GATEKEEPERS  四神奇譚

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第三部

第八幕 異界

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凄まじい勢いで飛び掛かり、一つの首を喰い千切った神々しい瑞獣の姿は敵対していなければ見惚れるものだったろう。雄々しく咆哮をあげた虎の牙の鋭さに、思わずそれはたたらを踏んで異形の巨体ごと東条巖は後退る。流石に完全に胴体と分断され引きちぎられた首は、寸前のように端から繋ぎ合わせるとはいかない。しかも息をつく間もなく無造作に菜の花畑の向こうに蛇の生首を放り投げた巨大な白虎が、更に追い討ちをかけ牙を剥いて躍りかかって迫ってきていた。再生し始めた肉が盛り上がる感触が起こるが、首が再び生えきる前に次の一つの首が牙に骨を噛み砕かれた感触が脊柱骨を伝わって全身にボリンと重く響く。

速い、しかも、強い……

時に白い帯が視界を舞ったように見えるほどの早さで、四神の一体が全力で攻撃を仕掛けてくる。これで他の三体が揃っていたらあっという間に……そう考えた弱い脳裏に向けて新しい東条の中に同時に嗤いが起こるのを感じとった。人の感覚が未だに僅かにとはいえ残る心に、白虎の猛攻に恐怖心が沸かないわけではない。世にも恐ろしい猛獣が自分に牙を剥いて爪で皮を裂くのを痛みも感じないのだけが何よりだと考えた瞬間、何故か体内がざわめくのを感じた。

痛みを感じない

痛みは生存本能だ。痛みがあるから生物はそれを回避するし、回避のための方法を模索する。だからこそ人間は地上で生き抜いてきたし、それを回避するために様々な知恵を身に付けてきたのだ。ゾワゾワと体内に何かがざわめくのは、なんなんだと幾つもの蛇の頭をうねらせて思考する。

知恵。

失いたくなかったのはなんだったのだろうと、自分は何になりたかったのだろうと切れ切れに人間だった思考する。それはまるで悲鳴のように自分の頭の中に木霊しているのに、まるで靄がかかっているように思考が遠くにある気がした。それなのに直ぐ頭の中には別な何かが影のように嗤いごえあげている。

私達は人間よ、人間として生きたいだけなの

記憶の中で酷く鮮烈に、そして閃くような月下美人のような儚げな美貌。それが閃くと何が希望だったのか、何が願いだったのか一瞬だけそれが理性を取り戻させた気がした。肉塊に埋もれていた自分の意識が不意に自分の両方の腕を見た瞬間、余りのおぞましさに凍りついていく。そして視界に駆ける美しい毛並みの白銀の虎に意識が再び奪い去られて

ボチュ

不意に自分の背中で肉が盛り上がったのに、思わず東条の口から悲鳴が上がった。それに二本目の蛇の首を引きちぎった白虎が、地面を蹴り距離を測るのが見えている。体幹はまだ僅かに大きさを保っていた筈なのに背中が盛り上がり肥大化して、人の肌が割れて肉が鱗に変わり始めていく。それが何を示しているのか理解した瞬間、強く深い絶望が心を支配したのがわかった。

知恵を保ちたかった、あの式読のように

東条の言う式読の記憶の殆どは小賢しい新しいあの子供ではなく、あれの祖父である男だ。あの男は死ぬその時まで叡知を失うことなく、知恵の塊として全てを記憶したまま生きた。東条が始めて顔をあわせた瞬間から、あの男は東条を嘲笑い保持される知恵を見せつけ続けて死んだのだ。

それに四神。

どれもが神々しく若々しく、自分がまだ若い時の彼らは常に天上の神の化身。例え新しく代を代えても継ぎの神は同じく神々しく、自分は老いて様々なものが櫛の歯が落ちるように抜け落ちていくのだ。そうしてあの唯一無二の存在が姿を見せた。よく似た顔をした幼子の手を握り、美しく比類のない能力を秘めたあの四神。
誰かと子供をなすことの出来る、それでいて清らかな美しい白虎。
古来から白虎には妻、妾、子女、息子の嫁などの女子や財産、武力を司るとも言われていて、それを具現化してみせたような彼女。他の誰にも出来なかった事をしてのけた、彼女を還暦を過ぎた老人はどう見つめていたと言えばたはだしいだろうか。 
子供の父親は決して明かさなかったし、周囲にそれとおぼしき年代の青年もいない。その上他の四神達が彼女に手を出させないように、彼女の子供に手を出させないように何時も目を光らせる。そしてやがて運命の日に彼女の遺体をこの手にすることができず、全てを灰にしてしまったと聞いた瞬間の憤怒。
そして継いだのは彼女と瓜二つの息子だった。
沢山の絶望を彼女の息子に怒りに変えてぶつけても、何も得られない。そして次第にその絶望は病に変わって自分を呑み込みだして、唯一東条に残されたものまで奪いとり失い始める。

若さがほしいか?知恵がほしいか?

