鵺の哭く刻

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発病

65.

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翌日の朝、病院から貰った鎮痛剤を飲もうとして起き上がったらしいシュンイチが上げた鋭い悲鳴で、アキコはハッと目を覚ました。しかしアキコは一瞬・無表情で苦痛に呻く彼の姿を酷く冷静な看護師の目で見下ろす。その予想外の冷淡に見える姿に、苦痛にうめくシュンイチがまるで非難するかのような声を上げた。

「……な……何してんだよ?!」

アキコは寝起きのせいもあってかシュンイチの声を無視して、冷静な看護師の視線のまま状況を観察して把握する。それは通常の同居する人間としては酷く冷ややかな視線にも見えたことだろうが、寝起きのアキコの頭はそこまでシュンイチに気を使う事もない。それは本来のアキコの冷静な思考だけの視線で、シュンイチは内心このまま放置されるのではと普段の事を棚にあげて怯えた程だった。
どう考えてもほんの少し体を起こしただけでこの痛がり様では自力で歩行するのは無理だし、シュンイチはアキコが抱えあげれるような大きさの身体でもない。そこまでで、あっさりと判断をアキコは下す。

「救急車、呼ぶわ。」

え?と言うシュンイチの言葉を無視してアキコは立ち上がりテキパキと電話をかけて、手早く保険証などの必要なものを鞄に投げ入れながら救急隊に住所とマンションの入り方を告げる。本当なら今シュンイチがただ傍にいて欲しいのは理解していたが、アキコは寝起きを叩き起こされてそれをする気分ではなかったし無駄な時間を使うつもりもない。だからアキコは酷く機械的で看護師らしい素早い動きで、救急車が来るまでの短い時間の間に十中八九確定していると判断した入院の準備を素早く整えている。

「あ、アキっ。」
「救急車は直ぐ来るから、そのままでいて。」

救急車に乗るストレッチャーという可動式のベットが玄関から入らないと既に判断していたアキコは、キビキビと機械的にシュンイチにこれから何が起こるが伝えながらその体の下に敷いてあるシーツをマットから抜き出し始めた。

「でも、な、何でシーツ?」
「多分ここまでストレッチャーが入らない。担架に乗せられるからこのシーツで持ち上げてもらうことになるよ、痛いだろうけどそれしかないから。我慢してね。」
「ええ?!なんで?痛くない方法は!?」
「それが一番痛くないの。」

有無を言わさぬアキコの言葉に、自分の状況もあってシュンイチもやむを得ず黙り込む。それをいい事にアキコはユックリと覚醒する頭で着替えをし状況を把握しながら、微かに聞こえ始める救急車のサイレンに反応する。
予想通り間口にストレッチャーは通らず、マンションの入り口につけた救急車まで担架で運ばれる羽目になった。実はアキコとしては玄関までが担架と踏んだのだが、慣れない場所に救急隊の方が手間取りストレッチャーを上手く入れられなかったのだ。担架はストレッチャーより安定が悪く移動には振動が起こるので、痛みが強い患者には更に苦痛が強い。でも、事前にそれが一番痛くない方法とシュンイチに釘を指しておいたので、シュンイチが思っていたより大騒ぎしなかったのは幸いだった。

「いだい!!!いだっ!静かにやれよ!!!」

思っていたより、だ。この程度の罵声なら痛みに悶える患者から投げつけられるのも慣れている筈とは思うが、少なくとも優しくはして貰えないと思う。兎も角そのまま救急病院に運ばれたシュンイチの痛みの訴えは激しく、案の定そのまま緊急で入院となっていた。ベットから一人で動く事も寝返りすら出来ない可哀想な姿を見おろして、アキコは静かに自分がしておかなければならないことを頭の中で確認する。
やがて救急室で射たれた鎮痛剤の作用でシュンイチがウトウトし始めたのを確認した後、アキコは迷うことなく入院の手続きを終える。

連絡先…………後で怒られるかな…………

やむを得ずシュンイチの携帯を取り上げて、彼の職場と彼の両親に電話をかけて状況を連絡していた。携帯を操作して電話番号を探しながら、見たことのない知らない名前だけの連絡先が幾つか有るのに溜め息をついてしまったのはしょうがないとして欲しい。なにせ、彼の実家はともかく母親の携帯も職場の上司の電話番号もこの中なのだ。

「そういうことで、入院になりました。」

丁寧に状況を説明したアキコの声にシュンイチの母親は今一つピンときていない様子で、続けて返された言葉にアキコは一瞬唖然とし目を丸くした。

『じゃぁ、二~三日日したら会いに行くわ。』

確かにシュンイチの診断名は、『腰椎椎間板ヘルニア』で命にかかわる病気ではない。しかし、先にアキコは状況を見た限りでは、下手をすると手術の可能性も考えられなくはないとも伝えていた。それ以上に自分の息子が救急車で運ばれて入院したと言うのに、二~三日後とは心配ではないのだろうかとアキコは呆然とする。

