GATEKEEPERS  四神奇譚

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第三部

第七幕 所在不明

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それはそこにいる筈のない姿ではあったが、自分の目は確かに見ていた。そう思って駆け寄った筈の背中がまるで淡雪のように空気に溶けて、黄色い花弁に変わって飛び散ったのに義人は思わず立ち尽くす。そこにいる筈のない後ろ姿だと頭の何処かでは理解していたつもりだが、それでも見た瞬間に駆け出してしまったのは仕方がない。

父さん…………

既に五年も前に死んだ筈の父親の背中。ここが三途の川の河原なら、もしかしたら死んだ父がいてもおかしくないなんて心の何処かでは考えてしまったからかもしれない。
実際に義人の父親は山岳写真の撮影中に突然起きた大規模の雪崩に飛行機ごと呑み込まれ、遺体すら手元には帰ってこなかった。帰ってきたのは父が使っていたカメラの一台だけで、他の乗組員共々に永久に溶けることのない雪の下できっと眠っている。何しろ救助しようにも乗っていた飛行機ですら粉微塵になっていて、機体の破片と乗っていた人の持ち物しか見つからなかった。それほどの規模の雪崩に、一瞬で全部が飲まれてしまったのだ。

カメラが見つかっただけでも幸運だった。

そう思うしかなかった。そして手元にはカメラの中に残っていたのは銀白の雄大な山麓の景色に、ベースを張る仲間と過ごす父親の姿。飛行機から撮りためる自然の造形。それを写真に残すのが父の生業だったのだから、当然の写真なのに酷く雄大で美し過ぎて泣くことも出来ない程の写真ばかりだった。それに遺体がなければと期待したくても自分にこの力が宿ったから、義人は父のことを完全に諦めるしかなかったのだ。菜の花畑でその姿を見るなんて有り得ないと思いたいが、冗談ではなくここがそう言う場所なのだとしたら。

もしかして……本当に…………僕らは死んだのか…………

そう考えながら見たと思った筈の父の背中を、もう一度思い浮かべてしまう。菜の花畑には似つかわしくない冬山に居るような厚手の服。最後の写真に乗っていたのと同じ色の上着の背中は、どこを見つめていたんだろうと思う。同じようにこの菜の花畑が見えているのか、父にはあの美しい山が見えているのかと考える。そう深い溜め息をつきながら、後から来る筈の忠志に謝ろうと義人は振り返った。ところがそこにはただ黄色に揺れる一面の花畑だけで誰もいないのに、義人はそのまま凍りつく。ほんの数秒前まで一緒に並んで歩いていた筈なのに、ほんの一瞬離れただけなはずなのに、忠志が忽然と消えてしまった。

いや、もしかして消えたのは僕の方なのか…………。

音もない風に揺れるだけの辺りをグルリと見渡しても、人の気配どころか生き物の気配すら感じ取れない。失敗したと心の中で鋭く舌打ちしながら、この状況をどう判断していいのか自分がパニックになりかけているのに気がつく。まさかこんなことになるなんてと考えながら、この花畑を先ず抜けるべきなんじゃないかと頭の中で自分が言う。何も正直に歩かなくてもとやっと気がついて、義人は咄嗟に普段のように宙に飛び上がろうと気を練ろうとして、初めてそれに気がついた。

力が…………使えない?

今まで何年も当然のようにしていた風を操ることも宙に飛び上がることも、まるで出来ない自分の両手を愕然として見下ろす。使えないことの方が当然で、それが普通でそうなりたかった筈なのに、今はそうなるのはあり得ないし、困ると考えている。力もなく、ただこの迷路みたいな花畑に取り残されている状況に、自分が呆然とするだけではなく完全な恐慌を来しかけているのだ。

どうしよう、…………どうしたらいい?

