都市街下奇譚

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八十六夜目『しえん2』

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ほんと、こういう話が好きなんですね?そうマスターの久保田の横に出てきた鈴徳良二が、自分に向けて呑気に口を開く。たまに客足が途絶え暇になるとフラリと厨房から顔を出す彼は、東北出身の海外の調理師コンクールに入賞したこともある男だ。白磁のティーポットが戸棚で見守る中、久保田は横でグラスを磨き、客足は奇妙なほど途絶えていてその言葉を耳にしたのは自分ただ一人だった。



※※※



早瀬亘は都市化の中規模出版社の営業をしている。営業部になったのは一年ほど前だが割合性にあっていたらしくて順調に仕事をこなしていて、書店や他の出版社との情報交換も上手くこなしていた。そんな矢先出会ったのは、大型書店の店員の千倉奈保という女性だ。何気なく会話を交わした切っ掛けは煙草の香りだった。と言うのも煙草というものは独特の臭気を持っていて、煙草を吸う人間はその煙草の種類まで分かるのだ。亘はヘビースモーカーではないが、少し特殊な煙草を吸っていて、周囲で同じ臭いをさせている人間に初めて出会ったから気になった。ところが奈保は煙草は吸っていないと首を傾げて、奇妙な表情を浮かべる。

嫌悪というか、失望というか…………

その表情がとても気になって、その後も声をかけていたのだが、ある時突然奈保は書店から姿を消してしまった。何度か彼女の同僚に声かけてみたが結局奈保は仕事を辞めたとしか分からないまま、数ヶ月が過ぎていく。まあ別段気にすることでもないのかと諦めかけた時、奈保と再開したのは偶々タイミングがあったということなのだろう。
偶々コーヒーショップで再会した彼女に亘から声をかけ、心配してたんだと話すと彼女はどこか疲れた様子で微笑む。つくづく亘の興味を惹き付ける顔をする奈保が気にかかり、それが連絡を取り合うことに繋がって、一ヶ月もするとお付き合いに変わったのはある意味運命だったかもしれない。
最初の時は煙草を吸ってないと話した奈保は、再会した時には煙草を吸い始めていた。
理由を聞いたら彼女は少しストレスがあってと微笑むばかりで、ハッキリとした理由は教えてはくれないが自分も吸い始めた理由なんて答えられない。最近では嫌煙家が多いし禁煙が社会の流れだから今になって吸い始めるのは珍しいが、ないとは言えないと思う。電子タバコなんてものもあるし、それほど気にする物でもないかと亘は考えたのだった。
そこから亘と奈保は度々コーヒーショップで顔合わせているうちに、やがて正式にお付き合いを始めることにしたのだ。そうして少しずつお付き合いを深めている矢先に、ふと扉を開けた室内に充満した臭いに亘は首を傾げていた。
独り暮らしのワンルームマンションの一室。
他に誰がいる訳でもないし、勿論それは煙草の匂いではない。
奈保と別れて帰宅した室内に充満している臭いに、亘が気がついたのだ。だが見渡しても室内は何も変わった様子はなく、ただ香ばしい様な、はたまた焦げくさい様な不思議な香りが室内に満ちている。また母が来て勝手に掃除でもして料理でも作っていたのだろうかとも僅かには思ったが、その様子でもないし焦がすような失敗をする母でもない。一先ず臭いを嗅ぎながら、そのもとを探すが一向に埒が明かないのに亘は溜め息をついた。

もしかしたら近所でバーベキューでもしたのかもしれない。

ふとそう思うとそれが当たっているような気がして、彼はなぁんだと呆れた気持になった。気にしても無駄な話で周囲はどちらかと言えば個人住宅の方が多いのだからそれは十分にあり得る話だ。それに最近になって近くの一番の豪邸にもどうやら人が定住した風でもあるし、あの破格に広い庭ならバーベキューなんて余裕だろうから。そう考えながら同時に何処も窓も開いてないのにと疑問も感じている。兎も角亘は換気扇を回してその臭いを緩和しながら煙草を咥えていた



※※※



また暫くして亘が帰宅して扉を開けると、同じように室内には臭いが充満していた。またバーベキューと言うには歩いて帰ってくる最中、激しい雨に濡れ鼠になっていて雨は朝から降り続いてもいる。ベランダでバーベキュー?この激しい雨にベランダでバーベキューするくらいなから、焼き肉を店に食べに行った方が早い。それに臭いは先日よりかなり強く、香ばしいよりも焦げくさいというのがよく似合うほどだ。
思わず窓を開け放ちたくなるほどの亘は慌てて臭いに辺りを見回してみるが、臭いのもとは相変わらずわからない。どこが臭いが強いかどうかもわからないし、完全に室内に充満している。

変なの、何だよ。これ。

亘は訝しげに首を傾げる。後考えられるのは自分の吸った煙草が何かを焦がしているとか?そう思ったけれど亘は吸い殻をある程度纏めていてから棄てていて、そのまとめるための専用の缶の中身は棄てたばかりでたいして何もない。周囲は焦げた様子もないし、この臭いのもとになるくらいの臭いをあげるものはない。そして換気扇を回しながら煙草を咥えて、亘はどうしたもんなのかなと考え込んでいた。

