鵺の哭く刻

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予後

159.

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縁を切る

実の弟が自分に向けて言う言葉とは思えないが、リュウジは吐き捨てるようにそう言って振り返ることもなく足早に歩み去った。昔からそれほど兄弟仲が良い兄弟だったわけではなかったが、だからと言って絶縁宣言されるほどに不仲ではなかった筈だ。アキコと弟が一緒にデートのように遊び歩く程の仲よし姉弟だったのはおかしいと思うが、それ程ではないとしても自分達は普通の兄弟だった筈なのに。何時からこんなに溝が出来ていたのか、ポカーンとしてその背中を見送るシュンイチにも分からない。
夕暮れの風に曝されながら既に見えなくなってしまったリュウジの事と、そして迎えに来なかった両親のことをシュンイチは誰が悪いのかと必死に考えていた。



※※※



それは、十九世紀前半頃から日本各地で知られるようになった。
その姿は古くは牛の体と人間の顔の怪物であるとされているが、第二次世界大戦頃からは人間の体と牛の頭部を持つとする説も現れた。有名な都市伝説では半人半牛の姿をした怪物として知られているのだが、その分布は広く西日本一帯に広がるという。
幕末頃に最も広まった伝承では牛から生まれ、人間の言葉を話すとされていた。
そして生まれてほんの数日で死ぬが、その間に作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし、それは間違いなく起こる、とされる。また件の絵姿は厄除招福の護符になるもされていたのだが、こちらの方は現在ではあまり伝播されていないようだ。別の伝承では、必ず当たる予言をするが予言してたちどころに死ぬ、とする話もある。また歴史に残る大凶事の前兆として生まれ、数々の予言をし、凶事が終われば死ぬ、とする説もあるそうだ。
そしてこれは江戸時代から昭和まで西日本を中心に日本各地で様々な目撃談があり、近年でも未だに真しやかに目撃談が何度も何度も語られる。
昔、それが生まれて直ぐに、それを神様として祀った一族があった。
当然それは様々な予言をして死んだのだが、その一族はその予言を利用するためにとあること計画する。一族のための予言をする神様を宿した人間を作る為に、恐ろしいことにその異形のモノの遺体を娘の一人に食べさせてしまったのだという。元々一族の由来に蛇神との婚姻による伝承を持つ家系で、その一派でもある一つの家系は四十ある他の同族の家よりも財を持つことを望んだのだ。
異形の者の屍を喰った娘はそれまではマトモで快活な娘だったと言うが、異形を全て腹に納めた後は愚鈍に項垂れるばかりで次第に美しかった顔の相貌を変え始めていた。整っていた顔立ちが平たい面長に代わり、目はドロンと濁り左右正反対に離れて物を見るようになって、常に奥歯を噛むようにして歯を剥き出したという。その変容のおぞましさに娘は座敷牢に密かに置かれ、そして愚鈍な筈の娘は時に人が変わったように様々な託宣をもたらすようになったのだった。

『御酒を醸せ』
『床をとれ』
『御子をなせ』

それは断片的な託宣であったが、一族はその言葉に類するものを密かに選び抜く。御酒と言われたから土地には殆んどなかった日本酒の酒造を始め、床や御子と言われるからホテルや宿泊業を。そうして一族はその土地で有数の家系として栄えていったのだ。座敷牢の娘は一族の血縁でなければならなかったが、四十もある血縁の中には困窮している者もいて娘を本家にいれ巫女を受け継ぐのは容易かった。それでも一番なのは本家筋に近ければ近いほど能力の高い巫女になる事実と、巫女になる女は大概相貌でわかってしまうことだ。だから顔を見て巫女に選ばれたと知ったら、諦めるしかないのが一族郎党の暗黙の了解だった。そして巫女は最後に、それを体内から産み落とし死ぬ。そして次の巫女になる女が、産まれて死んだその異形を全て喰らい巫女になる。おぞましいが密やかにそれは長年続けられていて、一族は百三十年以上もの間その土地で隆盛を極めて更に大きく反映していた。
それが崩れたのはほんの半世紀ほど前、本来なら久々の本家筋の娘が巫女になる筈で一族はそれに沸いている。五人目の子供で男二人・の女三人の末っ子、別段嫁に出さなくとも何ら問題のない娘の顔が、あの巫女に選ばれたものの容貌だったのだ。喜び先代の巫女があれを産み落とすのを今か今かと待っていたのに、その娘はその前に突然カヌチベの一族の男と恋愛をしたと言って純潔ではなくなってしまった。
託宣をもたらすのが異形の力であってもやはり巫女は巫女で、他の者と婚姻を結んでいたら神の障りがある。一族の者は焦り他の巫女になる者を探すと同時に、その馬鹿な娘を男に押し付けて遠くの土地に追い出した。夫になった男は会社の転勤と思っているだろうが、実際には一族の人間が根回ししたにすぎないし、遠方でもそこには同族が何人も移住しているから何か起これば直ぐに分かる。
そうして本意ではないが一族は新しい巫女を探しだし、巫女は継いだが狙いのような高い能力の巫女にはなり得ない。だかある時唐突にその巫女が口にしたのは、追い出した筈の本家筋の御子にならなかった牛面娘の子供の事だった。

