鵺の哭く刻

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悪化

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アキコは薬を服用して意識を失って直ぐに、その半分ほどを無意識の中で吐き出していた。その嘔吐の瞬間、横にいたという夫に発見されすぐさま救急車で病院に運ばれたのだという。そして救急センターで経鼻カテーテルという管を鼻から胃まで通して、胃の内容の洗浄を受けていたようだ。
通常薬剤の過剰内服を伴う胃洗浄には、炭の吸着力を使うため炭を含んだ洗浄液で洗浄を行うが、それには強い苦痛を伴う。その苦痛に無意識でも患者が大暴れする事が多いのだ。アキコ自身も恐らくそうだったのだろうから、アキコはその治療が終わる頃には体中を痣だらけにしていた。同時に無意識で動き点滴などを抜いてしまう為に、両腕は度重なる点滴の針を刺した痕で真っ黒く変色していた。それを予防するためにアキコの四肢は、白い拘束具で完全に拘束されていたのだった。

何て、皮肉なことだろう…………

それを理解出来るように戻ってきた意識で、アキコはボンヤリと苦く思う。夫という男に拘束され虐められるのが嫌になったのに、ここでも治療と称してだが自分は拘束されてしまっている。しかも普段なら早々チャットを終わらせもしない筈の男が、あの後直ぐに何故かベットルームにいてアキコの異変を発見してしまった。しかも普段ならそんな対応できもしないのに、ちゃんと救急車を要請した訳だから腹立たしくもある。
そうしてアキコはたった二日で退院する事になった。
理由は三つ。
一つは早期発見だったのとアキコが横を向いていて、嘔吐したものが殆ど気管に入らなかったので肺炎を起こさなかった事。
一つは医療従事者のアキコの母親が、アキコを実家に連れ帰って世話をすると申し出た事。
そして最大の理由はアキコが診断のつけられた鬱病患者であり、未だ同じ事をする事が可能でリスクが高い状態である事だった。
正直に言うとアキコのように、まだ体力があり行動を実行する能力も残したままの鬱病患者は本当に厄介なのだ。計画をする知性は残しているし、そのための行動なら何とか車を運転し準備を整えることも出来る。しかも、それを阻止する環境もマンパワーもないから、アキコは可能なら準備のために一日中を活用も出来てしまう状況。
アキコのような自殺を図る患者は多くの病院では面倒事の種と同じで、紹介状に《自殺企図》の文字があろうものなら入院自体をお断りされてもおかしくない。これを聴くと病院なのにと思うだろうが、現行の医療体制では、どんなに管理のいい病院だったとしても実は患者が自分で死のうとするのを遮るのは難しいものなのだ。患者が本気でそうしようとすれば、一般的な病院だったら自殺の手段なんてそこらに沢山転がっているようなもの。ここでは流石に具体例はあげられないが、本気であれば案外多くのものはそれに使うことが可能。そして昨今の世の中では過去の精神科のイメージである拘束具は、身体抑制を禁じる風潮の中使われなくなりつつある。つまり死にたい人間を止める術は、ほぼ人の目で監視して人が止めるしかないのだ。だから自殺をする可能性の高い患者なんて診たくないのが病院側の本音だし、アキコがマトモに自分が看護師として関わっていたとしても正直そう思う。つまりは最初からお断りをしてご遠慮させていただきたい、最も敬遠するタイプの患者なのだ。
そうして、アキコはたった二日入院ベットに縛られ寝たきり生活をしただけで退院した。
たかが二日でも完全に寝たきりの上自分で動けないように縛られていたアキコは、起立性低血圧でふらつき眩暈を起こす体を両親に支えられながら荷物を取りに自宅へと足を向けることになったのだった。何故病院のベットにあの不愉快な縫いぐるみが置かれたのか、それはシュンイチが家からワザワザ持ち込んだのだという。その理由はよくわからないし、何故処分した筈の縫いぐるみが家にあったかもわからない。そんなことを考えながら、やっと辿り着いたアパートでそれは起きた。

「彼女のうちはここです。」

唐突にアキコを実家に連れ帰るための準備をしようとしたアキコの両親を遮り、今まで無言でついてきた男がそう言い張った。それを聞いた途端今まで一番冷静だった筈のアキコの父親が内心で激怒し始めたのを、アキコはぼんやりと何か口を挟むべきなのかもしれないがその意欲すら起きないなと考えながら眺める。

