鵺の哭く刻

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潜伏期

48.

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好き

いくらアキコだって、シュンイチのその言葉を鵜呑みに信じたわけではない。好きだと告げられても、その後も遠距離の交流を続けていくのだから、シュンイチが何時他の相手を見つけてもおかしくないのは理解できる。

それに最初が最初

そう頭の中では冷ややかに釘を刺す自分がいるのだ。アキコは二股で後からやって来た女で言い換えれば浮気相手の女なのだし、寝取った女だとも言える。そう思うからこそ自分だっていつか同じ目に合う可能性を、アキコ自身がいつまでも感じ続けているのは仕方がない。でもその後もずっとシュンイチは、訪れる度にアキコのことを彼女として扱うのだ。シュンイチの方から以前よりずっと近い関係性を漂わせて、特別な存在のように扱われることが次々と重ねられるのにアキコ自身は戸惑うばかりだ。友人達の集まりに連れていかれたり飲み会にも連れていかれたり、その中で時には彼女だからと紹介されもする。以前より少しずつ放置される時間が減って、傍に手招きされることが増えていくのは何故だろう。

「アキ。」

そう当然のように呼ばれて、シュンイチの自宅にいると友人が遊びに来ることも増えた。友人達はアキコのことをシュンイチの彼女と完全に認識していて、アキコ自身の存在を戸惑いもなく受け入れていく。

なんで?本当に彼女なの?

正直に戸惑うのは、二人きりになればアキコはシュンイチの性奴隷に変わるからかもしれない。痛め付けられ、それを泣きながら享受して、感謝すら述べる性奴隷。それと恋愛感情の表現としての恋人とは相容れないもののような気がしてしまうから、アキコは自分でもこんなに混乱しているのかも知れないと考える。

だって…………好き?

自分の中でシュンイチを好きなのかと問われると、実は今では逆に分からなくなっているのだ。一見大事にされているとは言え、その裏での全ての性行為は被虐行為を基本にしていて、痛め付けられる事に贖罪を見いだすしかない自分。それを求められるのがシュンイチだというだけのことであって、これを本当に恋愛感情とまとめていいのかどうかもわからない。

街を歩く恋人同士みたいに、相手を愛しく思えているのかな…………

自分と同じ黒髪の女性とスーツ姿の男性が、手を繋ぎ歩く後ろ姿を眺めながらそんなことを思う。好きだと言われたけれど、あんな風に穏やかにならんで歩くことなんかないし、二人きりになれば常に自分はかしづく性奴隷だ。そしてそれを自覚すればするほど、影に埋め込まれた蛇の存在が日に日に体の中で大きく育っていくのが分かっていた。ゾロリと体内を這う蛇の蠢きが体内で快楽に変わるのを、何度も繰り返されてそれに溺れていく。

「タガさん、聞いた?」

新生児に哺乳瓶で母乳を与えながらボォッとしていたアキコは、端とその言葉に我にかえる。考え事に耽っていたが、同じ新生児室勤務の看護師サイカチが保育器清掃をしながら、彼女に背を向けていたアキコに声をかけてきていたのだ。アキコは物思いに耽っていたとは思わせず、自然な動作で椅子の上で体を回して作り笑いを浮かべて見せる。

「何ですか?サイカチさん。」
「ほら、前にここで勤めてた眼科のさ。」

彼女の口にした想定外の言葉に、一瞬アキコは戸惑う。それは言うまでもなく、あの時アキコと一度とはいえ密接な交流のあったカネコ医師のことだと分かる。真面目で勤勉なあの青年医師に何が起こったのか、それはアキコは耳にする筈もない話題だった。

「なんかさ、傷害事件起こしたって。ニュースになってたの、聞いてない?」
「傷害…………ですか?」

サイカチが言うにはカネコ医師はあの後県南の県立病院に配属され、そこに勤める看護師と交際していたのだと言う。そしてその看護師に暴行し、看護師が警察に届けを出したので事件は表沙汰になったのだ。

そんな…………

元々彼はそんな暴力的な人間だったのだろうか。そうアキコは、背筋が凍りつくような気分でその話を聞く。カネコ医師とは確かに一時とはいえ交流があったが、シュンイチのような加虐性も行為も全く見えなかった。セックスは何処までも優しく丁寧で、それを考えた瞬間何故か体内でゾロリと蛇が蠢き、腹の中が熱く震えだした気がしてしまう。ゾロゾロと腹の底で蛇の蠢く感触に気がつくわけもないのに、何故か抱き上げていた新生児がむずがって泣き出す。

