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感染
7.
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そして月日がほんの少し流れ、六年生の冬遂に病に臥せっていた祖父は亡くなった。アキコの頭に過ったのは、伯母のいう蛇の呪い。
祖父の死因となった病名は胃ガンと塵肺。終末期には祖父の胃ガンは多臓器に転移していて、祖父は痛みに体を締め付けられるようだと話していたという。それに最終的に弱った体は塵肺により呼吸困難も起こしたというのだが、それは蛇の呪いとは関係するのだろうか。
呪いが理由の病なら何が症状にふさわしいのだろうか?
アキコにはわからない。蛇が殺されたのと同じ方法なのか?それとも同じ部位の病なのか?どんな方法で祖母が蛇を殺したのか知らないアキコには、この答えは知るよしもない。結論としては祖父は昔から炭鉱での仕事をしたものに同じ病が多かったという塵肺と癌の多発転移。一時は胃の切除で回復するかと思われたのだというが、闘病の後六十四歳の若さでなくなったのだ。
伯母が原因は呪いだと言い出すのかと思いながらアキコは葬儀に参加したが、伯母は別段口を開くわけではなかった。てっきり呪いのせいだと葬儀の場で大声で騒ぎ立てるだろうと思ったのに、まるで素知らぬ顔で相変わらず丸々と太った体で喪服を着てニコニコしながら葬儀の仕出しを頬張っている。それにアキコは酷い違和感を覚えていた。
土地によっては葬儀の間は肉や魚を食べない土地もある。でも父方の祖父の葬儀は大きな葬儀場で行われ、普通のオードブルが通夜の席に準備されていた。母は自分の育った土地では通夜ぶるまいは精進料理・精進おとしはお膳料理がまだ基本なので葬儀中は肉や魚は食べないと話す。だが、昨今ではそこまで徹底しているほうが珍しいのだろう。
でも、何故伯母は笑っているのだろう
個人の話をして思い出に和やかになるのは、寧ろ当然なのかもしれない。でも伯母は他の人達と祖父の話をしているわけではなかった。何しろ伯母は一度も見たことのない男女を周囲に侍らせ声高に話し、自分の息子達には仕出しを存分に喰えと笑っているのだ。それに反して夫である伯父はアキコの父と二人で祖母と祖父の棺の前でヒッソリと話していて、アキコの母も叔父夫婦と弟を連れてその傍にいる。伯母の周囲にいるのは祖父の血縁者ではなく、伯母の血縁者なのだとやがて会話の中から聞き取っていた。そしてアキコはそのどちらにも属さないで、通夜の会場の中を奇妙に静まり返った視線で見つめ続けている。何故蛇の呪いのことを伯母が言わないのだろうと思っていたが、呪いを口にすれば倍になると言っていたからあえて口にしないのだと無理矢理自分を納得させた。納得させたが何故笑いながら、いつまでも仕出しを頬張っているのだろうかと見つめていると辺りに靄のようなものが漂うのが眼鏡越しの瞳には視え始める。
岩から流れ出したキラキラとした小川のような物ではない、よく分からない淀んだ靄が室内に漂っていた。それは線香の煙でもないし、他に靄に見えるような物は空間には存在しない。見渡しながらそれが誰から出ているのだろうとアキコが何故か思ったのは理由も分からないのだが、確かにそれは人から出ていたのだ。体から出たばかりは真っ白なのに、触れた人でその靄は色を変えている。
ああ、これが呪いなのかな……。
その靄が出ているのは祖母の体からだった。でも真っ白な柔らかな真綿のような靄は、父や伯父、叔父といる母達に触れても柔らかな白のままだ。それがくすんでいくのは伯母が誰か分からない伯母の親戚達と従兄弟と共に、オードブルを頬張る場所に流れ着いてから。特に伯母の周りには、伯母がまるで黒い煙を吐いている様に見える靄が漂っている。
でも蛇には見えない……
