鵺の哭く刻

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潜伏期

21.

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実際には日々の雑談の中で知ったが、フィと名乗る人物はアキコより一つ年上なのだ。看護の専門学校三年課程を卒業したアキコが、看護師として仕事をし始めて三年目にはいったばかり。その微妙なタイムラグにリエが気がついた時に、フィの方から丁寧に事情を教えてくれていた。
フィがまだ大学生だったのは一度専門学校に入って、その後改めて今の大学に入ったからなのだ。今は教育学部の三年、それ以上の事はあまり聞き出さなかったが本当に教師になろうとしていたとは。しかも教育実習とは内心酷く驚きもしている。
というのも考えてみれば自分は統べからく事実を馬鹿正直に述べていたが、相手も事実を話しているかどうかは分からないと心の何処かで疑っていた。何しろモニターの向こうが見えているわけではないのが、このネット上の関係というものなのだから。つまりは相手が話すこと全てが出鱈目でも文句の言えない状況だったから、アキコは相手の言葉を鵜呑みにしていた訳ではなかったのだ。
だからこそ彼が本当の事を話している。それは何だか、自分を信用していてくれたという少し悦びにも似た感覚だった。

電話を持つ手が小刻みに緊張で震えていた。
コールが一度なり終わるか終わらないかで受話器をあげた通話の音が響く。
そして一瞬の無言。
その影には受話器の向こうでも、ハッと息を呑む緊張感がある。受話器の向こうには今まで仮想現実だったはずの相手が、現実に人間として存在している証明を今にもしようとしているのだ。

『もしもし…………?リエ?』

震えるような緊張を滲ませた微かな男性の声。
緊張をありありと滲ませていると分かるその声は思っていたよりは少し高目の音だけれど、今までに一度も耳にしたことのない実在の人間の声だった。それが唐突に彼に現実感を持たせて、アキコは初めて相手が現実の存在なのだと認識した。携帯を握る手がまた少し震えるのを感じながら、アキコは改めて小さく息を呑む。

「うん」

アキコが答えると、受話器の向こうでホッと安堵の息をつくのが感じられる。それで相手も十分に不安だったのが目に浮かぶような気がして、アキコは微かに気を緩めていた。自分だけが、現実を感じるのに不安を感じていた訳じゃない。それが分かっただけでも十分な気がする。

ヒョゥ…………

遠く潮騒の合間に微かなあの声が哭く。まるでアキコが今思ったことは自分を偽る嘘ばかりだと言いたいように、何故かその哭き声は遠くともハッキリと聞き取れてしまう。でも本当に相手が現実で自分と話すために同じように緊張していたのだから、相手だって自分と同じ人間だと言うこと。それは嘘でも何でもないのに、何故嘘だと思う自分がいるのか。

ヒョゥヒョーウ…………

闇の中に沈む窓の外を見つめて、その闇にあの影がいないのを確かめる。アキコの部屋は三階で看護師寮には屋上もないし、アキコの部屋はその建物の真ん中辺り。何とか屋根によじ登れれば違うだろうが、ベランダから侵入するには一番ではないが面倒な位置だ。それに不在の部屋も多いのにワザワザ誰かのいる部屋に侵入するとしたら、それこそ黒い影処の問題ではない。だからもし窓から黒い影が入ってきたら、十中八九それは人ではないだろう。それに本当の事を言うと渇望を感じるようになってから、あからさまにあの影に襲われたことはない。
人混みの中に時々影を見たと思って振り返ったりすることはあるし、スーパーで買い物をしていて不意に背後から首筋に視線を感じることはある。振り返ると棚に隠れるように曲がる影を見た気がするが、それにあえて自分から近づこうとはしていない。勿論職場で闇の中に影を見るが、今のアキコはNICUの中でお産さえなければ夜間は明るい蛍光灯の部屋から出ないで仕事ができる。

そういう意味では嫌だったけど、移動に感謝しないと。

夜の暗闇を歩き巡視することはなく、時間でまだ母親と過ごせない新生児に母乳を温めて与えたり、おむつを変えたり、泣いている赤ん坊をあやして抱き上げながら過ごす。それに案外気が休まるのは、赤ん坊は無垢で純粋で何も悪意を知らないからだと思う。アキコが悪意の塊でもアキコは赤ん坊に害を与える気は何一つないから、赤ん坊達は不思議と大概がなついてくれた。抱き締めているとアキコの方が気持ちが安らぐし、赤ん坊も泣いていたのが嘘のように腕に抱くとよく眠る。

