鵺の哭く刻

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75.★

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それは本当に夢のような事だ。

最初はアキコは洋装の写真撮影と籍だけと実は思っていたのだった。親の反対を押しきったアキコとしてはこうやって両親が納得してくれるとも思っていなかったし、入籍出来ればとしか考えられなかったのだ。それでも紆余曲折はあったものの両家の両親と結納もしたし、きちんとした式も挙げる予定。そうして籍を入れ、今はこうして和装花嫁の写真まで撮ることまで。多人数で着付けられ一人では自由に動くことも出来ないほどの和装に驚きながら、着付け室から手を引かれてアキコはシュンイチや家族が待つホールに繋がる廊下に足を踏み出した。
純白の白無垢に銀糸の鶴の刺繍、薄い紅色の半襟から覗く襟足は陶器のように真っ白で艶かしい。着物の裾を手繰り持ち滑るようにして草履の足が歩きだした廊下は、バックヤードとは言え深い絨毯敷で足音もたたない程だ。それでもホールに向かって手を引かれて歩くアキコは着物の重量に、鬘の重量も加えられていて視線を俯かせたままでいる。

ヒョウ…………

不意に花嫁姿のアキコは、その哭き声に視線だけ動かして振り返っていた。鬘のせいで頭が重く自由に振り返られないが、ホテルの細長く人気のない通路には影もなく体内で蛇の蠢く感触もない。それでもただまるで何もなく空っぽのような空間に、まるで一人で取り残されているみたいにアキコは暗い通路に立ち尽くして見つめていた。

ヒョーゥ

なんの声?そう何度も繰り返し聞いてきたこの声が、一体なんの声なのかアキコは未だにその正体を知らないし直に見たことがない。だけど、この声はまるでアキコの直ぐ傍にいて、何時もアキコに聞こえるように哭くのだけはもう分かってもいた。勿論直ぐ傍にいる他の人間に聞こえることもあるけれど、何かを伝えようとでもするように意味ありげにアキコに向けて哭く声。
ホテルの高級な絨毯に足音は飲み込まれ、声にはアキコがどちらに向かうかはわからない筈だが誘いかけるように通路は暗く沈む。何故か手を繋いでいた筈のスタッフの姿も消えて、一瞬で別世界に紛れ込んでしまったような空っぽの空間をアキコはフカフカと足の沈む感覚のする絨毯を進んでいく。

オレンジ色のボンヤリとした灯火。

何故かその光に近づくと外にいた筈ではなかったのに、ヒヤリとした空気の中にいていつの間にか激しい雨に飲まれている。空気は冷たく、雨だけでなく沢の水の香りがして、その周囲には青い緑の香りもするのにアキコは戸惑う。決して街の臭いではなくて、どう嗅いでも空気はまるで東北の故郷の山の中のように感じている。そして昔話よろしくその山の中をアキコは歩いていて、それが何処なのか全く分からない。それを知りながらも、アキコは更にその灯りに向かって近づいていく。そこには無声映画のようにボンヤリした橙色の提灯が奇妙に幾つも揺れていて、何人もの黒紋付きの着物の人々が両側で顔を隠すように俯いている。
他の誰かの結婚式に紛れ込んでしまったのかもとアキコは辺りを見渡すが、何故か自分がやって来たはずのホテルの通路が闇に沈んで見えなくなってしまっていた。それどころか来たはずの通路の辺りは既に闇になっていて、自分がどうやってここに来たのか分からない。

ヒョーゥ…………

再びあの哭き声が闇の中から聞こえて、アキコは戸惑いながらその声のする方へもう一度視線を向けた。哭き声はどうやら提灯の先に続く鴨居を潜り抜けた先から聞こえていて、気がつくと無意識にアキコは鴨居を潜り畳の奥座敷荷足を踏み入れてしまっている。これはおかしいと頭ではわかっているのに、ホテルにこんな場所があるわけないと分かっているのに、その足の裏には踏みしめた畳の感触とイグサの青い匂いが漂う。

ヒョウ…………ヒョーゥ

ガタンと大きな音がして振り返ると四方は土蔵のような堅牢な壁に囲まれ、入り口は頑丈な格子戸で遮られてしまってアキコは青ざめながら格子戸に駆け寄った。戸口を開けようにも既にかけられた硬い南京錠の音がガチャガチャとするのに、アキコは罠にかかってしまったと思わず悲鳴をあげる。ここにこのまま押し込められていたら、あれに食われてしまうと思っているから、慌てて戸をガタガタと揺すって開こうとアキコは必死になって足掻く。

………………あれって……なに?