…………私が母親なら、一も二もなくとんでくると思うんだけど。

多分アキコの両親もとんでくると思うが、この親にしてこの子ありとでも言うべきなのかと思う。アキコは暫し凍りついていたが、端と我に返って病状説明を受けて欲しいともちゃんと伝えた。血縁者でもなく婚姻関係もないアキコには一応病名は伝えられたが、症状に関しては聞くことを守秘義務の観点からも拒否されていたのだ。

『あぁ、じゃぁその時に。』

やはり。帰ってきた言葉にアキコは呆然としながら、シュンイチの性格を作り上げたものの一端を見つけたような気がした。シュンイチの入院に心が騒がないのかと、一瞬怨めしく思うがその深い海の底に落ちたかのような気持ちで受話器をおいた。
目の覚めたシュンイチにこれをどう伝えたら良いのか戸惑うのは、アキコが気にしすぎなのだろうか。
数時間トロトロと微睡んだシュンイチが目を覚ましたのに、細かい必要なものを持ってくるとアキコは声をかける。

「なにか、欲しいものある?」
「わかんない……、ごめん。」
「いいよ、明日来るまでに何か欲しくなったら何時でもメールして?」
「うん、わかった。」

いいよと答えながら額にかかった髪を指先ですくアキコの指に、シュンイチは小さくありがとうと呟く。鎮痛剤の効果で少し苦痛の遠退いた様子に少し安堵しながら、アキコは電話で方々に連絡したことを躊躇い勝ちに伝える。

「…………勝手にして、…………ごめんね。」
「ん、いい、助かった。」

そして、ふっと気がついたようにシュンイチが、アキコの顔を真っ直ぐに見つめる。シュンイチの視線にアキコが何か欲しいものでも思い出した?と問いかけるのに、何故かシュンイチは何でもないと首を横にふった。

「それじゃあ、…………明日来るね。」

そう言いながら立ち上がったアキコを、シュンイチの視線が追う。カーテンに手をかけて立ち去ろうとする背中に、シュンイチは思わず声をかけていた。

「アキ。」
「なに?」

産まれて始めて救急車で運ばれてそのまま入院するのだから心細いのだろうなとふと気がつき、もう一度立ちかけた椅子にアキコは座り直す。そして、普段はアキコの方が小柄でこんなことをすることもないのだが、シュンイチに子供をあやして髪をすくように優しい手つきで頭を撫でる。

「痛くなったら、看護師さん呼ぶんだよ?楽な体勢にちゃんとしてもらってね?」
「わかった、アキ、…………明日早く来て。」

子供のようなその言葉に、アキコが分かったと答えると少し安心したような気配が浮かぶ。病の時ほど一人ぼっちは心にも体にも堪えるのは分かっていると、思いながらアキコは病室を後にしていた。



※※※



それからシュンイチの入院の全ての面倒を見ながら毎日を過ごした。これはオーバーな表現ではなくて、隅から隅まで本当の話だ。日々の面会・そして入院に必要なものの差し入れの面倒など全てアキコが面倒をみるという状況。シュンイチの母親が来たのはほんの片手にも満たない数えるほどの回数で、しかも何一つシュンイチの世話はしなかった。
鎮痛が上手くいけばベッド上の安静は退屈なものだと分かっているアキコは毎日本や携帯ゲーム等の暇潰しを差し入れたし、麻酔と造影剤を使う大きな検査の日も検査室に行くシュンイチを見送ったのはアキコ一人だけ。
痛みが強い時には鎮痛が優先され、炎症が治まらないと先の治療には進めない。やっと鎮痛されて、次は今後の治療方針のために現在の患部の正確な状況を知る必要がある。ただ、その検査には特殊な薬剤を使うので、本人と家族に必ず説明が必要なものなのだ。勿論ここまでしていても、その説明を聞くのはアキコではなくシュンイチ自身と彼の家族でないといけなかった。
毎日の身の回りの必要品を整えるのも・汚れ物を洗ってまた清潔な衣類やタオルを整えるのもアキコで、そして彼の母親は別段それを自分がしなければいけないとは思わなかったようだ。当たり前のようにそれは全て自分の仕事もしながらアキコが続けることになって毎日の面会と仕事の両立はかなり厳しい。
それでもアキコにとっては、苦痛は減ったと言うのが本音だった。

何故なら痛みで動けない状態では、他の女性と会うことはできないから。

意地悪な考え方だなと思う。
卑屈で醜い嫉妬だとも思っている。
でも、他の女性と会えないこの状況が分かっているし、理不尽な事で痛め付けられることもない。だから自分の心の中で渦を巻き泡立つようにも感じるどす黒く醜い感情を押し込めなくても済む。シュンイチに犯される時のように腹の底で暴れる蛇に狂わされることもなく穏やかに一人過ごして眠れるし、シュンイチを憎まずにただ世話をして傍にいる事だけでいいことはアキコにとっては今では逆に幸せだった。