四神のような永遠にも感じられる若さがほしい。式読のように最後の最後まで失われない叡知がほしい。あの美しい四神を妻に娶り、強く若く永遠を生きられる体がほしい。そう願うのは人間だったら当たり前の、目にしているだけで沸き上がる欲望だったのだ。その欲望に東条が負けたのは、それを直に目にしていた東条が彼らとは違うただの一人の人間で何も持たない老人だったから。

なりたかったのは、白虎のような美しい神の化身で、こんな醜い八つの頭の蛇の化け物ではない。

そう考えてしまったら絶望は暗く深く、東条の人間としての残りをあっという間に呑み込み始めていく。再生される細胞は既に何度も何度も勢いを増して作り替えられていて、元の東条だった部分はほんの僅かに残るだけその脳細胞くらいだった。



※※※



金の光を放ちながら覗きこんでくるそれに、誰もが息を詰めて凍りついていた。何かをしようものなら一瞬で消し飛ばされてしまうほどの威圧感、それを意図してではなく放っているそれに多賀亜希子はこれは位がまるで違うと怯えている自分に気がつく。まるで桁が違う、自分のような闇を這うようなものではない、例えるなら神社や仏閣に居そうなものの気配が直ぐ目の前で、青年の目を覗き込んでいる。
抱きかかえて逃げたいけれど、身動きをとることすら出来ない威圧感。
あからさまな害意がないのだけが幸いで、下手すると吹き飛ばされそうな内在する純粋な力の結晶がそこにはあって、それはスゥと頭を垂れて青年の事を更に覗き込む。自分とその青年を繋いでいる手がガチガチと震えているのを肌に感じながら、これは一体何を求めてやって来たんだろうと考えた瞬間自分の横にいた筈の人影が消え去っているのに気がついた。

和希……?

直ぐ隣にいた筈の青年の姿がまるで溶けてしまったように消え去っているのに気がつく。目の前の何かが手を下した訳ではなく、本当に煙のように消え去ってしまっているのに亜希子は戸惑いながら辺りを見渡す。霧に紛れてしまったのか、それとも何かに惹かれてしまったのか。人のことは言えないが、三浦和希は特殊な人間だった。

稀代の殺人鬼

そう呼ばれるのがまるで似つかわしくない。記憶障害のせいで何も覚えてないからだと話していたが、それだけとは思えないほど人を殺す人間には感じなかった。でもそれは自分が彼にとって、人間として認識できる範疇にいたからだ。彼はある意味では間の子で、人間というものの認識が上手く出来ない。物心つく前の子供が玩具のように蟻を指で潰したり溺れさせるのと同じ感覚で、認識できない人間を扱ってしまうのだ。
元々はそこまでおかしくはなかったと亜希子には義理の息子に当たる進藤隆平という男が言っていたが、殺人を犯す前後にノイローゼに近い状態でしかも最終的に自殺企図のため脳に障害が起きているという。進藤隆平の息子でもある三浦和希。だから人にはあまり関わらない進藤も、密かに和希だけは気にかけていた。だから余計に僅な相手しか人間として認識できない和希を亜希子に預けもしたし、和希の方も亜希子にはなついていた。自分のように人を不幸にする存在になついてしまうなんてと思ったが、相手の方も自分と同じで人を不幸にする存在なのだから形は違えど同類のような気がした。何かとの間の子ではなさそうだが、頭の障害のせいで奇妙な特殊能力を身に付けてしまって、不思議な力を持った殺人鬼。

かおるを探したいだけなんだ。

記憶を失っても一人の女性を探したいと願う一途さは嫌いではないし、自分では死ねない亜希子には自分を殺してもらっても構わないから和希を恐れることもなかった。実際に死ねば亜希子が終わり、鵺が自由になるだけなのだ。それでもこうしてなつかれているのには、法律上はなんの関係がなくても実は立場的には子供か孫のような立場だし心が和む。亜希子は二十代の時に妊娠中絶していて和希ほどではないにしろ高校生近い子供がいてもおかしくなかったし、義理の息子・進藤の子供なら和希は実際には孫に当たる。

