都市街下奇譚

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五十三夜目『不能誘導』

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これは、私の友人から聞いた話なんですがね、そうマスターの久保田は、グラスを磨きながら何気ない気配で口を開く。芳しい珈琲の香りのする店内に客足は奇妙なほど途絶えて、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。



※※※



矢根尾俊一は呆然と立ち尽くしていた。安斎千奈美がやった惨劇の後矢根尾は金切り声で悲鳴を上げ続け、やっとのことで警察官と隣人と大家に助けて貰えたのだ。
凄まじい異臭の吐物とコールタールまみれで椅子に縛られていた矢根尾の姿に、扉を開けた大家と隣人は呆然として立ち尽くした。そして、我に帰った後にそれぞれにタオルやハンカチで口元を塞いで、室内の矢根尾にソロソロと警官が歩み寄る。矢根尾が汚物にまみれて身動き取れない状況なのに気がつくと、警察官は少し慌てて現場を確認しながら矢根尾の体を解放しようとして手足の手錠に気がついた。普通の人間がそんなものを大量に持っていることは早々ないから、事は大事になって警察官は更に人を呼ぶことになる。
その後の事を考えると矢根尾は、警察官に対しては苦い思いでいた。誰がやったのかと言う問いに矢根尾は迷わず安斎千奈美の名前を告げたが、結果として恐ろしいことに安斎千奈美は警察に捕まらなかったのだ。何故なら安斎千奈美という人間が存在していない。勤めている筈の塾でそんな事務員は勤務していないと告げられた矢根尾は、ポカーンとして経営者の顔を見つめた。

「いや、本当に雇ってないですよ、うちは規模が小さくて塾の先生が事務も兼任してますから。」

塾の入り口を開けるのは一番最初に塾に来た講師で、新規の入塾もその場にいる講師がしている。そういわれれば確かに安斎が、書類の手続きをしている姿を一度も見たことがなかった。いつも窓口に座っていたが、授業をするわけでもない彼女は夕方五時には帰るため一緒に帰ることもない。だが、考えてみれば夕方以降が勤務時間の塾に、そんな事務員は確かにいる意味がないのだ。そう気がついた途端に、安斎千奈美の存在に思わず背筋が凍りつく気がした。

安斎千奈美という女は、勤めている訳でもない塾の窓口に座りそ知らぬ顔で事務員のようなふりをして矢根尾と接していたのだ。他の講師達にも何人か彼女と接した者はいたが、誰もが新しい講師なのか新しい事務整理のバイトなのだろうと思っていた。経営者は経営者で塾で出会ったことはあるが、新しい生徒の家族なのかと考えていたという。

あの女が身元すら得体の知れない侵入者だったと分かって、矢根尾は愕然とすると同時に恐怖感に飲まれた。あの女は捕まえる以前に、何処にいるかすらも分からないということだ。なのにあの女は矢根尾の自宅も知っていて、仕事場も仕事の時間帯も熟知している。それを奥歯を噛み締めながら吐物とコールタールに汚れ警察の捜索で荒れ果てた室内を眺めながら、矢根尾は呆然としたまま立ち尽くす。あの女がもう矢根尾の事は諦めた、関係しないとは、一言も言っていない。もしかしたらまた姿を表す可能性も拭い去れないのだ。操作するにも名前すら本当かどうかも分からない、そんな得体の知れない女に自分は職場も住居も全て知られてしまっているという恐怖感に、矢根尾は子供のように泣きわめきたい衝動に刈られる。

どうしたらいい?引っ越せばいいのか?仕事をやめる?だけど、折角安定し始めたばかりだったのに。

何一つ予防策を見いだすこともできずに、矢根尾は苛立ちながら吐物とコールタールの掃除を始めた。どうしようも出来ないが掃除をしなければ生活も出来ないし、禁止事項の紙がまた来るのもごめんだ。だが掃除を始めると苛立ちは激しく募っていく。

何で俺がこんな這いつくばって、汚い掃除をしなきゃならないんだ。

あの女のせいだが、あの女はきっと狂っているに違いない。しかも名前はどうか知らないが、住所も知らないのだと再び考えると震え上がる。不愉快で不合理だが、安斎はもう二度と来ないと信じて置くしかない。



※※※



そう願ったのに得体の知れない人影が、矢根尾の周囲にちらついているのに気がついたのはそれからほんの数日後だった。帰宅しようとした矢根尾に大家がこの間は災難だったねと話しかけ、お見舞いがわりにメロン一玉と手製の煮物とビール迄くれたのだ。

「あの可愛い彼女と食べるといいよ、矢根尾さん。」
「え?」

矢根尾が驚きの声をあげると、大家は隠さなくてもいいんだよと笑う。もう何度も見かけてるから知ってるよ、あの彼女が来るようになってお部屋もキチンと片付けてるものねと何気なく言われた矢根尾は凍りついた。

違う、部屋の片付けは……。

禁止事項という紙が届いて矢根尾が災難にあったから、やむを得ず片付けるようになった。だが、最初の時から違和感を感じるべき事は、気がつけば沢山あったのだ。部屋に入れられた禁止事項の紙。分別されるゴミ。あの時から既に得体の知れない誰かが、矢根尾の周囲にいたのだと我に変える。楽だと気にもとめないで生活していたが、安斎のような女が矢根尾の知らないうちに部屋に入りこんでいるかもしれないのだ。