祖母から吹き出る白い靄は、アキコに触れようとしない。まるでアキコが見えているのに気がついていて、触れたら駄目と知っているように避けているのだ。それを不思議に思いながら、アキコはフッと視線を叔父達に向けた。叔父とその妻の横にはまだ幼い男の子が座り、弟と仲良く笑っている。そして腕の中にはアキコとちょうど一回り年下の従妹が眠っていた。
辰年生まれの、もう一人の女孫。
残念ながら病床の祖父には出会うことはなかったようだか、きっと祖父は同じように喜んで可愛がったと思う。アキコとしては、辰年生まれのもう一人の女孫が自分と同じ様なモノを見るのか伯母や本人に聞いてみたいと思った。が、従妹の方はまだ生まれたばかりなので、叔母の腕の中の乳児を遠巻きに眺めるだけ。靄はあの女孫には他の者と同じくまとわりついていて、自分のように避けていかないのはまだ赤ん坊だからなのだろうか。
それともあの子は違うのか。
それでも辰年生まれの女なのだから、あの子にもいつか自分と同じことが起こるのだろうと内心仲間が出来るのだと考えるのは嬉しかった。勿論どちらもアキコの心の中での話なのだから、アキコの両親はその考えの片鱗すら知らない。そうして葬儀の間中アキコは促されても殆ど布団に入らなかった。何度か母には眠るように言われたが、ここで眠ったらまたあの黒い影に襲われそうだ。前と違ってアキコの体は女めいてきているから、今度は下も脱がされ悪戯されるかもしれない。それだけは嫌だったのだがそれを口にすることも出来ないから、出来るのは眠れないからと無理をしてでも明るい場所に座ることだった。
寝なきゃいい。
あの日からアキコは不眠がちになってしまっている。しかも豆電球の仄かなオレンジの明かりに照らされた室内で眠る方が、実はより怖いのだ。夜中に気がついた時にオレンジの光の中で、黒い影が覆い被さっていたらと思うと不安で仕方がない。今度はもっと酷いことをされるかもしれないし、今度は顔が見えるかもしれないと考えてしまう。そう思い始めると何故か頭の中ではあの黒い影に先ずは歪に奥歯を噛み、歯を剥き出して笑う様子が頭に浮かぶのだ。実際には顔は全く見もしていないが、何しろあれは少なくとも生臭い息を吐いてアキコのことを舐め回したのだ。
通夜の式場でみた靄は暫くして消えた。
何も悪いことも起きなかったが、あれが悪いものではないとはアキコには言えない。何しろ悪いことは見えない場所で密かに起こっていて、後から害を起こしていたのを知らされる可能性だってある。悪意というものは本人の知らない場所で育って、唐突に襲って来る事があると、アキコはもう知ってしまっていた。だから一見害がなかったとしても、靄がいいものだとは言えない。もしかしたら正体がバレるのを恐れて、アキコを避けたのかもしれない。
ヒョーゥ
不意に聞き覚えのないか細い声が聞こえて、アキコは辺りを見渡す。辺りには人の気配はなく、白々とした蛍光灯に照らされた通路に一人アキコが座るだけ。なのにまるで直ぐ傍で哭かれたように、それは間近で聞こえた気がする。
ヒョーゥ
また同じく声が聞こえてアキコは戸惑いながら、もう一度辺りを見渡す。音の元になるような換気扇や機械はその通路には何もなくて、蛍光灯がチラチラと微かに揺れる光を落としている。か細く聞き覚えのない不気味な声のような、なんの音かは分からないが音源も分からない。暫く待ってももうその声は今度は聞こえないから、アキコはその場に独り黙って座り続けていたのだった。
そんな状況で何よりも鮮明にアキコの記憶に残ったのは、祖父の葬儀……ではなかったのだ。祖父の葬儀は粛々と行われ、参列者にいない通夜に伯母が引き連れてきた人間は親戚ではなかった様だということはアキコも気がついてしまう。葬儀は身内だけで、まだ祖父は六十代だというのに祖父の血縁の親戚は少なかったのだ。祖父の家系はどうやら短命らしいと気がついて、アキコはそれも祖母の蛇の呪いが関係するのだろうかと不思議に思う。まだ六十代はかなり若い年代だと思うが、九人もいたという祖父の兄弟は戦時中の関係もあるのか既にたった一人しか生きていなかったのだ。
