鵺の哭く刻

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感染

12.

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実際にはアキコが外トイレにメグミ達に最初に呼び出されてから、その日までの期間はたったの九日間でしかなかった。虐めと言うには期間としてはあまりにも短いし、大袈裟と思うかもしれない。だけど、アキコにとってはたった九日とはいえ十分な過負荷が与えられていて、限界を感じた瞬間全ての外界からの情報をアキコ自身の自衛としてシャットアウトしたのだった。
崩壊した授業が終わり、ホームルームが終わる。
それでもアキコは席を立とうとしなかった。担任は当然だが授業中のことも知っていて、更にその次の最後の授業もホームルームも行っている。周囲の起立の号令に従わないアキコを、その教師は放置し咎めもしなかった。咎めもしなかったが、アキコの様子が普通ではないと知りつつ、完全に放置したのだ。
そして放課後の呼び出しをしていた女王様と取り巻きは、もしアキコが脱兎のごとく帰ろうとしたらトイレに引きずり込もうと教室の前後の扉で待ち受けていた。ところが当のアキコが、立ち上がるどころか身動ぎ一つもしないのに眉を潜めていた。

「なんで…………あいつ、動かないの?」

言葉は比喩ではなかった。アキコは自分の椅子に腰を掛けたまま、真っ直ぐに前を向いて座り能面のように表情も変えず座ったままなのだ。五分、十分と時間が過ぎて行く。その間アキコはまるで静止画のように、ピクリとも体を動かさない。そして、驚いたことに先ほどアキコと視線をあわせた女王様が、誰よりも真っ先に帰ると言い出したのだ。

「メ、メグミ……?」
「あたし、帰るから。」

それなら自分達もと言おうとした他の面子を、メグミが言葉ではなく視線で制する。自分は帰ると言うのに周囲には帰るなと言うのだと気がついて、カナエ達は戸惑いに顔を見合わせた。

「メグミちゃん、私たち…………。」
「いい?!あのバケモノちゃんと見張りなさいよ?!」

そうとだけ言い残しさっさと帰途についた女王様を、カナエとマユとチヒロが困惑して顔を見合わせる。バケモノと言い出したのはメグミで、カナエとマユはアキコが以前はオカルト染みた発言を繰り返していたのを知っていた。知っていたと同時にアキコを以前責め立てようとした人間が、突然意識を失って倒れ痙攣したのを知ってもいる。それを思い出すと奇妙なほどに身動ぎもしないアキコは、ただ座っているだけでも不気味だった。

「だ、だいじょうぶかな…………?なんか……起きたりしない、よね?」
「わ、わかんない……。」

その後来たユカと四人になって遠巻きにアキコの様子を伺うが、アキコはどれだけ時間が経ってもピクリとも全く動こうとしない。まるで銅像のように僅かにも動かず座り続けるのがどれだけ難しいかは、言わなくともわかりきっている。

「ね…………ねぇ、なんで、動かないのかな…………?」
「し、知らないよ……メグミが授業中に……怒鳴ってからさぁ……。」
「か、帰る?」
「え……でもさ、メグミが……。」

時間が経つ毎にアキコの姿に違和感が増していくその状況に、四人は帰るかどうか話し合い始めた。正直帰りたい、でも女王様が見ていろといったのを無視したら、今度は自分がアキコにならなきゃいけないかも………暗に臭うその思考に四人とも動けないでいるのだ。

「何分……動いてないの?」
「わ、わかんない……。」
「瞬き……してなくない……?」
「や、やめてよ。先生呼ぶ?」
「呼んだら、こっちがヤバイでしょ。」

ヒソヒソと話していても状況は変わらない。次第に日が暮れ始めている教室の中に、空気が凍るような気配が漂い、四人は戸惑いながら入り口をウロウロと歩き回る。蛍光灯の光に照らされているのだと言うのに、何故か窓側の後ろに座るアキコの周囲は薄暗い光が届かない。アキコの直ぐ頭上の蛍光灯が点灯しているのに、アキコの顔が何故か闇の中に沈んで表情が闇に沈み始めている。、

「ど、どうしよ…………まさか、死んでないよね?」

恐怖が四人の中に浸透して、アキコに下手に近寄ることも出来ない。呼吸をしているのかなんて傍に行けば分かることなのに、傍に近寄るのも怖くて出来ないのだ。
そこから三時間、ついに校内を巡視していた年嵩の老教師が来たことでアキコが異常な状況にあることがバレた。恐らく午後三時前から身動ぎひとつしない、物音に反応しない、凍りついた人形のような状態で椅子に座ったままアキコは発見されたのだ。