「あの、彼女ってどんな女の事です?」

思わずそう聞き返した矢根尾に、大家は初めて矢根尾の顔が目に見えて青ざめ凍りついていることに気がついた。もうずっと前から自分は得体の知れない何かに、ずっと付きまとわれていたのだと知った矢根尾はその場に崩れ落ちそうになりながら大家の話を聞く。黒髪の綺麗な顔をした女性で、会うと何時も会釈をしてくれると大家はその女の事を話した。女は矢根尾が在宅しているだろう時間にも入っていったから、てっきり彼女なのだと思っていたと言うのだ。つまり女はアパートの合鍵を持っていて、尚且つ矢根尾の生活パターンをよく知っている。そう考えた瞬間、矢根尾は違和感に再び教われた。

俺が居るときにも来てる?!

最近だけなら安斎のことだとも思えるが、安斎は黒髪ではなく栗色に紙を染めていたのだ。勿論安斎のもとの髪の毛が、黒髪の可能性は捨てきれない。とは言え髪の色だけを考えてしまうと、安斎とは別のもう一人の女が矢根尾の周囲に忍びこんでいる事になる。それを考えると気分が悪くなった。矢根尾が自宅に居る時に姿を見せて、ドアにへばりついて中を伺う女の姿を思い浮かべたのだ。

「どうする?矢根尾さん、鍵変えようか?」

大家が心配そうに口を開いたのに、矢根尾はハッとしたように我に帰りその話に飛び付いた。一先ず自分の家の中に入られなければ、少しは安堵して暮らせるというものだ。先日の事もあって大家は矢根尾には資金の負担を求めなかったのも、幸いに矢根尾は早々にドアの鍵を取り替えて貰ったのだった。

これで一先ず家の中は安全だ。

安堵しながら新しいドアの鍵を見つめ、今度は簡単に女を連れてこないようにするべきだと矢根尾は自分の中で呟く。会うなら外で、手料理は遠慮、それに限ると矢根尾はドアを見つめながら決心した。



※※※


霞んだ意識の中で、何処か遠くから人の気配がした。
ベットの中に自分の体が居るのを感じたから、恐らくこれは夢なのだと矢根尾は頭の中で呟く。歩き回る足音に紛れて時折その人の気配が、矢根尾の顔を覗き込んでいるようだ。

ダメになれ

そんな囁き声が聞こえて、矢根尾は眉をしかめた。女の声だがその声は酷く嗄れて聞き取りにくい。何を駄目にしろというのか、矢根尾は眠りの中で問いかけようとする。自分が居るときにも来るという女がこれなのかと夢うつつに考えるのだが、何故か目が覚める気配がない。瞼が重くて開かないのは、これが夢だからなのか、それとも金縛りなのか。

ダメになれ、不能になれ

不能と言われて一瞬何を指すのか理解できないが、次第に矢根尾は何を言われているのか頭が冴えて行くのが分かる。何度も覗きこんでいるのは、部屋の中を繰り返し何かを呟きながら歩き回っているからだ。そして、矢根尾に近寄った瞬間、耳元でダメになれ不能になれと底冷えのする声で恨みがましく囁く。これは初めてのことなのだろうか?それともこれまでにも何度も繰り返されて来たことなのだろうか?開かない瞼の向こうで歩き回る嗄れた声は、安斎のものとは違っていて矢根尾は背筋が冷たくなる。この声の主がずっと前からここにいたんだと考えると、鍵を変えたくらいでは何も対処になっていなかったのだと気がつく。それに気がついた瞬間、矢根尾は冷え冷えとする声が耳元で呪詛を続ける声から逃げ出した。勿論体が動くわけではないから、逃げるのはたった一つしか方法がない。
そう、寝たのだ。
ボンヤリする頭で覚醒してから、矢根尾は暫く自分が見た夢の事を考えた。老婆のような声で囁かれる言葉の意味を考えると、薄気味悪いよりも何だか腹立たしい。夢だと忘れればいいだけかもしれないが、不能になれはどう考えても指しているのは一つしかないような気がするのだ。



※※※



不能ってあっちの事ですかね?

思わず問いかけた自分に、久保田はそうでしょうかねと言葉を濁す。言葉を濁すという辺り久保田も同じものを想像している証拠なのだが、それより何よりやはり話の男は鈍いというか詰めが甘いというか。鍵を変えたのに誰かがいることの方が問題ではないのだろうかと、自分は首を傾げる。もしかして、本当に夢の話なのかもしれないが、以前から忍びこんでいるらしい黒髪の女に、コールタールカレーを作る女、最後に夜中に部屋の中を歩き回る女と三人も身の回りに動き回っていると思えるのは自分だけなのだろうか。ある意味かなり図太いというか鈍い男なのだろうが、ここまで散々な目に遭わないとまともな人間らしい生活も出来ないのも流石に憐れな気がする。そんなことを思わず心の中で呟いた自分に、久保田はある意味面白い人間ですよねと何気なく呟いた。
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