多賀さん、苦手って言ってたけど素質あるわよ、絶対泣き止むもの。

泣き止まない新生児を同僚から手渡されるほど。時には夜泣きするからと根をあげて赤ん坊を新生児室に預けて眠る母親もいるなか、アキコは何時か自分も同じように母親になれるのだろうかなどと考えながらグズる赤ん坊をあやしながら常に明るい室内で仕事をしているのだ。それでも分娩室との通路には影は現れて、影が来ると赤ん坊達が一斉に泣き出したりする。それを見ると無垢なものほど、あれを察知して怯えるのかとも思う。

あれは私以上の悪意の塊

赤ん坊はそれを察知するけど、同じような悪意の塊の自分には泣かない。影は完全に悪意だけだけど、まだ自分はそこまでには至っていない、そんなことを感じていたりもした。

『……はじめまして、だね。リエ。』

こちらが無言だったのに痺れを切らしたのか、緊張した声がそう言うのを耳にして今は自分はリエだったと思い出す。初めてした電話の声に意識が引き寄せられて、そうだ相手はフィだと頭の中で呟く。

「はじめまして、フィ。」

声以外は初めてではないのに、話すのも初めてという奇妙な状況。
その中で緊張しながら交わすフィとリエの声。
関東に暮らしているのはわかっているが、何故か電話の向こうはそんなことはないのにもっと遥かに遠いような気がする。それは遥か遠い場所からの声で、まるでモニターと重なるように、そっと言葉を選ぶような初めての言葉だ。互いに恐る恐る交わされ始めた会話の重なりにアキコは心臓が大きく脈打つのを感じる。
崩れていく仮想現実の世界という均衡の上に、新しい現実世界という枠を組み立てながら、お互いの事を伺いあうような会話を手探りで続ける。だがそれはまるでゲームのような恋愛ごっこだとも、アキコは心の何処かでは思う。

何故ならただモニター越しが電話に変わっただけ、だから。

アキコは心の中で、あえてそう繰り返して呟いてみる。電話の向こうのフィは決して出会うことのない擬似恋愛の真似事の相手、気に入らなければ二度と電話をせずネットでも交流を断って話さなければいいだけの事。もし、今気に入らなければ、このまま電話を切って着信拒否してしまえば二度と関わる事もない関東に住んでる大学生としか知らない他人。心の中で呪文のように自分を諭すようにそう呟く。そう考えていればこの会話だって別にたいした事ではない筈だと自分で自分に言い聞かせながら、アキコは探りながらの言葉を繋いだ。



※※※



電話という一線を一度越えたことは、実は二人の関係に大きな変化をもたらしていた。その後のフィが教育実習中の三週間の殆ど毎日毎夜、電話で会話をしてお互いの話を聴く。そんなことは無理だと思うだろうが、三交代で勤務しているアキコが夜勤の時も仕事に向かう前と仕事から帰ってきてマメに電話をしたのだ。
ただ声を聴く。
フィは実家にいるから電話をするにも隠れているような気配だったから、何時ものような如何わしい行為も発言もない。ただお互いに示しあわせたように、当たり前の日常の雑談ばかりしていた。時には勤務が忙しくどうしても時間が合わなくて、おやすみの言葉をかけるだけの時も、仕事をして帰宅しておはようの挨拶だけをすることもあった。それはある意味では奇妙な電話だとアキコも思う。
何しろお互いの本当の名前も知らず相手をハンドルネームのまま呼びながら、現実の話をしているのだ。一言名前はと聞けばいいのかも知れないが、それを聞く勇気が出ない。もし、相手から聞かれても答える勇気もない。きっと相手もそうだから、フィも一度として「リエの本当の名前は?」と聞いてこないのだと思う。

ヒョゥ…………

それでも電話のもたらした変化は、アキコ自身が考えても見ないほど大きなものだった。顔も知らないモニターの向こうの誰かは、顔も知らない受話器の向こうの誰かに代わり、雑談を重ねる度に相手の日常が組み上げられていく。フィは知らないが話している相手のアキコは実はとても勘が鋭く、そして豊富な読書量のお陰で蓄積された知識も豊富で少し特殊な人間だった。
大概のことは一度聞けば理解して、説明だけでも行うことができる。
仕事でも説明さえしてもらえれば、大概のことは直ぐ出来るようになる。
しかも、分からないことは先手を打って調べたり、聞いたりしてくる。
仕事ですらその状況の人間は、電話口の相手がどのような人間なのかをじっと観察しているのと同じだとフィは気がついていない。

フィの言葉の選び方は、緊張感が強いと慎重になる……

つまりは余り初対面の人間との対応は得意ではない。初対面の人間に緊張しがちなのは、対人面で何かコンプレックスがあるからかもしれないと考える。対人での関係にはコンプレックスがあるからこそネットにのめり込んでいるのだろうし、それでも電話してもいいと考えたと言うことはアキコに害意がないと判断したのと、不安でも話してみたい興味に負けたのだと思う。