「タガ?!」

教師に揺さぶられても、まるで反応がない。それでも瞬きは緩慢だがしていたし、呼吸の方も緩慢ではあったが一応している。ただ手足は血の気もなく氷のように冷たく強張っていて、老教師が手をとってみても指はガチガチに強張っていて容易くは曲がらない。これは何時からだと怒鳴りつけられて四人が泣き出しても、全く反応しないアキコを老教師は苦労して抱き上げていた。

マネキンみたいになっている

そんな状態で三階の教室からどうやって一階まで下ろされたのかも分からないが、その教師が両親に電話連絡し、両親が呼び出されていた。車に乗せようとしたアキコはまだ弛緩する事もなく、マネキンのように真っ直ぐに前を見たまま座席に乗せられている。
そして教室の入り口に残っていた四人は即座に教師に捕まえられていて、事情を聞き出したその年嵩の教師が更に担任を呼び出して状況を説明させたのだった。

「それは……どういう事なんですか。」

話を聞いた両親は唖然としたように担任に向かって問い返した。
アキコはこの事に関しても両親には、何も話していなかったのだ。自分の娘が虐められていた事も衝撃だが、日々職員室で床に正座して叱責を受けるふりをして過ごしていた。その理由が虐めを相談した結果で何も手を打たずにただ被害者を正座させていたのだと説明される。その上授業中の担任の目の前で、アキコは罵られ一種のショック状態に陥った。それを確りと見て知っていて、そのまま担任は職員室に逃げ、しかも自分は帰宅していて家から呼び出されたのだ。分かっていたのにアキコはこの状態で三時間も放置されていて、老教師が気がつかなければもっと長い間このままにされていた。

「あんた……何やってるんですか?担任なんだろ?」
「それは……その、アキコさんが、これ以上虐められたら可哀想なので……。」

呆れたように父が口にした言葉に、老教師も同じく呆れたように口ごもる担任を見つめる。

「……アキコのせいだっていうんですか?アキコのためにアキコを正座させたってんですか……。ならこんなショック状態で放置されたのも、アキコのためだって言うんですか?」

その言葉に担任は視線をそらし、言葉を失ったままになった。
その姿に失望した父は、それ以上の追求を諦め、アキコを自宅に連れ帰る。だが自宅に帰ってからもアキコは全く両親の声にすら反応を示さず、ただひたすらに人形のように座ったままだった。父は状況を更に詳しく知ろうと、あの場にいたカナエやマユ、ユカの家に次々と電話をかけていた。それを横に肩を揺さぶる母が堪えきれなくなって、人形のようなアキコの頬を平手で打つ。

「しっかりしなさい!!!お前はキチガイなの?!!」

叱咤激励を含んだはずのその言葉。ただそれは棘のようにアキコの心に突き刺さり、しかも更にアキコの心を粉々に打ち砕いてしまったのだった。

バケモノ、そしてキチガイ

それがどれだけ無惨にアキコの心を打ち砕いたかは、一言では説明が出来ない。ただアキコはその反動でボロボロと苦い涙を溢れさせていた。不意に溢れ出した涙を良い兆候としたのか、母がアキコを抱き締める。反応が戻ったことを良かったと言う母の腕の中で、アキコ自身は何一つ安堵できずに涙を溢し続けていた。

キチガイの……バケモノ……

そこから数日の記憶がアキコには全くない。
何日か自宅にいた記憶はあるが、後年その期間より前にあった虐めの部分もスポンと記憶が抜けていることが分かって、『一過性健忘状態』とされている。精神的に過負荷がかかったことで所謂ブレーカーを落とした状態になって、アキコはその原因を知らないものにして自分の心の負荷を減らそうとしているのではないかということだ。
そして半月程してクラス替えをするでもなく、アキコはそのままのクラスに戻った。その時アキコは完全に虐められていたこと自体を忘れていて、クラスの誰にも何故か得体の知れない別人のようにみえたのだと言う。
メグミが虐めを続ける気が失せた、それが一番の理由だが、戻ってきたアキコの態度は異様だった。