兎も角、アキコの記憶に残ったのは葬儀ではなく初七日も終えた後のこと。
祖父母の家に戻って、遺産相続と残された祖母をどうするかで父の兄弟で喧嘩になった事だった。あからさまにするには恥ずかしいことだが、孫にあたる私たちの目の前で・祖父の遺影とお骨の目の前で、兄弟喧嘩が始まってしまったのだ。
正確には各家の妻も参加していたから大人は祖母も含めて総勢七人、その内遺産の権利を主張したのは伯父夫婦と叔父だ。というのも、元々他県に住んで長いアキコの父親は早々に遺産相続を放棄したのだった。
孫の幼い頭でも分かるのは伯父夫婦が少しでも多くの遺産を欲しがり、叔父の方は遺産の均等な分割を求めているということ。父が自分の取り分の遺産を放棄した途端、今度はそれを分割ことで口論になる姿にアキコの父と母はウンザリしている様にも見えた。しかもその場に三家族の子供達がいるのを、祖母とアキコの両親はちゃんと理解している。
「だったら弟の遺産は長男の方が貰って当然でしょう!全部の半分が家でしょ!」
それを当然のよう声高に叫んだ伯母の大きな声に、他の子供達が何事だろうと仏壇の前の大人達を眺める。そんな筈はない、祖母が半分で残りの三兄弟で半分を三分割、つまり元は六分の一だ。それをアキコの父が放棄しても、伯父には四分の一でしかないのに、何故半分なんて計算になるのかと叔父が言う。すると何故か伯母の頭の中では財産を四分割で分けていて、次男の分は放棄したのだから丸々長男が貰うと言いたいらしい。そんな筈がないと叔父が怒り出す。同時に遺産の中には祖母がこうして住んでいる土地が含まれていて叔父は既にそこに家を建てて住んでいたが、土地の名義もまだ祖父のままだったらしい。それを分割するには更地にして売れというが、子供が生まれたばかりの叔父一家に建てたばかりの家を出ていくことは無理だ。しかも追い出す様なことを言うのに、祖母の面倒を押し付けようとする伯母に叔母が腹をたてて赤ん坊がいるから無理だと口にしたのが悪かった。赤鬼のように顔を真っ赤にして怒鳴り散らす伯母と、青ざめて般若のような顔で食い下がる叔母の姿にアキコも弟も怯えてしまう。それなのに伯父の息子達は当然のように仏壇に備えられた果物を奪ってきて、笑いながらそれを頬張りつつ親達の喧嘩の様を眺めている。
呆れた父が祖母にアキコの家に来るよう勧めたのだが、遠く新しい土地に行くより祖父の建てた家に残りたいと願う祖母の言葉が最終的には通された。まだ自分のことに困らない六十という若さなのだから、祖母の意見が優先されるのは当然だ。しかし、祖母の願いはさておき、伯父夫婦と叔父夫婦は土地や家などの遺産の取り合いと祖母の身の押し付けあいを繰り広げた。怒鳴りあい押し付けあう二組の夫婦を、あの靄に似た何かが漂い始めたのにアキコは目を細める。
やがてそれは祖父の姿に固まって、同じ部屋の中で遺影ではない祖父が悲しい顔で見下ろしている。その場を離れて子供に見せたくないと動こうとするアキコの両親を制して延々と続く二組の夫婦の醜い喧嘩を、言葉もなく見下ろす祖父の姿。それに気がついているのはアキコたった独りで、遺産の分配にいきり立つ伯母は気がつきもしない。
祖父が悲しげに見下ろしている。
やがて叔父が土地から出ていかない対価として叔父夫婦が今後も祖母の面倒を見るということになり、その代わり金銭を多く伯父夫婦が受けとるということで話は折り合いがついたようだ。その間も祖父は酷く悲しい顔で、息子達を眺め続けているのを見つめ続けている。その姿にアキコは自分が視ているのは、幻覚ではなく本物なのだろうとヒシヒシと感じていた。
※※※
自分に何が起きたかを話したわけではない。自分が家系ごと呪われているなんて話をすすんでして、良いことがあるわけないこと位どんなに無知だとしても分かる。それでも会話の度に結果がオカルトになるのは、友人として付き合うにも敬遠するのが当然だ。胡散臭いことこの上ないし、当の本人は心底それを信じきっている。やがて普通に話をする人もいつの間にかほんの数人になっていた。それが理由の大半と言うわけではないが、次第に物事をみれるようになってお互いが大人びてきていた。
