都市街下奇譚

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六十三夜目『妖精の喫茶店』

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これは、私の特別な友人から聞いた話なんですがね、そうマスターの久保田は、グラスを磨きながら何気ない気配で口を開く。芳しい珈琲の香りのする店内に客足は奇妙なほど途絶えて、その言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。



※※※



随分昔の事。
もうかれこれ二十年以上も前になるかもしれない。
街の西の外れの丘の中腹に、一件のこじんまりした喫茶店があった。経営していたのは日本人の夫に外国人の妻。そんな夫婦でやっている小さな喫茶店。そこは不思議と誰でも安心して一息つけるような自宅の一部を増築して始めた店だ。
マスターは紅茶や珈琲にとても詳しく、茶葉の買い付けの為に時折海外まで行くような凝り性。奥さんは素朴な焼き菓子から本格的な生ケーキやパフェ等も手際よく作り出す料理上手。しかも出されるものは和菓子や和食までと幅広く、何時行っても誰か客が長居をしているような不思議な店だ。行く度にもっと町中でやればよかったのにというと、マスターは和やかににこやかに笑う。

「私は一ヶ所に根付いた店をやりたくてね。アリーもそうなんだ。」

不思議なことを言うものだと思うが、確かに街中でこんなにノンビリ寛げる店にするには客になる人が多すぎて難しいかもしれない。街から外れた丘の中腹だというのに、こんなに客が来るくらいだから街中では待たずに座れなくなるかもしれない。
そこはそんな不思議な魅力のある喫茶店だった。
今はもうないのが不思議な位、何時でも客がいる店で名前は『苣木』と書いて『ちゃのき』と呼ぶんだ。

「珍しいかい?植物の名前なんだけどね、音がいいと思ってね。」

茶樹を転じてね、苣木はチシャの木のことなんだよ。とマスターは笑う。チシャの木がどんなものかは知らないが、お茶のいい香りのするこの店にはよく似合う名前だ。
夫婦には奥さんによく似た顔立ちの一人息子がいて、時々元気よく店に駆け込んで来たりもする。頭のいい物覚えの早い息子で、一度会った客の事は忘れないなんて事を言ったりも。そんな二人にとって宝物の息子は、時々気まぐれに暇な客の相手をしたりする。

「うちの店にはね、妖精がいるんだよ。」

マスターが笑っている横で、少年はさも当然という風にそう言う。不思議な客の長居する喫茶店に、妖精だなんて話が出来すぎていると思うだろう。だが、その言葉を信じたくなるような不思議な店なのだ。
マスターは今時めずらしく有線の音楽ではなく、様々なレコードをかけている。今日も次にかけるレコードを片手にわざわざカウンターから歩いて出てくるのだ。

「ねえ、おじさん、妖精見たことある?」

小学生になったばかりの一人息子はキラキラした瞳で、内緒話でもするみたいに声をかけてきた。おじさんと呼ばれるのは三十前の自分としては心外だが、この年の子供からすれば父親と年が近い男は皆おじさんなのだろう。見たことはないと言うと少年は得意気に話す。

「妖精はね、いい匂いのするお茶とお菓子が好きなんだよ。」

それなら確かにこの不思議な店は条件にピッタリだと言うと、少年は得意気に微笑む。

「それにね、妖精はね、レコードの音楽が好きなんだ。」

それでマスターはレコードをかけるんだねと言うと、少年は更に得意気に微笑みながら頷く。
自分も何時かこんな感じの店をやってみたいものだと内心思う。実は今のところ居酒屋とバーの経営はしているのだが、酒を中心に扱うとどうしても空気が殺伐とする。だからといってはなんだが、この店を手本に店をやりたくて足しげく通っている訳でもあった。

「妖精がいる家はね、色々なことが上手くいくんだよ。」

それは羨ましいなと呟くと、少年は嬉しそうに笑う。やがて利発そうな少年はカウンターの横から繋がる自宅の奥へと姿を消した。妖精か本当なら一度見てみたいものだなと言うと、マスターはおかしそうに笑いながら言う。

「姿を見たら駄目なんだよ。姿を見られるとその家から出ていってしまうんだとさ。」

アリーの実家の方の言い伝えでね。とマスターは和やかに笑いながら話す。古くから家を守る妖精のことで、ティーポットなんかの中にいると言い伝えられているという。妖精の住むティーポットでお茶をいれると甘く芳しいお茶が入れられるらしい。だから、ティーポットを茶渋なんかついてないくらいに磨きあげて綺麗にしておかないと駄目なんだよとマスターは笑いながら磨きあげられたティーポットに湯を注ぐ。そんなことを当然のことのように笑いながら話す、そこはそんな不思議な店だった。



※※※



あれから何年もこの店に通いつめているが、マスターも奥さんも殆ど変わりがない。店は何時もノンビリ寛ぐ客が何人か長居をしていて、相変わらずピカピカに磨かれたティーポットで芳しいお茶を入れている。店で変わったのは一人息子がだいぶ成長して、どうやら高校生になった事くらい。
眼鏡をかけたが背は高く母親似の顔立ちは、整っていて中々の男前だ。時折同じ制服の同じ年ぐらいの青年達とじゃれるように笑っているのを見ることがある。前のように店に駆け込んできて客と話をすることはなくなったが、目が合うと軽く頭を下げてくれたり。妖精の話はもうしないのだろうが、まだ信じてはいるかもしれない。そんな風に昔と変わらない紅茶色の瞳を見ると思うのだ。
こちらの変わったことと言えば、手広くやっているつもりはないが、自分でも同じように喫茶店を始めたくらい。こことは違って駅前の通りを少し入った、あまり人目につかない場所。儲けよりも、この店のような雰囲気の店にしたくてと話すとマスターは嬉しそうに笑う。そうして、ならこれを一個お祝いにと新品のように綺麗に磨かれた白磁のティーポットをくれた。