答えが出る筈もないのに必死に自分に問いかけている義人は、その場から一歩も動くことが出来ずに拳を握り立ち尽くしていた。



※※※



体を起こすとそこは一面の鮮やかな黄色の花畑が広がっていて、思わず悌順は眼を丸くした。咄嗟に足元の土に触れてみるがおかしな感触はなく、微かに湿り気を帯びた肥沃そうな黒土。そこから芽吹いた満開の菜の花が豊かに一面を彩って揺れていて、思わず一人ここは何なんだと呟いてしまったくらいだ。黒衣の裾の土を払いながら立ち上がった悌順は、溜め息をつきながら首を鳴らした。

どれくらい……気を失ったかな。

あの地下の空間からゲートをくぐったと思った途端に悌順が産み出していた水は一瞬で靄のように四散して、空気が変わったのに気がついた時には意識の方が先に途切れた。そして何がどうなったかは分からないが気がついたらここで倒れていて、辺りは満開の花畑。ゲートを潜り抜けた瞬間には、眼下に黄色は全く見えなかったから、ただ落下したのは思えない。見上げる空はまるで揺らめくような紫がかった紅に近いが、夕暮れの暗さはまるでないから今が何時かは想像も出来ないでいる。つまりは時間の経過はこの光景からは全く分からないし、大体にして監禁されてからの時間経過も看護師の採血と食事での判断で曖昧なのだ。それにしても見事な程に豊かで広大な菜の花畑。

雪なら兎も角、俺に花を愛でる趣味はねぇからなぁ……。

思わずそんなことを考えてしまうが、あまりにも見事な花畑に見惚れもする。幼馴染みで園芸が趣味の宇野智雪なら喜んで蘊蓄を語りそうだが、純粋に見事だなと考える程度の悌順は何気なく辺りをグルッと眺めた。こうして眺めてもまるで終わりが見えないのは離れた場所の菜の花が少し高くなっていて、周囲の景色を遮っているからなのか、本当にここにはこれしか存在しないのか。後者だとすれば歩くこと事態が無駄になりそうだが。

どちらにせよ、あいつらを探さないことにはな。

気配は感じ取れないが二人がこちらに墜ちて来た筈。これで落ちるところが違いましたときたら、信哉と香苗に後から説教されそうだ。兎も角一緒の場所に落ちると仮定すれば、一緒にいた筈の人外も墜ちたとすればここいらにいる可能性は高い。

そして恐らく

そう考えながら試しに力を込めてみるが、あの瞬間水が靄になった時に予想していた通り水気を操ることが出来なかった。だが体を包む異装は溶けていないということは、表に力が出てこないのか見えないか。兎も角焦らなければ何とか対処は可能そうだが、忠志なんかはこういうのに弱そうだから慌ててパニックになりそうだと考えもする。何気なく踏み出してサクリと自分が土を踏む音はするが、辺りを揺らしている風の音は全く聞こえない。

俺らはここでは異質な存在ってこと……なんだろうな

ここにあるべき存在ではないから、ここにある元の音も聞き取れない。でも自分がたてる音はハッキリしていて周囲を見渡しながら、悌順は一点だけを見ながら真っ直ぐに歩き始める。意識して真っ直ぐに歩こうとしていても、人間は体の歪みや歩き方でどうしても曲がって歩くものだ。それは理解しているが、先ずはこの花畑の全容は把握したい。目測ですら黄色一色ではかなり怪しくなるが意識をそらさないように歩き続けてみる悌順は、視界の端に何かを見た気がしても一度も振り返りも立ち止まりもしなかった。
頭の中ではただ淡々と歩数を数えて真っ直ぐ前を向いて歩く悌順が歩数だけで言えば百を数えた瞬間、唐突に視界を風が煽ったらしい花弁が飲み込んだ。咄嗟に視界が黄色で塗り込められるのを腕で庇った悌順が、眉を寄せて薄目を開ける。その腕の隙間に覗き見える花の中に佇んでいたのは、黒い短髪の男性だった。悌順もよく知る少しつり目の意思の強そうな瞳、それに少し口角を上げて笑う口元、そして焔のように揺らめく緋色の布地。