おかしいことくらい分かっている。
自分が他の子から異様で異質に思われていることはもう理解できていた。異常なほどに記憶力がよく会話の内容をすみからすみまで覚えている。書籍を読んで覚えることを繰り返し、今度は漫画で絵を見て覚えることを繰り返した結果、アキコの記憶力は奇妙なほど研ぎ澄まされて家族の中でも目に見えて特殊だった。
「お姉ちゃんと神経衰弱すると、絶対勝てないもん。」
「別にずるしてない。」
「ずるしてなくても、お姉ちゃん、カード覚えちゃうんだもん。」
そうカードの裏を一度視てしまえば、それがなんだったか映像として覚えてしまうから、弟は神経衰弱はしたくないと最近ではいう。勿論カルタなんか当然で下手をすると全てアキコが捕ってしまうから自宅ではその系統のゲームは買わない。勿論学校でも一瞬黒板を見れば覚えてしまうから、一瞬だけみて下で別なことをしている姿ばかり目立つようになった。それでも、問いかければちゃんと答えてしまうから、あの女性教師は尚更気味悪そうにアキコを見る。
あの子……黒板を見てなくても、全部聞いてるし見てるんです。
そう気味悪がられていて。実際のところアキコは自分が呪われていると信じているので、下手な会話をしてそれが相手にばれたり相手にまで被害がおよぶのではと不安だったのだ。だから、話す内容は吟味され記憶に残っていくだけの話で、そこにまあまあよい記憶力が他のこと・つまりは状況や時間などの情報も間違いのないように記憶しただけ。本人としては周囲を思ってしていたのに、それがただ不気味な者ととられてしまう。
「タガの目って蛇みたい。」
感情を示さないアキコの瞳にそう告げた同級生の言葉に、アキコは独りで部屋で丸くなって泣いたけれどそんなことは誰も知らない。しかも以前のように近所の子達とも遊ぶということ自体もなくなったので、自然と独りでいることだけが増える。その姿は、まるでアキコがそれを望んでいるようにも見えたに違いない。
祖父の死因となった病名は胃ガンと塵肺。終末期には祖父の胃ガンは多臓器に転移していて、祖父は痛みに体を締め付けられるようだと話していたという。それに最終的に弱った体は塵肺により呼吸困難も起こしたというのだが、それは蛇の呪いとは関係するのだろうか。
呪いが理由の病なら何が症状にふさわしいのだろうか?
アキコにはわからない。蛇が殺されたのと同じ方法なのか?それとも同じ部位の病なのか?どんな方法で祖母が蛇を殺したのか知らないアキコには、この答えは知るよしもない。結論としては祖父は昔から炭鉱での仕事をしたものに同じ病が多かったという塵肺と癌の多発転移。一時は胃の切除で回復するかと思われたのだというが、闘病の後六十四歳の若さでなくなったのだ。
伯母が原因は呪いだと言い出すのかと思いながらアキコは葬儀に参加したが、伯母は別段口を開くわけではなかった。てっきり呪いのせいだと葬儀の場で大声で騒ぎ立てるだろうと思ったのに、まるで素知らぬ顔で相変わらず丸々と太った体で喪服を着てニコニコしながら葬儀の仕出しを頬張っている。それにアキコは酷い違和感を覚えていた。
土地によっては葬儀の間は肉や魚を食べない土地もある。でも父方の祖父の葬儀は大きな葬儀場で行われ、普通のオードブルが通夜の席に準備されていた。母は自分の育った土地では通夜ぶるまいは精進料理・精進おとしはお膳料理がまだ基本なので葬儀中は肉や魚は食べないと話す。だが、昨今ではそこまで徹底しているほうが珍しいのだろう。
でも、何故伯母は笑っているのだろう