「妖精はね、夜の間は中で寝るから開けないように。」

そんなことを冗談めかして話すマスターに、それじゃ夜間の営業が出来ないねと笑う。すると、そういう時はね、事前にポットに営業時間を教えとくのさとマスターが言う。



※※※



そんなわけでポットのひとつを頂いて、自分の始めた喫茶店は大盛況とまではいかないが穏やかないい店になったと思う。自分の店にいる時間が増えて、あの店に行く時間がとれずにいる内にやがて時が過ぎて不思議な店は火事で失われた。残酷な事にマスター夫婦はその日強盗に入られ殺されたと言い、犯人が証拠隠滅のため火を放ったと考えられたことだ。あの店にいたポットの妖精も何処かに旅立ってしまったのだろうと、どこか寂しい気持ちになった。あの息子は今頃どうしているのだろうか。そんなこと思いながら店にポツンと残された白磁のティーポットをみつめる。そんな時だ、唐突にカランと音をたてて店の碧のドアが開いた。思わずドアに視線を向けたがドアの前には誰もおらず、しかもドア自体が開いていない。この店は駅前に近く夜遅くまで営業しているからドアに鍵がかかっているわけでもなく、勿論今もopenと札がかかっている。店の中には丁度客足もないから、誰かが出ていったわけでもない。

なんだ?

何となく不思議な気分でドアを見つめている。ホール担当のバイトは先程最後の男の方が帰ったばかり。バイトは裏の通用口を使うから、表のドアは使わない。何故か頭の中で愛想の良いバイトの男の顔が浮かんで、笑顔を振り撒いているその姿が勘に触る。そんな風に感じたことなど今まで一度もなかったのに、バイトの男の笑顔が作り笑いな気がして仕方がない。何気なく白磁のティーポットを眺めると、何時もより薄汚れて見えるのに気がつく。

昨日も磨いたのに…

思わず手に取り再びティーポットを丁寧に磨きながら、あの男のことを頭の中で考える。最初にバイト募集に電話をして来たのは女性だった。丁寧でしっかりした口調、何かキビキビとした活動をする仕事についていそうな気配の声。その女性がバイトに来るならと思ったら、バイトをしたいのは当人ではないと躊躇いがちに話した。面接に現れたのはいい歳をした男で、正直なところ自分で電話をして来なかったのが不思議だ。やりたい仕事だとして、他の人間が電話をして面接に来るものだろうか?高校生だって、それくらいの電話はしてくる。それでも男を無下に扱わなかったのは、電話をして来た女性の丁寧な懇願に近い声のせいだろう。そして男は塾の講師をしていたから、対人は問題がなく穏やかな仕事がしたかったと話した。

確かに対人は問題ないように見えるが、男女差がある気もする。

思えばあの男は女性客にばかりオーダーをとりに行っているような気がする。それを思うとジワリと嫌な不快感が心の中に広がっていく。掃除や空いたグラスや皿を洗う姿を見たことがない。テーブルを拭いたりする姿も見たことがなく、見るのは女性客と今度の見に行こうと雑談をしている姿くらいだ。

何でこんなこと、急に気がついたんだろう…

白磁のポットを磨き終え心の中で呟くと、何故か目の前の白磁が光を瞬かせたような気がした。あの店の息子が言っていたではないか、妖精がいる家は色々と良いことがあると。外国生まれの妻女の故郷の言い伝えで、姿を見ると何処かに行ってしまう妖精。眠るのは白磁のポットの中で、ポットは磨いておかないとならない。

妖精がいる家は、色々と上手く行く……

まるであの男は良くないとポットに言われている気がして、思わず黙りこんでしまう。
そんな筈はないと考えたが、それからほんの数日後常連客の一人から男が絡んで困ると訴えられた。しかも、もう一人の女性のバイトも同じだと言うから、唖然としてしまう。あの電話の女性の必死の思いも、男には全く通じていなかったということだ。男に事実を追及すると逆に悪態をついて去っていった。お陰でそれ以上の被害はないが、その矢根尾という男はその後も時折店に現れて一騒動巻き起こすトラブルメーカーになった。
後に友人から妻を虐待して離婚したのは耳にしたが、あの時あんな風に激しくあの男を嫌悪した理由は正直なところ説明ができない。



※※※



今でも白磁のティーポットは毎日丁寧に磨かれている。時折磨いた筈なのに何故か汚れて見えることはあるが、そう言う時は注意するように心がけている。

「もっと大通りに面した店にすればよかったのに。」
「いいんですよ、これくらいで。長く土地に根付いた店にしたかったんでね。」

ポットには営業時間は伝えてある。特殊な店ではあるが、何時でも良いお茶と菓子の香りのする、レコードの音楽が流れる店であるように心がけて。勿論閉店後には、けしてティーポットの中は覗かない。



※※※



それって、この店の事ですか?

自分の問いかけに、久保田はさあどうでしょうと答えを濁した。しかし、同じような雰囲気の店があったとは意外な気がするのは自分だけだろうか。何処かポツリの店にはない雰囲気を感じるのは、もしかしたらその妖精のせいかもしれない。そう言うと久保田は何も言わず、白磁のティーポットに湯を注ぎ始めていた。
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