今のところ燃えてるものはないし、臭いが充満してるだけ…………

マンションの下の最からの何か上がってきてるとか。様々なことを想定してみるが、対処できそうな事は今のところ無さそうなのに溜め息をついた。何しろ続いても何処が原因なのかわからないのだ。原因の特定ができなきゃ、対処のしようもない。
そう思ってはいるのだが、それから臭いは頻繁に起こり始めていた。必ず帰宅して扉を開けると臭いだけが充満していて、自分の吸う煙草以外のあからさまな焦げ臭いにおいが酷く鼻につき、亘はは日に日にそれが強まるの感じて気分が悪くなる思いだった。何かコンセントでも漏電しているのではないかと休日に見れる範囲のモノを丹念に確かめてみたが特に異常はない。漏電で焦げてたらとっくに火事になってそうなものだ。しかも臭いだけで煙は一つも充満していないから、亘は不快感を強めている。友人も連れてきたが、友人にはその臭い自体よく分からないようで亘に向かって亘しか感じてないんじゃないかなんて事を笑いながら言う始末だ。

俺だけに感じる臭い……

冗談混じりに奈保にその話をしたら奈保は何故か顔色をサッと変えて、突然それはよくないと言い出したのだ。良くないってなんなんだと思うだろう?そうしたら奈保は何故自分が煙草を吸い始めたのか、暗い顔で語り始めたのだ。
奈保が自宅のクローゼットで感じた、前の彼氏の服に染み付いた煙草の臭い。それは何時まで経っても薄まることもなく消臭剤も効果を見せないで、何時までも奈保の周囲にまとわりつく。やがてそれはあからさまな怪異として、奈保の家に泊まりに来た親友を巻き込んだのだ。

「巻き込んだって…………。」

親友の中村夏穂は奈保の寝ている隣で遺体で発見され、犯人は未だに分からない。奈保は暫く仕事も出来ず実家に籠ったのだというのだが、まとわりつく紫煙の臭いは未だに奈保の周りに漂っていて奈保は堪えきれずに煙草を吸い始めたのだという。

「何で……?」
「この煙草……ちょっと珍しいでしょ?」

臭いで相手の動向が分かるなら吸わない方がと思ったのだが、そうなると何時も自分のものではない臭いに怯えて過ごす事になると奈保は暗い声で呟く。臭いに怯えて逃げ回るのに疲れたから、臭いなんか分からなくなった方がいい。その結果彼女は見よう見まねで煙草を吸い始めたのだと言う。今ではこの煙草と臭いの限定も出来て、自分の周りにある臭いと同じ銘柄も分かるから臭いに怯えることもなくなったと乾ききった瞳で囁く。

「同じ煙草を吸ってる奴が犯人だと分かるし、安心したの。」

安心ってなんの冗談だよと笑いたかったのに、暗く沈んだ顔で話す奈保に亘はそれ以上の言葉が出てこなくなってしまっていたのだ。結局不安は嫌がおうにも増す結果になってしまった。何度探しても臭いの原因はわからないし、臭いは日に日に濃く強く部屋に残るようになっていく。

まさか事故物件じゃぁねぇよな?普通に、相場の家賃だったぞ?

そう思い不動産屋にそれとなく連絡してみたが、どうやらそれも杞憂だったらしい。ただただ臭いだけが強くなっていく。もう焦げ臭いとしか言いようのない臭いが鼻に残り、いつもその臭いが付きまとっているかのようだった。そして、あんな話をされたせいもあって亘は、次第に奈保から距離を置くようになっていた。何しろ目の前で人が殺されているのに寝ていて気がつかなかったと彼女は言うが、それは正直とても恐ろしい事だと思うのだ。そしてそれは解決もしていないのに、彼女はそれから目をそらして生きている。会わない時間が伸びて、やがて電話をすることもなくなり、恐らくこのまま自然消滅するのではないかと薄々亘は考え始めていた。
そんな気分で過ごしていたある日の事。
帰宅して扉を開けると一際強い焦げ臭さに吐気がした。咄嗟に息を止めて一気に部屋を突っ切って走って窓に駆けり、窓を前開にして顔を突き出すと、ブハァ!!と深呼吸して外の空気を吸い込む。空気は煙のような濁りは何一つ見えないのに、ただ焦げ臭い。息ができない程に焦げ臭い室内に吐き気をこらえながら振り返ったその視線の先に、ふっと居る筈のない人影が見えた。

あれ……?あれって……。

彼は視線に一瞬映った姿に首を傾げてしまう。奈保のように見えたが既にそこにはいない人影は、それこそ煙のように室内から消え去っていて室内には誰もいない。玄関のドアを開けっ放しにしていたのに気がつき、外気で焦げ臭さが散った室内を横切りながら亘は不安が心に忍び寄るのを感じ取っていた。