個人の話をして思い出に和やかになるのは、寧ろ当然なのかもしれない。でも伯母は他の人達と祖父の話をしているわけではなかった。何しろ伯母は一度も見たことのない男女を周囲に侍らせ声高に話し、自分の息子達には仕出しを存分に喰えと笑っているのだ。それに反して夫である伯父はアキコの父と二人で祖母と祖父の棺の前でヒッソリと話していて、アキコの母も叔父夫婦と弟を連れてその傍にいる。伯母の周囲にいるのは祖父の血縁者ではなく、伯母の血縁者なのだとやがて会話の中から聞き取っていた。そしてアキコはそのどちらにも属さないで、通夜の会場の中を奇妙に静まり返った視線で見つめ続けている。何故蛇の呪いのことを伯母が言わないのだろうと思っていたが、呪いを口にすれば倍になると言っていたからあえて口にしないのだと無理矢理自分を納得させた。納得させたが何故笑いながら、いつまでも仕出しを頬張っているのだろうかと見つめていると辺りに靄のようなものが漂うのが眼鏡越しの瞳には視え始める。
岩から流れ出したキラキラとした小川のような物ではない、よく分からない淀んだ靄が室内に漂っていた。それは線香の煙でもないし、他に靄に見えるような物は空間には存在しない。見渡しながらそれが誰から出ているのだろうとアキコが何故か思ったのは理由も分からないのだが、確かにそれは人から出ていたのだ。体から出たばかりは真っ白なのに、触れた人でその靄は色を変えている。
ああ、これが呪いなのかな……。
その靄が出ているのは祖母の体からだった。でも真っ白な柔らかな真綿のような靄は、父や伯父、叔父といる母達に触れても柔らかな白のままだ。それがくすんでいくのは伯母が誰か分からない伯母の親戚達と従兄弟と共に、オードブルを頬張る場所に流れ着いてから。特に伯母の周りには、伯母がまるで黒い煙を吐いている様に見える靄が漂っている。
でも蛇には見えない……
祖母から吹き出る白い靄は、アキコに触れようとしない。まるでアキコが見えているのに気がついていて、触れたら駄目と知っているように避けているのだ。それを不思議に思いながら、アキコはフッと視線を叔父達に向けた。叔父とその妻の横にはまだ幼い男の子が座り、弟と仲良く笑っている。そして腕の中にはアキコとちょうど一回り年下の従妹が眠っていた。
辰年生まれの、もう一人の女孫。
残念ながら病床の祖父には出会うことはなかったようだか、きっと祖父は同じように喜んで可愛がったと思う。アキコとしては、辰年生まれのもう一人の女孫が自分と同じ様なモノを見るのか伯母や本人に聞いてみたいと思った。が、従妹の方はまだ生まれたばかりなので、叔母の腕の中の乳児を遠巻きに眺めるだけ。靄はあの女孫には他の者と同じくまとわりついていて、自分のように避けていかないのはまだ赤ん坊だからなのだろうか。
それともあの子は違うのか。
それでも辰年生まれの女なのだから、あの子にもいつか自分と同じことが起こるのだろうと内心仲間が出来るのだと考えるのは嬉しかった。勿論どちらもアキコの心の中での話なのだから、アキコの両親はその考えの片鱗すら知らない。そうして葬儀の間中アキコは促されても殆ど布団に入らなかった。何度か母には眠るように言われたが、ここで眠ったらまたあの黒い影に襲われそうだ。前と違ってアキコの体は女めいてきているから、今度は下も脱がされ悪戯されるかもしれない。それだけは嫌だったのだがそれを口にすることも出来ないから、出来るのは眠れないからと無理をしてでも明るい場所に座ることだった。
寝なきゃいい。
あの日からアキコは不眠がちになってしまっている。しかも豆電球の仄かなオレンジの明かりに照らされた室内で眠る方が、実はより怖いのだ。夜中に気がついた時にオレンジの光の中で、黒い影が覆い被さっていたらと思うと不安で仕方がない。今度はもっと酷いことをされるかもしれないし、今度は顔が見えるかもしれないと考えてしまう。そう思い始めると何故か頭の中ではあの黒い影に先ずは歪に奥歯を噛み、歯を剥き出して笑う様子が頭に浮かぶのだ。実際には顔は全く見もしていないが、何しろあれは少なくとも生臭い息を吐いてアキコのことを舐め回したのだ。
通夜の式場でみた靄は暫くして消えた。