「……和希?」

思わずそう呟いた声に、礼慈が一瞬意識をとられる。そして、気がついたときには目の前にいた筈の智美の姿が、握っていた筈の手ですらワタアメのように熔けて消えてしまったのに気がついた。ほんの一瞬しかも僅に視線を右に動かしただけなのに、金の光珠とともに目の前から智美は掻き消していてそこにいるのは礼慈と亜希子だけになってしまっている。

「な、智美さん?!」

叫んだ時には霧が唐突に引き始めていた。まるで逆回しのドライアイスの煙を見ているように、シュルシュルと霧が後退していくのを二人は唖然として見つめている。霧の中の何かが欲しがっていたのは智美と和希で、自分達二人は興味もないと言いたげに霧が引けていくのに真っ先に怒りを顕にしたのは礼慈ではなく亜希子のほうだった。

「待ちなさいよ!!うちの子を返してちょうだい!!」

霧を追うようにして目を青く光らせた彼女の項が一気に逆立つのを礼慈は真横に見ながら、彼女が駆け出したのに従って今来た道を戻るように駆け出していた。それでも乳白色の霧は勢いよく壁を狭めようと後退し始めている。



※※※



「惣一君!あたし!」

グッタリしているふったちを肩にして端末の通話機能を使った『ロキ』に、向こう側の声は一体どこまで行ってるんだと唖然とした声をあげている。『ロキ』にしてみても、自分だってそれがどう言うことなのか聞きたいが、彼女とふったちが忍び込んだ沿岸部の研究施設とは同じ太平洋側というていどの共通点しかない。というのも研究施設は関東圏、今いるのはどう考えても北東北の山林の奥の奥で徒歩圏内の話ではなかった。少なくとも徒歩でくるには日単位の場所に、出てしまったのは霧のせいだと分かってもいる。しかも、一端抜けた筈なのにワザワザ若い高校生二人だけをまた拐われてしまった。

「ねぇさん、あれ、俺らの手に終えるのじゃ、ないよ……。」

そんなこと言われても姪の大事な親友と彼氏を目の前で拐われてしまったのには、忌々しくて舌打ちしたくなる。しかも惣一の方には間の悪いことに宮井麻希子の彼氏で成孝が背負っている宇野衛の義父・宇野智雪がいたのだ。

『志賀さん!衛がそこにいるってほんとうですか?!麻希子も一緒ですか?!』

宇野衛と宮井麻希子は宇野家から玄関ドアを開くこともなく、防犯カメラのどれにも映らず、忽然と高層階のマンションから姿を消していたのだという。こっちとしては久保田惣一の力を借りたいが、もれなくお目付け役が加算されてしまったのは痛い。何しろ宇野はとんでもない溺愛彼氏だしと、ふったちがげんなりしながらしゃがみこむ。

「一先ず、ここで回収はしてもらえる?惣一君。里に降りるとヤバそうなの。」
『どう言うこと?』
「良二君、絶対帰ってくるなって言われてるんですって。」

実はここいら一体にふったちが詳しいのは当然で、そこから真っ直ぐに坂を降りると鈴徳の祖母が住んでいた集落に出る。なら直ぐ様降りればいいと考えるだろうが、ふったちはそれは辞めた方がいいと言うのだ。その集落の年よりの殆どが間の子の存在を知っていて、間の子が生まれると集落では忌み嫌われる。間の子の力によっては霧に捨てられたりもするし、邪魔すれば霧に紛れて襲っても来るというのだ。この人数ならと思うだろうが、寒戸の婆のような山姥の集団に襲われるのは今は避けたいとふったちでもある鈴徳良二は言う。
目が合わなきゃ見つからないから、なるべく集落には寄りたくない。

「あいつらは目で確認するし、寄らなきゃ気がつかないから……。」

そう口にしたふったちは眉を潜めて道の先を眺める。何もいないし聞こえない筈の道の先を、じっと眺めてふったちはヨロリとふらつきながら立ち上がり忌々しそうに呟く。

「ねぇさん、いそいで迎えに来てもらって、あいつらもう霧で気がついてる。」

その言葉に辺りの木々が音もなくざわめき始めたのに成孝も志賀松理も気がついていた。


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