ヒョーゥ

構築されていく人物像に会話はスムーズになり、時には子供のように笑うことすらある。誰かが自分と話して楽しそうに笑う。それは大分長い間経験がなくて、アキコにとっても楽しいことだった。やがてそれだけでは物足りないと思い始めている自分に気がついた時には、アキコは分かっていた筈なのに、スッカリ感情の沼の中に両脚を踏み入れてしまった後だったのだ。
どれだけ勘が良くて、仕事が上手く出きるようになっても、一日中・もしくは夜中に、くたくたになるまで働いて帰った時の独りの部屋。夜には必ずあの微かな哭く声と、時にはほんの一キロもない潮騒の音が届く程の静けさ。周囲には午後九時を過ぎれば住宅の灯りが幾つかあるだけで、コンビニの灯りも遠くにポツリとあるだけの場所。そこを独り帰って、鍵を開けて、誰もいない1Kの部屋に戻る。そして次の勤務が来るまでを独りで過ごすだけ。

さみしい

以前は平気だったはずのその環境が、今では耐えられないと感じるのは何故だろうとアキコは考えるようになり始めていた。

そして、誰かと話がしたいのではなく、彼と話がしたい。

少し不器用で、人と接するのに慣れていない様子のフィ。自分にしてもかなり無理をして電話をしているけれど、毎日規則正しく教育実習に向かっている彼にしてもこの電話を続けるのはかなり大変なことの筈だ。それでも彼は彼女から電話がかかってくるのを楽しみにしていて、電話をすると直ぐに出てくれる。

それが、嬉しい。

そう感じ始めてしまったら、その奥にあるのは彼に対する明確な好意だった。それはある意味依存とも言えるほどの感情で、看護師の仕事で疲れきった自分の心の孤独を埋めるには、まるで甘い金平糖のような甘い甘い誘惑として存在していた。
自分の電話代がかさむ事などどうでもいいと思った時、その甘いお菓子のような誘惑はハッキリとアキコの中で姿を変えた。
甘い誘惑は誘惑からアキコ自身の願望・渇望へと姿を変えていたのだ。
それに気がついたアキコは自分のこの感情は恋愛感情なのだと、改めて自分の中で結論をつける。
顔も知らない声だけの存在への恋。
その始まりがただ自分の心の孤独を埋めるためだけの恋でも、恋は恋だとアキコは感じた。



※※※



『あー……やっと明日は家に帰れる。』
「お疲れ様。実習これで終わり?」

受話器の向こうで、微かにベットの軋む音がする。それに彼が横になったのを察して、アキコもベットに俯せになって話を続けた。

『 うん、後はレポートさえ出せばね。終わる。』
「大変なんだね、学校の先生になるの。」
『看護師さんよりは楽かなって最近思うよ。リエの話聞いてると。』

微かなフィの笑い声に反応したようにアキコもクスクスと笑う。日勤上がりで風呂も食事も済ませて後は寝るだけのアキコは、明日から彼が元の生活に戻る事を内心残念に思っていた。何しろもとに戻ると言うことは、また明日かららブラウザ越しの会話に戻るのだと思うともう少し声が聞きたい。

「フィのお家の周りは静か?」
『うん?なんで?』
「ううん、ただ聞いてみたくて。こっちはね海辺だから夜は凄く静かなんだよ、窓を開けると波の音も聞こえるし。周りに何もないし……。」

話していたら彼の暫くの無言に気がついて、アキコは喋りすぎたかと思わず押し黙る。それにフィは珍しいなと言いたげに笑って、口を開いた。

『珍しいね、リエが自分からそんなに話すの。』
「そ、そうかな?」
『ふふ、なんでだろ?甘えてるみたいに聞こえるね。普段はもっと構えてる感じに話すのにね。いつもより可愛いな。』

唐突な彼の言葉に顔が一気に熱をもって赤くなるのがわかる。

『リエ?』

耳元に当てた受話器の向こうから微かに掠れた声が、まるで吐息のように名前を呼ぶのを感じた。

『……リエ?』

掠れた声にドクンと鼓動が激しく打つ。
耳にするのが甘い甘い声に聞こえる。
金平糖のように甘い誘う媚薬のように響く声。
何故だろう、耳元に直接囁きかけられているように感じるのは。
自分はどうなってしまったのだろう。
それを見透かしたように、微かに彼が笑う。

『いけない子だね、リエは。……何がしたいの?』
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