例えメールで卑猥な言葉を他の女と交換したとして、ここで何ができるだろう。

今は暴力もなく浮気もなく、心や体に苦痛を伴うだけの性行為もない。ただ穏やかに彼を見守るだけでいい日々。それはアキコにとっては、今までの苦悩に満ちた日々を精算するかのような穏やかな日の気もする。そして、文句一つ言わず献身的に看護をするアキコの様子にシュンイチ自身も少しずつ変わってきたのに気がついた。



※※※



一晩安静にしていたから、大分症状は緩和したのだと考えていた。それは大きな間違いで起き抜けにあった鈍い痛みが、ほんの少し体を動かしただけで激痛に変わる。神経の痛みは逃す場所もなくて、まるで逃げ場がないのにのたうち回る事も出来ない。そんな中で優しい言葉をかけるわけでもなく、無造作にシーツをマットレスから外し始めたアキコの行動には流石に面食らった。しかし、その後救急車が来たら担架にのせられるが、痛い、しかもそれが一番楽な方法だからと断言されて呆気にとられる。

優しくない!いつもの仕返しか?!

そう思ったが、結果として自分の中の認識自体が甘かったことは、その後僅かに五分で理解した。ベットを運び入れられないから抱えあげますと言われ、しかもアキコの言う通りシーツで持ち上げられたのだ。自分で動かすこともできない激痛だと言うのに、担架にドサリと下ろされて、しかも揺れる担架が持っている救急隊員の歩調で振動する。痛いと叫ぶこともできなくて歯を食いしばっていたら、今度はストレッチャーとか言う移動ベットにドサリ。

痛いってんだよ!!!

そう叫ぶこともできないのに、今度はそのストレッチャーとか言うベットが動くのがガタガタゴドゴドと振動する。痛くて痛くて呻くことすらできないのに、アキコが一緒に乗ってきてそっと手を握ると病院についたら鎮痛して貰えるから頑張ってと優しく囁く。
救急病院で先ずは肩にとんでもなく痛い注射を容赦なく刺されて、それでも暫くしてアキコの言う通り痛みが少しだけ遠退くのが分かる。それにしても看護師はどれも天使のように優しいものだと思っていたが、パジャマをひっぺがす手際の酷さに救急室で大きな呻き声をあげた。まるで身ぐるみ剥ぐような勢いで、体を転がすのだ。

昨夜アキがこれよりきついスーツを脱がせたのか聞いてこい!じゃなきゃアキに変わってくれ!

そう叫びたいが痛みで叫ぶこともできない。しかもその後もレントゲンだと移動、ベットに移ると移動、診察だと動かされ、まるで優しくなんかない上に、痛いと言っても鎮痛したばかりだからの一点張りだ。やっと二度目のとんでもなく痺れるほど痛い注射をされて、鎮痛剤効果でウトウトしたらしいシュンイチが気がつくと目の前に心配そうに見ているアキコがいた。シュンイチが寝ている間に必要なことを既にきちんと済ませてくれたアキコは、何時かのようにごめんねと謝りながらシュンイチを気遣う。

不思議な女だ、どうしてやってあげてるんだから感謝してって言わないのかな。

帰る姿にふと不安になる。このまま帰ったらどっかに出て行くんじゃないかと思ってしまう。そう思っていると、シュンイチの気持ちに気がついたようにアキコは戻って座り直して優しく微笑む。

「痛くなったら、看護師さん呼ぶんだよ?」

その言葉にふっと、優しいなぁと染々思う。優しくて真面目で一途にシュンイチを大事にしてくれるアキコ。アキコの帰る後ろ姿を見送りながら、シュンイチはアキコに申し訳ない気持ちで一杯になった。せめてあの時乱暴してごめんと言っていたら、せめて傷の手当てくらいしてやっていたら、こんな風な気持ちでアキコの背中を見つめることはなかったかもしれない。
そんな風に考えたその夜、数時間毎に無理矢理看護師に叩き起こされて寝返りをさせたり、排尿のために呼び出したりする度にシュンイチはアキコの普段にとことん感謝しなきゃと思わされた。夜中ずっと働き続けるのが大変なのは分かったが、毎回寝返りは酷く力ずくで腰が痛む。呼んで排尿したいと頼んだら、良いからオムツにしろと言われる有り様だ。呆けたジジババじゃあるまいし、オムツに失禁なんてどんなプレイだよと叫びたいが痛みが酷くて、オムツにすると今度はオムツを交換されるのに悲鳴が出そうになる。寝返りの形が悪くて背中が痛むと訴えても、アキコのように寄りかかれるよう上手く枕を整えてもくれない。それでも看護師は何時間おきに病室全部を見て回らなきゃならないようだし、点滴や内服薬も管理しなきゃいけない。寝たきりには体も拭いてやらないといけないし、必要な人は日に何回もオムツを取り替えないといけない。しかも、シュンイチのように若くて頭のしっかりしている患者だろうと、ボケボケのじいさんだろうとまるで表情が変わらないで淡々と対応するのには冷淡にすら見える。

それにしてもこの体格のいいデブ看護師は兎も角、アキはどうやって自分を寝返りさせているのか……
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