「おはよう。」

まるで虐められたこと自体が消ゴムで消されたように、教科書をボロボロにしたと知っていた筈の女子にアキコは挨拶をする。内履きをゴミ箱に投げ捨てたと知っている筈の相手に、掃除のゴミ捨てに行ってこようかと声をかけたりもした。挨拶のしかたも接し方も虐められた人間から虐めた者にする態度じゃない、何か報復を考えているのではと勘ぐった者もいたようだ。

「タガさん、なんとも感じないの?」

恐る恐る問いかけた一人に、アキコは不思議そうに何のこと?と穏やかに笑って問い返した。そうしてやがてアキコがあまりにも普通に接するのに、何事もなかったかのようにアキコと接する者も出てきていた。



※※※



中学二年の三学期終業式。去年はオカルト仲間にひっぱたかれて終わったが、今年は何も起きないで済みそうだとアキコは考える。クラス替えはないので、四月にまた新しいクラスメイトに気を使う必要もないし、このまま何もなく過ごせれば………指示された掃除を終わらせて自分のクラスまで戻るとざわめく人混みに気がついた。他のクラスの扉は出入り自由になっているのに、自分のクラスだけ扉がしまっている。しかも、同じクラスの男子は全員暇そうに廊下に出ているのだ。

「なにしてるの?」

最近少し会話できるようになった同じクラスの男子のタンノコウジに声をかける。タンノはアヤと同じ部活で同じように読書家だからといって紹介され、時々ラジオ番組に葉書を出したりする仲間になっていた。

「わかんね、戻ってきたら女子がなんかしてるみたい。」

隣の小柄なクラスメイトに何が起きてるのかタンノが聞いてくれる。

「メグミが誰かをしめてんだっ…。」

言いかけて横にアキコがいるのに気がついたクラスメイトが、ヤバいと口を塞いだのに気がつく。
瞬間ピリッと稲妻のように心の中に何かが走った。
タンノが慌てて止める声を肩越しに聞きながら、アキコはその体からでは想像も出来ない力で内側から硬く押さえつけられている扉を思いきり開いた。叩きつけられた扉の音と、無理矢理開けられた扉を押さえていたらしい女子の悲鳴。扉から真っ直ぐに教室の真ん中で凍りつく女王様とその目の前にマユを中心に取り囲む女子の姿が見えた。その中には、悲しいことにアヤの姿もある。見事に私以外の女子全員が揃っている。

「…………なにやってんの?」

低く穏やかなのに凍りつくアキコの声が教室の中に響き、振り返った数人の女子が悲鳴をあげた。そこには寒々しい蛇のような瞳で口元だけを歪に歪ませた冷徹な笑顔が、そこにいる全員を凍りつかせる。全身から冷気を発しているようなアキコの瞳がギョロと室内を見渡したかと思うと、メグミを真っ直ぐに見据えて捕らえた。

「なに、やってんの?」

繰り返される言葉の威圧と、全く笑いもしていない蛇のような冷たい瞳。女王様がアキコの顔を見ながら青ざめて数歩後退り、引き剥がすように視線を背けたのがわかって周囲は蜘蛛の子を散らすようにばらけた。
女子が慌てて自分の席につき始めた頃アキコはふと我に返り、男子が前の扉から流れ込み始める。力一杯開いた勢いで強く握りしめたままの扉から指を引き剥がすようにするアキコの姿にタンノが心配そうに視線を向けているのに気がつく。アキコはその視線に微笑み、軽く肩をすくめただけで会話は交わさなかった。
泣きそうな顔をしたまま席についたマユを眺めながら、アキコは興味を失ったように窓の外を見つめる。三月中旬になって気温が上がり溶け始めた雪が、雨樋をつたってキラキラと光を反射して輝く。アキコが起立しないことは相変わらず咎められることもなく、アキコ自身もそれに気がつくこともなくホームルームの終わるまで雪解けの水が滴り落ちる窓の外を眺めていた。
その帰途、歩いて帰る私を追い越すように駆けていったマユが小さく何か囁いたけどそれが何と言ったのか確かめる気にもならなかった。

気がつくと外トイレと呼ばれていた運動部がよく利用する体育館脇の外にあったトイレはいつの間にか鍵が取り付けられ、自由にはいれなくなっていた。よく分からないが安全上の問題なのか、それとも元々その予定だったのか暫くして取り壊すことになったらしいとアキコは誰かから後になって聞いたのだった。
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