あの時なかっただけのこと?それとも…………

シュンイチと交わるとアキコの体内の蛇が蠢き、動きに情交は煽られ深くて淫らな快楽に溺れる。これがアキコとシュンイチの二人だけのことで、互いの性癖であれば誰にも迷惑はかけない。でも、以前は暴力的ではなかった人間を逮捕に至るまでの事態に変えてしまったのは、一体なんなのだろうか。

まさか…………もしかして………………私?

あの時はまだこの体には、影も何も埋め込まれていなかった。だが、本当にそれは正しいのだろうか。何しろアキコ自身の存在が過ちの元なのだとしたら、アキコに触れるだけで呪いがウィルスのように感染してしまうのだとしたら。このたった何年かの内に起きたカネコ医師の変容は

私と…………セックス…………したから?

そう考えてしまったら、アキコは凍りつかずに入られない。普通の真面目な青年医師が突然人が変わった理由が、自分に関わったせいだとしたら。もしかして自分の体に潜む呪いが、相手にも何か作用したのだとしたら。

「タガさん?」
「あ、すみません…………、ニュース見てなかったんですけど……どんな?」

貼りつけた作り笑顔で話を促すが、ニュースで聞いたにしてはサイカチの情報は詳しすぎる。実際には恐らく看護師の横の繋がりで県南に転勤した友人がいるに違いないと、アキコは冷静になろうと勤めながら考えていた。
カネコ医師の傷害事件は県南の山間部にある県立病院に勤めてからのことで、そこで勤務している看護師と親密になったことが発端。カネコ医師の方は本気で交際をしていたようだが、相手の方はカネコ医師との交際は本気ではなかったのだと言う。元々医師家系ではないカネコ医師は、ある意味苦学の上で医師になっていて、それ程裕福な暮らしではない。以前も話したが現地妻なんてものを持てるほど裕福な医師はそれほどいないし、看護師の方は実のところそれを知らず交際を始めていた。その結果本気になった青年が重荷になった看護師と、青年の感情に齟齬が産まれていったのだ。

「……やっぱり医者も金ってことよねぇー。」

そんなサイカチの言葉にアキコは能面のように笑いを貼りつけたまま、青年医師のことを憐れに感じていた。



※※※



一人考え込みながら帰宅しても、その答えは何一つ出てこない。何しろ答えなんてあるかどうかもわからないからで、自分と関わったから災厄に落ちたのか元からそういう人間だったのかなんてわかりもしないのだ。

誰かに…………聞いてみたい…………

アキコはそう考えるが、こんなことを簡単に聞ける相手なんかそうそういない。そんな気持ちを抱いて何気なく起動させたパソコンで、久々のオープンチャットを開くと昔馴染みがいるのが分かる。以前は彼ともよく話していたけれど、最近はシュンイチと話すばかりでオープンチャットに顔を見せることすらしていなかったのだ。

トノ

そのハンドルネームの相手は一見軽口ばかりだが、会話の流れは的確で恐らくは計算高い人間なのだとアキコは思う。計算高さと会話のテンポが早く、パソコン自体を使いこなしている気配のする彼は以前と何も変わらない様子に見えた。

《トノ:よお、久しぶりだな?リエ》

一度は自分と会わないかと誘われもしたが、アキコがシュンイチを選んだことで彼は少し立場を変えてアキコと接している。その立ち位置の取り方も、ある意味ではこんな交流に手慣れている人間だとアキコは感じていた。

《リエ:お久しぶり、暫く会わなかったね。》
《トノ:おう、本職が忙しくてな。そっちは?上手くやってんのか?ん?》

上手く。それがどこを指すのかは難しいけれど、彼が言うのは少なくともシュンイチとの性行為を示しているはずだ。簡単に受け流せば良いだけのログなのに、答えにつまるのはカネコ医師のことが頭を過るからか。そんな風にアキコが戸惑っていると、珍しく二人で話そうと相手の方から誘われた。シュンイチ=フィがここにいればこんなところを見られたら即お仕置きされてしまうが、まだ昼間のこの時間には恐らく眠っているか大学にいっているかの筈。それに本職という相手は実はSMの調教師として働いている人間でもあるから、アキコには分からない現実というものも知っている気がする。

