鵺の哭く刻

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潜伏期

41.

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今言った言葉は余りにも無神経だ。

クリスマスイブの楽しい夜のはずなのに何時もの如く街の喧騒から少し離れ、花街めいた片隅のホテルに入ったとたんシュンイチから不機嫌そうに言葉を突きつけられてアキコは唖然とした。

「………………今なんていったの?」
「だから、あいつらは女に手が早いから、何て言われたのかって聞いたんだよ。」

唖然としながらその言葉の先を見直す。シュンイチのいうあいつらとは他ならないコバヤカワと後から加わって彼女に気さくに話しかけてくれたコイズミというアキコより一つ年下の青年のことだった。

「自分がなに言ってるか分かってる?あなたは何もしてくれなかったのに、…………してくれた人を非難してるのよ?」

アキコの鋭い指摘の声に一瞬彼はたじろいだが、子供じみた感情の捌け口は収まり場所を知らない。イラついた様に「あいつらは人の彼女を取ったんだ」というその言葉に機嫌の悪さを示すような奥歯を噛む表情が、酷くアキコの神経を逆なでした。

そんな子供じみたいい訳を聞きたかった訳ではない

自分が何をしているのかを見ていて欲しいのに、そうしないアキコの姿が気に入らないことは分かった。でも、アキコも生きた人間で同じようにものを考えるという事には気がつかない、彼の大人になり切れない子供の感情を見たような気がした。
子供じみた嫉妬心の片鱗。
誰かが何時も手を差し伸べてくれると信じきっている無作為の感情。
人生はそんなに甘くはない、そのことも知ろうとしない。さっき僅かに食べた夕食なのか朝食なのか分からないイタリアンが逆流しそうな眩暈に襲われながら、アキコは思わず彼を上目遣いに睨み付けた。

「好きに考えればいいわ。」

突き放すようにそういうと、シュンイチを見向きもしないでベットに滑り込む。何かを話しかける声など全く意にも返さぬまま、胃の痛みを鈍く感じつつ無理やり眠りに逃げ込むためにアキコは目を閉じる。
 
彼らに子供じみた嫉妬をするくらいなら、最初から格好つけてないで私をかまえばいい。

他の人間にアキコがちょっかいを出されるのを見たがるくせに、実際に出されると怒るなんて馬鹿馬鹿し過ぎるにも程がある。胃の痛みが大きく傍ににじりよってきた様な気がしながら、アキコは無理やり意識を締め出していた。


※※※


締め出したはずの意識が鋭く重い痛みで引きずり戻された。まるで捻り上げられるかのような胃から走る鳩尾の痛みにアキコは一瞬何が起こったか解らずに、見慣れないのに何度か見上げた記憶のある天井を見つめる。激しい痛みが自分の体内から起こっていることに気がついて思わず顔をしかめるが、一昨日から蓄積していた疲労が、ここに来て酷く体に辛い。小さな声で痛いと声に出していうと更に痛みは明確な形をとったような気がしてアキコは青ざめた。
今日の正午には新幹線に乗って帰途につかないといけないのに、この痛みは酷く深刻な問題なのだ。しかし全ての対処をこの見知らぬ土地でするのは、如何にアキコが医療従事者でも難しい。ところが痛みに青ざめているアキコの顔を見ながらもシュンイチは、昨夜の事もあってか酷く冷淡な様子でアキコを無理やり引きずるようにしてホテルから駅までの道のりを歩かせていた。歩く度に痛みが強く襲ってきて、視界が揺らいでいく。

これは…………真剣にやばい…………。

駅前の大手デパートの地下街の傍まで来た時点で、アキコは朦朧とする意識でそう感じていた。激痛と言うのが一番相応しく、冷や汗が止まらない上に痛みは更に激しくなり歩くこともままならない。そう必死でアキコが伝えるのに忌々しそうにシュンイチはアキコを睨み付けるだけで、自分に手を貸すでもなく見下ろすその姿をアキコはどう思えば良いのか解らない。

私の事を彼女と言わなかった?愛情がほんの少しでもあるなら、こんな対応はないのでは?でも、私が悪いことをしているから、これが罰なの?なら私のした悪いことを教えて。

思わずそう言葉をかけたくなるアキコは暗くなる視界を感じて、数ヶ月前にシュンイチが合鍵を作るために彼女を待たさせた巨大液晶画面の前に思わずしゃがみこんだ。その姿にシュンイチは微かな舌打ちと同時に吐き捨てるように言った。