何も悪いことも起きなかったが、あれが悪いものではないとはアキコには言えない。何しろ悪いことは見えない場所で密かに起こっていて、後から害を起こしていたのを知らされる可能性だってある。悪意というものは本人の知らない場所で育って、唐突に襲って来る事があると、アキコはもう知ってしまっていた。だから一見害がなかったとしても、靄がいいものだとは言えない。もしかしたら正体がバレるのを恐れて、アキコを避けたのかもしれない。
ヒョーゥ
不意に聞き覚えのないか細い声が聞こえて、アキコは辺りを見渡す。辺りには人の気配はなく、白々とした蛍光灯に照らされた通路に一人アキコが座るだけ。なのにまるで直ぐ傍で哭かれたように、それは間近で聞こえた気がする。
ヒョーゥ
また同じく声が聞こえてアキコは戸惑いながら、もう一度辺りを見渡す。音の元になるような換気扇や機械はその通路には何もなくて、蛍光灯がチラチラと微かに揺れる光を落としている。か細く聞き覚えのない不気味な声のような、なんの音かは分からないが音源も分からない。暫く待ってももうその声は今度は聞こえないから、アキコはその場に独り黙って座り続けていたのだった。
そんな状況で何よりも鮮明にアキコの記憶に残ったのは、祖父の葬儀……ではなかったのだ。祖父の葬儀は粛々と行われ、参列者にいない通夜に伯母が引き連れてきた人間は親戚ではなかった様だということはアキコも気がついてしまう。葬儀は身内だけで、まだ祖父は六十代だというのに祖父の血縁の親戚は少なかったのだ。祖父の家系はどうやら短命らしいと気がついて、アキコはそれも祖母の蛇の呪いが関係するのだろうかと不思議に思う。まだ六十代はかなり若い年代だと思うが、九人もいたという祖父の兄弟は戦時中の関係もあるのか既にたった一人しか生きていなかったのだ。
兎も角、アキコの記憶に残ったのは葬儀ではなく初七日も終えた後のこと。
祖父母の家に戻って、遺産相続と残された祖母をどうするかで父の兄弟で喧嘩になった事だった。あからさまにするには恥ずかしいことだが、孫にあたる私たちの目の前で・祖父の遺影とお骨の目の前で、兄弟喧嘩が始まってしまったのだ。
正確には各家の妻も参加していたから大人は祖母も含めて総勢七人、その内遺産の権利を主張したのは伯父夫婦と叔父だ。というのも、元々他県に住んで長いアキコの父親は早々に遺産相続を放棄したのだった。
孫の幼い頭でも分かるのは伯父夫婦が少しでも多くの遺産を欲しがり、叔父の方は遺産の均等な分割を求めているということ。父が自分の取り分の遺産を放棄した途端、今度はそれを分割ことで口論になる姿にアキコの父と母はウンザリしている様にも見えた。しかもその場に三家族の子供達がいるのを、祖母とアキコの両親はちゃんと理解している。
「だったら弟の遺産は長男の方が貰って当然でしょう!全部の半分が家でしょ!」
それを当然のよう声高に叫んだ伯母の大きな声に、他の子供達が何事だろうと仏壇の前の大人達を眺める。そんな筈はない、祖母が半分で残りの三兄弟で半分を三分割、つまり元は六分の一だ。それをアキコの父が放棄しても、伯父には四分の一でしかないのに、何故半分なんて計算になるのかと叔父が言う。すると何故か伯母の頭の中では財産を四分割で分けていて、次男の分は放棄したのだから丸々長男が貰うと言いたいらしい。そんな筈がないと叔父が怒り出す。同時に遺産の中には祖母がこうして住んでいる土地が含まれていて叔父は既にそこに家を建てて住んでいたが、土地の名義もまだ祖父のままだったらしい。それを分割するには更地にして売れというが、子供が生まれたばかりの叔父一家に建てたばかりの家を出ていくことは無理だ。しかも追い出す様なことを言うのに、祖母の面倒を押し付けようとする伯母に叔母が腹をたてて赤ん坊がいるから無理だと口にしたのが悪かった。赤鬼のように顔を真っ赤にして怒鳴り散らす伯母と、青ざめて般若のような顔で食い下がる叔母の姿にアキコも弟も怯えてしまう。それなのに伯父の息子達は当然のように仏壇に備えられた果物を奪ってきて、笑いながらそれを頬張りつつ親達の喧嘩の様を眺めている。