「……っ」

その男性は眼を細めて穏やかに微笑む。花弁から顔を庇いながら自分を見ている悌順に、口元を声もなく静かに微笑ませたまま腕を上げて先を指差す。スラリと伸びた腕には忠志とは違う緋色の微細な金糸の刺繍が焔のように揺らめき、そうだ、その模様だったと悌順の記憶を揺り動かした。自分が最後に相手に飲まれて汚泥に染めてしまった鮮やかで優美な金糸の焔の紋様。それは指先に向かって一つも解れも汚れもなく、光をキラキラと反射して鮮やかに黄色の世界に浮かぶ。そして上げられた腕の先で人差し指が一点を示す。
まるでそっちに行けと教えるように凛とした視線で微笑みながら先を示す姿は、次の瞬間には花弁に霞んで飛び散っていく。花弁がおさまり腕を下ろした時に既にそこには誰もいないのは分かっていて、悌順は戸惑うように男性の指差した方向に視線を向けていた。

誘い込まれているのか、それとも本当に彼だったのか…………

それでもあれは彼だったと思いたいから、悌順はそう思ってしまう。ここに墜ちた自分の後継や悌順達を助けようと、彼が気がついていたら必ずしてくれるとどうしても思いたい。それが迷いや弱さの現れでも、ついそう考えてしまう。そう思いながら悌順は、彼が示した方向に向かって迷わず足を踏み出していた。そうして真っ直ぐに菜の花を掻き分けるようにして進んだ先に、不意に視界が開けて深い碧さを湛える水面が広がったのに息を飲んだ。
河川ではなく、完全な鏡面のような水面。
覗き込めば自分の顔が映るが、近くには僅かに水面の底が揺れる。ただ水の中にも、まるで生物の気配は感じとれず数メートル先は既に底すらも見えない。そっと触れてみるが悪意はまるで感じない、ただの冷たい水が流れることもなく、ヒッソリと深くある。水に時かに触れれば幾分中の様子も探れなくはないが、恐ろしいほど深く底が感じ取れないのに悌順は眼を細めた。意識を集中すると更に深くまで感じ取れるが、生き物の気配は微塵もなく進めば進むほど冷たく燐光のように光が指すのを感じるだけの水。その上深さも読み取れないが、広さもハッキリしないのに悌順は溜め息混じりに視線をあげた。

「っ……。」

湖面の上に一つの影がいて、それは波紋すら起こさずにそこに佇んでいる。声をかけて良いものなのかすら分からず、その姿を見つめていると相手も悌順に気がついたように視線をあげていた。

「信哉…………。」

どうしてここにとヤッパリここにが、悌順の口から同時に言葉になろうとして出来ない。仲間が捕まったとしたら信哉は恐らく一番に捕まっているだろうし、上手く逃げていたとしたら一番に乗り込んでくるに違いない。そう分かっているのは産まれて直ぐからの付き合いで、互いがどんな人間か知り尽くした兄弟みたいなものだからだ。

《悌……。》

ぶれるようにボヤけて聞こえる信哉の声に、違うと悌順の中で何かが叫ぶ。自分達があの部屋から出してくれた青年のような何かの間の子なのだとしたら、自分や信哉は四神の間の子と言うことなのだろうか。だとしたら二人分の力を持っている信哉は、どういう存在になるんだろう。

麒麟児

あの生徒によく似た顔をした女性が何気なく呟いた言葉に、心が騒ぐのを聞きながら悌順は惹かれるように足を踏み出す。力は使えないのではなく表に出ないだけ、そしてここはマトモな世界ではないから常識はまるで役に立たない。それなら信哉が湖面に立つなら自分もそれは可能なはず、何故かそう確信して足を湖面に踏み出している。
湖面には僅かな波紋が一つ広がって、その後は何も残らない。
迷うこともなく真っ直ぐに歩く足取りの先で、鏡面のような湖面だけが広がっている。



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