奈保は本当に気がつかないで寝ていたんだろうか。

些細な疑念が煙草の臭いと結び付いて、この煙草を吸っている人間が犯人だと呟いた暗い瞳を思い出す。珍しい煙草の臭い、一緒の煙草、犯人が吸っている煙草。
煙草の臭いは喫煙者なら嗅げば銘柄が分かるし、亘がこれを吸うようになったのは大学時代の友人と塾で講師をしていた時にアルバイトの先輩が吸っていたからだ。一際長くて少し外国風で洒落ているように見えなくもないそれを咥えて、アルバイトの先輩は別れた妻の話をした。

少し不思議な女で……煙のように消えたんだ。アキは…………

紫煙を燻らせてそんなことを呟く先輩を眺めながら、大人っぽいと感心して自分も真似をした。その後先輩とは疎遠になったが、何で今になってこんなことを考えているのだろう。何故か震える足でドアに歩み寄ってあがり框に素足で降りて、そっとドアの外を見渡そうと頭を出した瞬間、ゴヅンと鈍く硬い音がして視界は射干玉の闇の中に飲み込まれていた。



※※※



耳元でパシャパシャと何かが水音をたてている。水を出しっぱなしにしただろうかと虚ろな頭で考えるが、自分の体にもそれがかけられて不快な臭いにつつまれた。頭を打ったせいなのか体を動かすこともできないが、水音が終わって何かが嗅ぎ慣れた煙草の臭いをさせて近づいてくる。

「あんたのせい……。」

その声は確かに聞き覚えのある千倉奈保の声で亘は息を詰めた。彼女が言う特殊な煙草の臭いをさせていたから、千倉奈保は自分を親友を殺した人間だと思い込んだに違いない。しかも自分はその話のせいで彼女から遠ざかって、余計に疑惑の種を膨らませてしまった。そうとしか考えられないが、彼女は何をするつもりで

カチッカチッ

聞きなれた音だった。何度も使っていて聞きなれた音が、頭上で繰り返されているのをボンヤリとしながら聞く耳に、これはヤバいと本能が囁く。体を包んでいるのは嗅いだことのある臭いだが、そう頻度がある訳じゃない。だけど、それと炎が結び付くのはヤバい。

「あんたのせいよ。あんたがわるいの。」

呪文のように彼女は低く暗い声で繰り返したかと思うと、彼のモノだったジッポを灯していた。ヤバいと繰り返すが体は痺れているようで動くこともできない。

「や………やめ、ろぉぉ…………。」

そう低く呻きながら声を出した瞬間、亘の物だったジッポが奈保の手から離れて自由落下を始めていた。身を焦がす赤く熱い形のない炎の舌の中で早瀬亘は、確かに女の笑い声を聞き、そしてあの強く焦げた臭いを嗅いだのだった。



※※※



放火及び暴行・傷害、そんなものを担当する一課で、時々こんな事件に触れると溜め息をつきたくなるなと風間祥太は内心で思う。目の前では顔の半分が包帯に包まれて、どこか上擦って掠れて聞こえる声で同じことを繰り返す患者の姿がある。何度目かに繰り返される彼の話を聞いていた風間祥太は、彼の願いに分かりましたと囁くように言って病室から滑り出た。後輩の庄司陸斗がそっと近寄り、眉を潜める。

「また、千倉奈保だって言うんですか?」

まぁなと無表情になった風間祥太は溜め息をつく。病室の中で語り続ける顔に火傷をおった若い男の前には、精神鑑定のために話を聞いている医師の姿があるに違いない。
 
「自分でやったのに気がつかないんですか?千倉って子はまだ入院してるんですよ?」

その言葉に風間は溜め息をもう一度つく。確かに千倉奈保は、中村夏穂殺人事件のショックで入院治療を受けたままで退院の目処はついていないし、外出もなにもした形跡はない。ただ早瀬亘の話にも矛盾が幾つかあって、答えがでないことがあるのだ。早瀬は何か液体をかけられて火をつけられたというが、実際は違う。



※※※



瞼のしたの眼球はどうなるかわからない。顔は火傷したが、思ったよりは軽いと言うからかなり運が良かったのだろう。
亘はふと眼を覚まして、その表情がハッとしたように恐怖に歪む。

焦げ臭い!!!あいつだ!!!またあいつが!!!



※※※



…………誰なんですか?その女の人

思わず口に出た言葉に良二はさあ誰でしょうねと笑う。それに臭いに敏感なんて話はよく聞くが、煙草の臭いにそんなに差があるものなのだとは知らなかった。

あ、俺も吸わないけど、そうらしいですね。

料理をするのに臭いがわからなくなるからと言う良二がそういうのに、自分も吸わないからなぁと考え込んでしまう。それにしてもそんなに臭いで個人が特定出来てしまうなんて、ある意味臭いも個人情報なんですねと何気なく言うと、久保田はいい匂いならいいですけどねと長閑に答えたのだった。
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