呆れた父が祖母にアキコの家に来るよう勧めたのだが、遠く新しい土地に行くより祖父の建てた家に残りたいと願う祖母の言葉が最終的には通された。まだ自分のことに困らない六十という若さなのだから、祖母の意見が優先されるのは当然だ。しかし、祖母の願いはさておき、伯父夫婦と叔父夫婦は土地や家などの遺産の取り合いと祖母の身の押し付けあいを繰り広げた。怒鳴りあい押し付けあう二組の夫婦を、あの靄に似た何かが漂い始めたのにアキコは目を細める。
やがてそれは祖父の姿に固まって、同じ部屋の中で遺影ではない祖父が悲しい顔で見下ろしている。その場を離れて子供に見せたくないと動こうとするアキコの両親を制して延々と続く二組の夫婦の醜い喧嘩を、言葉もなく見下ろす祖父の姿。それに気がついているのはアキコたった独りで、遺産の分配にいきり立つ伯母は気がつきもしない。
祖父が悲しげに見下ろしている。
やがて叔父が土地から出ていかない対価として叔父夫婦が今後も祖母の面倒を見るということになり、その代わり金銭を多く伯父夫婦が受けとるということで話は折り合いがついたようだ。その間も祖父は酷く悲しい顔で、息子達を眺め続けているのを見つめ続けている。その姿にアキコは自分が視ているのは、幻覚ではなく本物なのだろうとヒシヒシと感じていた。
※※※
自分に何が起きたかを話したわけではない。自分が家系ごと呪われているなんて話をすすんでして、良いことがあるわけないこと位どんなに無知だとしても分かる。それでも会話の度に結果がオカルトになるのは、友人として付き合うにも敬遠するのが当然だ。胡散臭いことこの上ないし、当の本人は心底それを信じきっている。やがて普通に話をする人もいつの間にかほんの数人になっていた。それが理由の大半と言うわけではないが、次第に物事をみれるようになってお互いが大人びてきていた。
おかしいことくらい分かっている。
自分が他の子から異様で異質に思われていることはもう理解できていた。異常なほどに記憶力がよく会話の内容をすみからすみまで覚えている。書籍を読んで覚えることを繰り返し、今度は漫画で絵を見て覚えることを繰り返した結果、アキコの記憶力は奇妙なほど研ぎ澄まされて家族の中でも目に見えて特殊だった。
「お姉ちゃんと神経衰弱すると、絶対勝てないもん。」
「別にずるしてない。」
「ずるしてなくても、お姉ちゃん、カード覚えちゃうんだもん。」
そうカードの裏を一度視てしまえば、それがなんだったか映像として覚えてしまうから、弟は神経衰弱はしたくないと最近ではいう。勿論カルタなんか当然で下手をすると全てアキコが捕ってしまうから自宅ではその系統のゲームは買わない。勿論学校でも一瞬黒板を見れば覚えてしまうから、一瞬だけみて下で別なことをしている姿ばかり目立つようになった。それでも、問いかければちゃんと答えてしまうから、あの女性教師は尚更気味悪そうにアキコを見る。
あの子……黒板を見てなくても、全部聞いてるし見てるんです。
そう気味悪がられていて。実際のところアキコは自分が呪われていると信じているので、下手な会話をしてそれが相手にばれたり相手にまで被害がおよぶのではと不安だったのだ。だから、話す内容は吟味され記憶に残っていくだけの話で、そこにまあまあよい記憶力が他のこと・つまりは状況や時間などの情報も間違いのないように記憶しただけ。本人としては周囲を思ってしていたのに、それがただ不気味な者ととられてしまう。
「タガの目って蛇みたい。」
感情を示さないアキコの瞳にそう告げた同級生の言葉に、アキコは独りで部屋で丸くなって泣いたけれどそんなことは誰も知らない。しかも以前のように近所の子達とも遊ぶということ自体もなくなったので、自然と独りでいることだけが増える。その姿は、まるでアキコがそれを望んでいるようにも見えたに違いない。
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