「こんなトコでしゃがんだって仕方ないだろ?」

投げつけられる言葉に、アキコは一瞬自分の中で怒りが爆ぜるのを感じた。今の普段あるアキコとは違う以前自分の中にあった、勝ち気で強気でしかも真っ直ぐに闇すらなかった時のアキコが、突然目を覚まし心の中で叫ぶ。

理不尽だ、悪いことをして罰を与えられてるとしても、この痛みは本物なのに。

その直後から一時の記憶は酷く曖昧だが、完全にアキコはその理不尽な言葉を吐いた男の存在を自分の頭の中から抹消して、アキコがそこで出来うる最良の手段を取った。アキコはシュンイチの存在を完全に無視して、最後の力を振り絞って無理やり体を動かすとデパートのインフォメーションに立つ女性に助けを求める。(彼氏)に頼れないのなら見知らぬ場所ではそうするしかもう方法がなかったのだ。
断片的な記憶の中で、アキコは車椅子に乗せられデパートのエレベーターに乗った。そして普段は触れ合う機会のないデパートの裏側にある医務室での診察を受ける。しかし簡素なそこでは到底処置が不可能な状況で救急車に乗せられ、救急隊員が救急車の中で血圧を告げる五十という数値で、朧気に自分が痛みのせいで完全にショック状態に陥って、死にかけているのを耳にしながら意識を失っていた。



※※※



闇は夢の中では遠く霞んでいて、何時ものように傍にはやってこない。それが何故か理解できないが、自分の中には幼い頃のアキコがいた。強くてしなやかで揺るがない子供のアキコは、おかしいことはおかしいと言い放つ。

理不尽だよ、おかしいよ

そんな風に言わないでとどんなに今のアキコが宥めても怒りに満ちた彼女は、決して妥協しようとしない。風の中で緑の中で、青く空の光を反射させるように蒼く清んだ瞳を光らせて幼いアキコは決して志を変えようとはしない。それはまるでアキコの中の核のように、ぶれずにそこにいてアキコ自身が戸惑うほど。

どうして大事にしてくれないの?

乳白色の靄の中に佇むアキコは、自分が放つその言葉にチクンと胸が痛む。自分を大事にしないのは、相手なのか自分自身なのか、自分でもよくわからないのだ。それに胸を痛める自分に、不意に暗く沈んだ別の声がアキコに囁きかけてくる。



※※※



ふっとアキコが意識を取り戻した時、最初に目にしたのは白い天井と自分につながる点滴の細い管のルートだった。

…………ここは……何処……?

一瞬、自分のおかれた状況が把握できないままに周囲を見わたす。穏やかな日の光の差し込む室内は音もなく時間の感覚もなく、自分が意識を失っていたことも暫くアキコには理解できなかった。やがて次第にハッキリしつつある頭で、白い壁の向こう側の周囲の放送や人の声などの喧騒からそこが何処かの病院であることを悟っていく。処置室らしい硬い簡易ベットの上で点滴をされている自分の姿にアキコは微かな胃の痛みと同時に喉に残る違和感を覚えながら、処置室ということはどうやら入院はしなくて良いのか等とボンヤリした頭で感じる。

「気がつきました?」

爽やかにかけられた看護師の声に、アキコはベットの中から視線を向ける。
カーテンを捲り姿を見せた自分より少し年は上だろうが生き生きとした看護師の表情が、何だか夢の中で見た幼いアキコを思わせアキコは眩しそうに微かに目を細めた。ヨツクラというネームプレートをかけた看護師は穏やかにアキコが運ばれてきた状況を簡潔に伝えてくれ、今が昼を当に過ぎた時間である事を教えてくれる。喉の違和感は胃カメラをしたせいだということに気がついて、アキコはつくづく意識を失っていてよかったと思いながら話に耳を傾けた。以前胃カメラを一度飲んだ時は嚥下反射が強すぎて酷い苦痛を味わったのだが、知らないうちに終わってくれたならそれで良いのかもしれない。気を失っていたのは約五時間にも及ぶことにアキコは微かに驚きながら、産まれて初めて完全な意識消失だと半分冷静な感覚で考えた。その話の後申し訳なさそうにヨツクラ看護師が、携帯の電源を切ったことを告げる。電話を取る気もあったようなのだが、残念なことに非通知だったのだという。