格子戸に指をかけながら、アキコは自分が今考えたことに凍りつく。何故ここにいてはならないと本能的に考えたのか、そしてここに何がいると言うのか、しかもこれは現実なのか夢なのか。
アキコは戸惑いながら、土蔵だと感じたそこをソッと見渡す。
窓は小さく日も光も射し込まず薄暗い、中には流れることもないジットリとした空気が淀んで足元を冷たく舐めている。漆喰の土壁、少し奥には畳敷きの小上がりがあって真新しく入れられたらしい畳の匂いがする。そして薄暗い小上がりの奥には古い金屏風がヒッソリと立ててあって、アキコはそっと裸足の足から土を払って土間から上がった。

…………これは、…………夢に違いない。

こんな場所を見たこともなければ訪れたこともない。そう思うのにそこが何かアキコ自身が知っているのだ。

ここは…………

そこには既に白無垢に身を包んだ花嫁御寮が、正座して俯き加減で座っている。そこにいるのは白無垢の花嫁だけで、隣にいるべき相手の姿はこの空間には何処にもいないのだ。しかもここは閉鎖された土蔵。婚姻を祝うには、余りにも暗く、そしてここの空気はおぞましい。早く夢から目が覚めてと願うのに足を止めることも出来ず歩み寄り、遂には口元だけが美しく紅に塗られた花嫁のことを同じ花嫁姿のアキコが見下ろしている。
真っ白な白無垢に陶器のような真っ白く滑らかな肌、鮮やかに潤んだ紅の唇。
その俯いた顔を見るのが恐ろしいと思っているアキコの、背後の格子戸ではなく遥か頭上でガタンと何かが音をたてた。

ヒョウ

直ぐ頭上に何かの気配がする。何か得体の知れない影のような悪意に満ち、そして酷く深淵の底のように冷たく水面に沈んでいるように息苦しさを感じさせる何か。何故それがそんなにも悪意を伴って自分を見ているのかが分からないのに、それは自分を確かに頭上から見ている。そして、この哭き声は頭上のものの哭き声なのだと、アキコは初めて気がついていた。鳥でも獣でもないこれの哭き声は、聞く者に害になる魔性の哭き声。

ヒョーゥ

そして、これはアキコにはずっと幼い頃から聞こえている。聞く者に害を与えるとアキコが知っているのは何故か分からないが、時にこれはアキコ自身にも害を及ぼすのだから分かって当然なのかもしれない。そして頭上を振り仰げはそれが何かは目で見ることができるのに、それをしたら最後だともアキコはわかっている。その姿を直に見たら自分が全て食われてしまうと肌で感じながら、アキコは目の前の花嫁御寮と同じく俯き冷や汗をかきながら震えていた。

ヒョウ

ギッと木材が軋みをあげて、何かが重い足音をたてている。それは人間の歩く足ではなく、まるで巨大な猫でも歩くような独特の足音がギッギッと頭上をグルグルと歩き回るのに、何故かそれが天井に爪を立てて逆さまに歩いているとアキコは頭の中で感じて必死に自分の足の爪先だけを見つめていた。

ああっ!

ギクリとその艶かしい声にアキコは体を震わせ、僅かにだけ視線を浮かせる。目の前に座っていた花嫁御寮の姿はその場からかき消えて、目の前の金屏風の裏にもまだ空間があるのが微かに見えていた。

あぁ!いや!ああぁあ!

そこにある空間は艶かしい声の出所。花嫁御寮の白い腕が金屏風の端から助けを求めるように伸ばされ、ガタンと音を立てて金屏風を弾き倒す。そこは想像に容易い艶かしい閨の床で、引き込まれたのだろう白無垢の花嫁御寮は見たことのない長い爪をもった恐ろしいものに組み敷かれていた。

あぁ!!ああ、ああぁ、ああ!

それがなんなのかアキコには分からない。何だか分からないが影でもなければ蛇でもないが、そのどちらでもあるとも思った何か。それに背後からのし掛かられ着物の裾を捲りあげて、獣の交尾を強いられ歓喜の声をあげる花嫁御寮の顔は紛れもなくアキコ自身。

…………そうではないかと思っていた。

やがて激しい歓喜に蕩けて喘ぎ、人間ではない化け物に犯されていく白無垢の花嫁の放つ淫らさ。その体の上で白銀の毛並みの四つ足の獣の体をして、面は猿か人のように口を真横に開き歯を剥き出して嗤い、尾には黒く太い蛇をウネウネとくねらせている。それが二周りも小さな花嫁の体に自身の長大な逸物を突き入れながら腰を振りたくり、蛇の尾も同じように体内に捩じ込んでいく。それに白無垢の尻を突き上げてアキコが快楽に見悶えているのを、青ざめながらアキコは見下していた。

はぁあ!いい!いい!ご主人様!ああ!ああぅ!いいぃ!もっとぉ!!