「アキだってそう思うだろ?!」

その言葉にもアキコは無言のまま、ボンヤリとして男を眺める。本来なら男を一番に擁護するはずのアキコが、自分に同意すらしないことに男は何時ものあの子供のような不満に満ちた奥歯を噛む表情を顔に浮かばせる。アキコの父親が強い口調で男を叱責し、その表情が更にどす黒く赤く染まり更に音が出るほど強く奥歯を噛む。

後でまた私が殴られるのかな………………

今のアキコの心にあるのは、ただそれだけの危惧だった。男はどうみてもアキコの父親の正論を言い返すこともできないでいて、ハッキリ言えば頼りないどころの話ではない。それでもアキコが実家に帰るのは許さないと食い下がっている姿に、父親が明らかに表に出るように苛立ち始めたのがわかる。

「病院を退院できたのは、家で面倒を見るという条件だ。」
「家なら彼女の家はここです。」
「君が放置し続けたから、この結果だろうが。」
「でも、彼女の家はここなんですから、ここで暮らすのが当然なんです。」

家はここの一点張りに、ここでは誰も見てくれないからよくならないという説得。堂々巡りし始めた議論にボンヤリとして見える状態でもアキコが、心の中で淡々とした知性を蠢かして父親に呟く。

この人はおかしいから、お父さんの話は何も正しく伝わらないんだよ。

やがてアキコの心の中が伝わったように、父親が相手の理解力の低さに困惑し始めたのがわかった。アキコが自殺企図の状態でここに放置したら同じことを繰り返すとは思わないのかと言っても、男には明確な根拠も理由もなくここから帰さないの一点張りなのだ。

どうせ…………理解しない…………

やがて男はアキコのかかりつけの病院で医師と相談することを頑なに主張することで、アキコがここに残るための反論を繰り返しする。だがアキコの両親は疲れをにじませたアキコを見やって、酷くあっさりとその提案に同意して直ぐ様そのクリニックに行くよう電話を掛けて手配したのだった。
実際のところアキコの母・ミヨコは看護師だったし、父・アツシも医療職ではないにしろ病院で長い間働いた経験もあって二人ともが患者を見る能力に長けた人物だったという事を、男は理解していなかったのだ。経験に裏打ちされた行動の的確さはアキコが、ここに再びいることは許されないと判断していた。そう医師からも判断されることは分かっていたし、相手が医者の言い分なら聞くのであれば尚更、早急に両親はクリニックに行くことを了承した。それはその結果が多少の差はあるとしても結論として同じ部分に辿り着く事が分かっていたからだと思う。だがクリニックで眼にしたのは、両親の予想をはるかに超えた事実だった。

「自殺未遂を起こすようなのは、もううちでは診れません。」

家族だけでなく本人を目の前にそのクリニックの院長は、こちらを見るでもなくカルテから眼を離さず言い放つ。それはハッキリとした拒絶だった。
自分の勝手で過剰服薬を起こしたとはいえ、信頼している医師の言葉にアキコは呆然と医師を眺めていて、個人としてではなくただ物の様にアキコを扱う言葉に両親の表情が硬く強ばる。信じて通った筈の医師・信じて飲んでいた筈の多くの薬剤が頭を巡るような気がした。勿論、アキコがしたことは医師を騙して処方を出させたのだから、そう言われても仕方がないことなのだ。ただ処方の時点で体型や体重などを検討せず、無闇に追加処方を行った点では医師にも追う責任はあった。勿論それを処方した薬局にも同様の問題は生じる。
呆然とするアキコを横に医師は全くこちらを見ようともせず、カルテに一身に何かを書き込みながらめんどくさそうにもう薬剤の処方はしませんと言い放った。

「…………ご実家に帰って二十四時間観て貰えるならそうしてください。じゃなきゃ入院施設を探して。」

そこまで言いかけた瞬間、背後で医師の予定外の言葉にやっと状況が分かった様子で男がえっと声をあげる。実家という言動が医師から出ると一つも思っていなかった男はさておき、アキコの父親が穏やかに口を挟んだ。