「何度も鳴って、申し訳ないと思ったんだけど……。」

病院内で携帯が鳴り響く様子を思うと、気持ちが暗澹たる思いにとらわれた。
相手がどう思って非通知でかけてきたかは分からない。それでも何度もかけてきているのは、相手は一人だとアキコも思う。何しろ意識がなくて五時間も連絡せずにいたのだから、しょうがないかも知れないとアキコはボンヤリと思う。しかし冷静な感情がどこかで警告を鳴らすのを感じながら、アキコは看護師に支えられながら救急室の入り口の公衆電話からシュンイチの携帯に電話をかけた。

『なんで、電話とらないんだよ!しかも、電源切ってただろ!!』

開口一番に激怒しながら怒鳴りつけられ、ヨツクラ看護師がアキコの表情を見て横から掠めるよう受話器を取る。アキコの変わりに酷く冷静な口調でシュンイチをたしなめるのを横に聞きながらも、アキコはまだ意識消失のせいなのかまだボンヤリ霞む世界の中に居た。

今日は帰れないか……明日日勤なのに……。

そんな冷静な思考が囁くのを苦笑する自分がいるのに、支えられて戻った診察室のベットの上でうつらうつらと再び微睡む。そして次に気がついた時には、ベットの横に座る少し不安げな表情のシュンイチの姿に気がついた。怒っている様な、それでいて不安でもある様な表情を眺めながら、アキコは染々と自分の中で渦巻く不可解な気持ちを見つめる。

子供のような人、誰もきっとそれを彼に教えなかった

それはそれで哀しい事だと思う。誰かが全てをやってくれると信じたままでは、何時か一人で生きていけなくなる。それをアキコは知っているが目の前のシュンイチはどうなのだろう。多くの出来事が全て自分の思う通りになると信じて生きているが、世界の殆どは思い通りにならないとどうしたら知るのだろう。
沢山の友人が居るとしても、その友人すらも信じきれないのはもっと寂しいことだ。自分のすべき事を周囲が肩代わりしてくれていたのも知らず、嫉妬し怒り狂った彼。今までの彼女が長続きしなかったのも、コバヤカワやコイズミの方に惹かれて、別れて彼らと付き合った理由がわかる気がする。
それは、どうしたら彼が知るのだろう。

「……大丈夫か?」

ぶっきら棒にも聞こえる言葉に微かに頷く。その声を聞きつけたかのように先ほどのヨツクラ看護師が、シュンイチに退室を申しでる。看護師の言葉に不満そうな彼の仕草が何かを言いたげにアキコを見下ろす。だが、アキコは何も言うこともないまま、シュンイチが出て行き変わりに入ってきた医師の言葉を自分一人で聴いた。それはアキコが看護師であったからでもあり、シュンイチに聞かせた所で現状は変わらないと判断したからでもある。が、それすらもさっきの様子ではシュンイチには理解は出来ないだろう。何しろ相手は携帯に非通知でかけた電話をとらなかったのを開口一番に怒鳴るくらいだ。

過労による急性胃腸炎

案外安易な病名だと思いつつ、自分の腕に刺された点滴の針が抜かれるのを見つめる。結局原因も分からず症状も落ち着いたので帰宅することが許可されて、不機嫌なシュンイチの後ろを少しフワフワする心持ちで歩きながら、アキコは胃カメラのせいで掠れる声を絞り出した。

「私……かえるね。」
「はぁ?何、言ってんだよ。」

不機嫌な怒声に微かにアキコの体が反応する。何故だろう、この声を聞くと体が微かにすくむような気がするのだ。それにシュンイチは気がつかないままに、その青年の無造作な手が腕をつかみアキコは微かに痛みに顔をしかめた。無意味に乱暴な行為がどれだけアキコを怯えさせるのかを危惧しない怒声が、至近距離でアキコに投げられる。

「今帰るんなら、もう二度と会わないからな!」

その言葉の強さに怯えながら、アキコはどこかで微かに自分が安堵したのを感じた。実際、もう一度同じように痛みの発作に襲われたとして彼が何をしてくれるのだろう。それであれば少なくとも自宅までは戻れなくとも、途中にある実家に居れば救急時の対応はベテラン看護師である彼女の母に任せることができる。それにこの二日間彼がどれだけアキコを労わってくれたと言うのだろう。

それをどこまでシュンイチは説明して理解してくれるのか?

愛情はある、だけど同時に冷静な自分が告げている。
その事を考えれば、もう充分だ。
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