前と昨日に何回か、最後は怒りの混じる声で解雇すると言う。里津は溜め息混じりにそれを聞いて、自分は何をやっているのだろうと視線を落とした。

たかが髪の毛に何を振り回されてるの?仕事を投げ出してまですることだったの?

答えは簡単だ、里津がしていることは間違いで、仕事を投げ出してまですることではない。そんなことは、社会人として当然だ。里津は鏡の中の自分の黒髪を見つめながら、深い溜め息と共に髪に振り回されている自分に呆れ返っている。

髪なんて、どうせ、また伸びるのよ。

長く美しい艶やかな黒髪。だけど、髪に振り回されて仕事も失って、これからどうする気なのと鏡を見ながら自分に問いかける。

切ってしまおう、そうしたら諦めもつく。

髪に振り回されるのを止めないと、これからの人生が駄目になるだろう。里津は自分にそう決意して、明日髪を切ろうと呟く。



※※※



夜の闇の中でサワサワと何かがさざめく音を聞いた。夢の底から目を覚ました里津は、見ているのが夢なのか現実なのか判断が出来ずに眺める。
クローゼットの扉がいつの間にか開いていた。スーツやワンピースのかかったハンガーの真下には、帽子が入るくらいの箱が見える。しかし、なにか違和感があった。里津はその夜の闇の中に見える光景を、息を詰めて眺め違和感の元を探す。



違和感の元は箱だった。箱の蓋が斜めに箱から外れて、クローゼットの奥に落ちているのがみえるのだ。箱の蓋は服をかけた時には、きちんと箱に乗っていたはずなのにとボンヤリする意識で考える。

サワサワサワ

何かをが摺れるような微かな音がしているのに気がついたのは、蓋が開いていると気がついたその時だった。音の出所に耳をすませていた里津は、箱を見つめながら息を殺す。その音はどう考えても髪の毛の入っている箱の中から聞こえ、今彼女は暗闇の中で息を殺してその箱を見つめている。

どうしよう、あの箱に虫がわいたのだとしたら。

それはおぞましい想像だった。丁寧に里津が拾い集めた自分の抜けた髪の毛が、いつの間にか腐り果てて虫がわく光景。捨てる決意が中々できなかったけど、これを機にあの箱も捨ててしまおう。里津はそう決意して体を起こすと、息を殺してビニール袋を取りにキッチンに向かった。自分が動く音を出して、驚いた虫が一斉に部屋に飛び出してくるのはごめんだったのだ。里津はゴミ捨てようのポリ袋を手に、そっと箱に歩み寄ると上からゴミ袋を被せた。そして、そのままクルリと箱をひっくり返して、腐って虫のわいた中身が一気にポリ袋に落ちてくる感触を想像して身構える。

あれ?

パサリとも箱から落ちる感触がないのに、里津は目を丸くして立ち尽くした。何度も激しく振っても、箱からポリ袋の中にはなにも落ちてこない。箱にはおおよそ人一人分位の大量の髪の毛が、確かに納められていたはずなのだ。

何処に…行ったの?

それはおかしな言動だった。自らでは動く筈のない自分から抜け落ちた髪の毛が、貯めていた箱の中から綺麗さっぱり消え去る。そんなことが有り得るのだろうかと里津はもう一度、ポリ袋と箱の中を覗きこむ。それでもやはり箱の中には何もない。里津は呆然と辺りを見渡し、立ち竦んだ。



※※※



「この間、佐倉さんが男の人と歩いているの見たのよ。相変わらずのあの髪で気がついたわ。」

佐倉里津の話題は時折同僚の間で上がるが、実際に顔を見たと言うことは殆どない。何時も誰かが後ろ姿で彼女だと言うのだ。あの恐ろしいほどの黒々とした髪は、佐倉里津の執念とかが籠っていそうで正直恐ろしい。髪は女の命と昔はよく言ったものだが、佐倉里津の髪への執着はそれを思い出させるのかもしれない。ただ、気になるのは同期だった女の子が、ふっつりと会社に現れなくなった事だ。彼女は佐倉里津の髪が気持ち悪いと言っていたのだが、唐突に仕事に来なくなった。


※※※


髪ですか。

自分が少し不安げに口にしたのに、久保田はおやと目を細めた。どうも、そういう話は聞いていると不安が沸き上がるのは、日本人特有の感情なのかもしれない。
しおりを挟む

処理中です...