獣を主と呼びながら歓喜に仰け反り、ヌボヌボと化け物の逸物を受け止めて、それの放つ精に酔い始める花嫁御寮。それに覆い被さる人面の獣が奥歯を食い締めて歯を剥き出し笑い続けているのに、アキコは凍りついたまま立ち尽くしていた。

出してぇ!!精液をください!!孕ませてぇ!!!

その言葉のおぞましさ。凍りついたままのアキコは、歓喜に泣き喚き喘ぎ続けるアキコを見つめている。獣に犯されて狂い落ちる自分の姿にアキコは目を見張り、その獣は本当にいるのか、それともシュンイチなのかと呆然と考えていた。
これは本当に夢なのか、現実なのか、どちらにしてもここにこうして閉じ込められたままでは…………

「アキ?」

その声にアキコは不意に我に帰って、目の前に立っているシュンイチの顔を見上げていた。ホテルの通路は特に変わった様子もなくフカフカとした絨毯に、多くの人のざわめきが辺りには満ちていて、絶え間なく人の話し声が聞こえている。自分の手をとっていた女性スタッフがにこやかに両親達と話していて、目の前にいるのは花婿姿のシュンイチただ一人だ。
パチパチと数度瞬きをしてアキコは辺りを見渡す。
今の白無垢の角隠しを身につけたアキコの手をとっているのは、紋付き袴のシュンイチで俯いていたアキコはほんの数秒の白昼夢を見ていたらしい。一瞬だけしかボンヤリとしていなかったらしくて、シュンイチはアキコのことを眺めているけれど異変は感じていない様子だ。

良かった…………夢…………。

そう安堵に微笑むアキコに、シュンイチが少し頬を染めたのに気がつく。どうかしたと問いかけようとしたが、その前に女性スタッフに連れられた両親達がアキコに話しかけてくる。古風な柄を銀糸で刺繍され純白の着物姿の花嫁御寮と花婿に、着付けをしたスタッフですらカメラを構える程の美しさだったのだ。

「こんなにお綺麗な花嫁さん、滅多に見られないですよ!」
「綺麗だわぁ。」

その美しさは知らない人までが思わず、白無垢のアキコの姿にカメラを向ける程。そして隣に立つ花嫁御寮に、シュンイチもポカーンと呆気にとられたほどだ。まるで人形のように完璧に整った美しさの花嫁に、誰もが思わず足を止めて眺めている。
とはいえ美しさと比例して着物はかなりの重量で一人では満足に動くのも難しくて、一瞬貧血にでもなりかけてしまったらしい。だから少しボンヤリしていたらしいとアキコは考えたが、そのせいか寸前まで白昼夢の中で自分が何を見ていたのかあっという間に分からなくなってしまっていた。

「大丈夫?アキ。」
「うん、凄く重いの……。」
「でも、凄く綺麗だよ、アキ。」

そう手をとりながらシュンイチから言われる言葉に、アキコは思わず頬を染めて俯いていた。



※※※



驚く程という表現では足りなかった。実際には普段接しているタガアキコはそれほどパッとしない女だと思っていたのに、花嫁姿で現れたタガアキコはまるで別人だったのだ。目の眩むような際立つ美しい華のような花嫁に、周囲の人々から感嘆の溜め息が溢れ落ちて羨望の眼差しが向けられる。それとよく似た顔だちの母親は、それが当然の事のようにほら見たことかと言いたげで、正直腹立たしいのだ。

花婿が目立たないわ

我が子の紋付き袴姿なんて始めてみたのだが、背の高い息子にはまた仮装の範囲でしかない。それに引き換え嫁になる方はその場の話題を全てかっさらってしまう程の美しさで、しかも実は姑になる自分も見とれてしまっていた。

それでもこの娘が、やがて初子を産む…………

そう思えば見た目がよいことも大丈夫だから、と苛立ちをのみ込むことにする。息子が選んだのだから立派な初子を産んで貰って、その後はどうとでもなるだろうと実は思っていた。タガアキコがシュンイチの子供を産みさえすれば離婚だろうとなんだろうと構わずいられるのは、必要なのは血を継ぐ子供の存在なのだ。血筋の子供さえ残せればと思うのは、自分がそれで長年苦しめられてきたからだった
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