「もう、結構ですから、紹介状を書いて頂けますか?」

父親をよく知っていればそれが一番怒っている時の声音で事はよく分かったが、医師も背後の男もそれを知るはずもない。男がアツシの言葉を遮り医師に食い下がる。

「自宅で一人にしておいたら駄目なんですか?」
「また、同じ事をしますよ。………紹介状は救急病院の退院情報提供書でいいでしょう?」

男と医師の会話がどれだけ無神経で理解の少ない言葉なのかは、一言では言い切れない。
医療職にあるものとして自分が診てきた患者が、精神的に脆い状態である事がはっきりしている。その状況で眼の前で診療を拒否し、投薬も検討なくいきなり全面中止にする。その上本人の望みも聴かないのは状況に左右されるのは事実だが、かかりつけ医でありながら紹介状も書かないと目の前で拒否した。それは頼りにしている患者に対して無責任な行動といえるし、実際には自分の診断に誤りがあったのから逃げているともとれた。自分が診てきた患者に責任を持って診療情報提供書を書くのは、次の病院にいくとしても服薬の経過など様々な状況を知る唯一の医師としては当たり前の事だと思う。それすらも拒絶したその医師に向ける両親の瞳は酷く冷ややかだった。

「それまでの内服の量や種類、用法の調整などについては、救急病院の退院情報提供書にはありません。最低限、先生のした最終的な処方位はかかりつけ医として書いていただきたい。」

そう言ったアツシの姿に初めて医師は気がついたように視線を向け、冷ややかな視線で自分を見つめている両親の視線に気がついたように慌てて言葉を濁した。それは言葉の中に両親が医療従事者であるということを見抜いたに違いなかった。医師はモゴモゴと言い分けじみた言葉を発しながら、紹介状は結局その日にはかけないと言い放つ。そして長い時間待たされた後、後日取りに来るようにと無碍に言い放った。
病院の出入り口で医師の態度と言葉を反芻しアキコは天を仰ぎながら涙を溢し泣き始め、それはまだ落ち着かないアキコの心を酷く揺らしパニックに追いやる。

「彼女はここにいたいんです。」

泣き出したのをこれ幸いにと言い放つ男がアキコを唐突に抱き寄せ、普段されたことのない優しい仕草に抱きかかえられるようにしながらアキコは声をあげることもなく泣き続ける。その時のアキコは完全にパニックを起こして正常な思考ではなく、アツシはそれを感じ取ったのだろう。グイと男の包容からアキコを振りほどき、アキコの顔を平手で打った。その鋭い痛みに頭から水をかぶせられたかのように一瞬泣き止んだアキコの体を、男の腕から完全に振りほどいて肩を大きな手が掴む。

「……………しっかりしろ、帰ろう、アキコ。」

その真剣な瞳の色にアキコは殴られた以上の衝撃を感じながら、アツシの顔を真っ直ぐに見つめる。父に頬を殴られた記憶は、小さい頃悪いことをして叱られたたった一回のことだった。怒りはするが手を出すことはない父親の手がしっかりと肩に熱としてつたわり、アキコは促されたように小さく同意の言葉を零していた。
アキコは鋭い痛みに我に返った後、男ではなく両親を選んだ。
それに男は微かに驚いた様子を見せたが、アキコが同意したことで反論の余地を失った。突き放すように病院の出入り口の前で、男に見送らないくていいと両親に告げられシュンイチは唇を噛んだまま立ち尽くしていた。



※※※



再びの帰宅は前回ほど甘いものではなかった。
一ヶ月飲んだだけでも、抗鬱薬はアキコの体内に蓄積されていたのだ。抗鬱薬は血液内の濃度を一定に保つことが必要な薬だ。今現在もそれは同様ではあるが、このタイプの薬は簡単に断薬しないことになっている。何故なら一度に断薬し濃度が下がることで、患者に揺り返しという副作用をもたらし下手をすると疾患を悪化させる可能性があるからだ。しかしクリニックの医師が処方をしないといった事とどれだけの薬を飲んでいるかがハッキリしないかかりつけ医の対応のせいもあって、結局アキコは薬を全く内服しない期間が生じた。つまりは一気に断薬したことになったのだ。それはアキコの精神状態を著しく悪化させ、苦悩に落とすことになった。
幻聴や幻覚。
苦痛をもたらす思考と不眠。
一人で考える事も動く事もできずにアキコはただのたうち回り、食べ物も受け付けずに吐き戻した。休みたくても、自分の体が思うようにならない。激しい幻聴と幻覚は昼夜を問わずアキコに襲いかかり、自分を病院に連れて行ってくれるか殺してくれと両親に懇願させたのだった。
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