《ねぇ、トノは体の中に蛇みたいなのが巣くってるように感じることってある?》

現実に蛇が巣くっているだと言えるわけではないが、こんな感覚と似たようなものを飼っている人間はこの世界にいるのだろうか。そう素直に考えてしまうのは、このままでいいのかとアキコ自身が密かに戸惑うからでもある。快楽に抗えないまま接していたら、相手にまで蛇を移してしまいそうな気がしてしまう。それに自分の中のそれが移るものなのなら、カネコ医師にも自分が移して、シュンイチにもう移そうとしているのかも。それでいいのかと思ってしまうのは、事実だった。

《蛇ねぇ……?なんか、情念っぽい表現だな。》
《情念?》
《怨念とか執念とか、そんな感じのもんみたいだよな。なんか…………蛇っていう表現自体が持つイメージがよ。》

そういわれると確かに。呪いという怨念や執念がこの影と蛇の発端なら、確かにそうかのかもしれない。それが巣くっている自分の中に、あの影はその片鱗を埋め込んでそれは体内で芽吹いてしまった。アキコの体内に巣くって、快楽を感じる度に自分の中で育ち始めている。

《それって…………他の人にも移ってくのかな?》

蛇に体内を擦られる快楽に溺れると、記憶があやふやになるほど溺れ始めていて、それは何故か相手にも作用し始めていた。カネコ医師はさておき、シュンイチが急に自分を彼女のように扱い、終いに好きだと言い出したのだ。こんなことの全てをここで話すわけにはいかないが、恋人として扱われ好きだと言われてもアキコは素直にそれを受け止められないのは蛇のようなこの感覚に踊らされている気がするからでもあるのだ。

《好きか…………。好きってのも難しいもんだな。》

ログを読んだ彼が何故か何時もとは違って、神妙にそんなことを返してきたのにアキコは戸惑う。トノの普段のログは滑らかで分からないものなど無いようにすら感じるのに、この迷う答えが酷く鮮明で彼の本心が透けたような気がしたのだ。

《どういうこと?トノ。》
《………………俺には好きって感情が欠落してるから分からんが、好きと感じたり言えたりするのは幸せだと思う。でもよ、リエはそうは感じてねぇんだろ?好きってのはその蛇とは別もんなのか?ん?》

欠落。
感情が欠落していると彼は言うが、アキコ自身もそうかもしれないと何故かボンヤリ感じる。最初はあれほど彼に恋していると感じたのに、好きと言われて喜ぶより今は戸惑いが大きい。好きと言われてシュンイチと会うのは嬉しいとも思う。それなのに怖くて仕方がなくなるのは、自分の存在の危うさなのか。

《それにしてもリエはお人好しだな。相手が二股をやめて、相手から好きって言われて、ここでも相手の心配か?ん?》

そうなのだろうか。確かに相手は彼女と別れて自分を選んだと言うことなのかもしれないが、怨念と表現してみても遜色がないほどに蛇の与える快楽に自分だけでなくシュンイチも溺れ始めている気がする。嬉しいのに自分の何かをシュンイチにも感染させてしまっているような気がして怖い。

《心配……っていうか、どうなのかなって……。》
《感染したからって、情念だとして全部が悪い訳じゃねえだろ?情念が移るんなら相手からも、お前に移ってんだろう?お互い様じゃねえか。ん?》

サラリとそう言われて確かにシュンイチから教え込まれた淫らな行為がなければ、アキコ自身もここまで快楽に堕ちることもなかったのに気がつく。シュンイチが痛みという快楽を教え込まなかったらアキコはここまでの変化は起こさなかったし、影が傍に来てそのままになってしまったのもシュンイチがいたからだ。影や蛇を身近に感じるようになったのも、シュンイチがアキコをちゃんと良い子に戻してくれなかったから。それで影は直ぐ傍にずっといるようになって、ついにこうしてアキコを絡めとってしまった。それでは結局どちらが先と言うわけてはなく、互いに同じような情念を体の中にもっているから引き寄せ会うのかとすら思ってしまう。

なら、彼にも同じように蛇のような物が巣くっているの……?



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