「牛面の子は稀有な妻に稀有な御子を授かる。御子を守らねば一族は終焉。依って件の如し。」

そう言うとまだ数年しか巫女を継いでからたっていなかった娘は、いきなり血反吐を吐いて次に引き継ぐ者を生むこともなく即死したのだった。一族はその託宣に慌てふためいたのは言う迄もない。何しろ今迄の託宣は、こんなにも限局された言葉を予言したことがないし、何が潜んでいるのか等と言葉の裏を読む必要もない託宣は聞いたことがないのだ。

御子を授かる。その御子を守らねば

当日遠方の本家筋の娘は婚姻して何年も経つのに、まだ子供ができなかった。追い出されたのに手に平を返すように再三孫の事を迫られるようになった娘は子供のことで追い詰められ始め、家業にしていた個人塾を閉めたというが一族にはそんなこと関係がない。子種に良いと聞けば何でも送りつけられ、子供が授かると聞けばワザワザ遠くの温泉へ行くように命令もされた。
暫くして遠方の一族は追い出した筈の娘がやっと授かり産み落とした長男の顔を見て、この息子が稀有な妻と稀有な御子を産み出す存在なのだと歓喜した。

その子供は娘と瓜二つの顔をした男の子供。

何しろ今迄産まれた事のない男児の牛面の子供が、予言の後にこうして現れたのだ。そうして一族は嬉々として時を待ち望んでいたのだが例えその息子の父親が何の能力がない屑の血でも、その子供の子孫が稀有な御子であるなら我慢なぞ容易い。馬鹿なことをした娘でも稀有な御子の祖母になるのなら奉ってやらないとならないのも、たいした問題ではなかった程なのだ。

「シュンイチが結婚することになりました。」

そう、牛面の娘が何処か不満を滲ませて報告してきた時、一族の誰もがその時がきたのだと歓喜したのは言う迄もない。そして嫁に来た娘を見て御酒を持参してきた一族郎党は、納得したのだ。
北の生まれだと聞いたが確かに今まで見たことのない稀有な血筋の娘で、その能力は連れていった巫女になりうる能力を持った一族の女が一目で理解できる程。一族の娘巫女達より遥かに高い能力を宿した稀有な女に、巫女があれは神の贄になる程だと卒倒したほどの娘だった。

これであの娘が我が一族の御子を産めば、我らは生涯安泰になる

別な種類の強い太古の託宣の異形との血筋の一族、しかもその娘はそれともまた別な種類の太古の蛇神を体内に宿していても何事もなく日々を暮らしていられるのだと言う。自分達の一族ではその選ばれた娘は牛面に成り代わるが、相手の一族には娘と同じ容貌をした人間もいて美しい容貌になる異形なのだと思える。それにしてもそれ程の異形の力を内包して、楚々と美しい花嫁であり得る器の娘が一族にもたらされたのには歓喜するしかない。事前に撮影された花嫁御寮の写真には牛面の男と並ぶ、神々しい程の美しい白無垢姿を見せたほどだった。一族は樽で一番の神酒を持ち結婚式に馳せ参じたし、一族の牛女ではなくとも特別な何かを持つ美しい娘を娶る牛面の子を歓喜で歓待したのだった。

これでまた託宣をもたらす巫女がもたらされて、一族は百年どころでなく永遠に安泰だ。

それなのにその数年後。牛面の男が間抜けなことに折角の稀有な嫁に三下り半を突きつけられたと知らされたのだ。更に真実は一族郎党を絶望に落とし込んで、事もあろうにその男はあの結婚式の前に初子を堕胎させたのだと言う。

初子を殺した……?予言は?御子は?

何よりも大事な稀有な御子を、その息子は自分から堕胎させてしまっていたのだと言う連絡を受けた瞬間、一族の誰もが『終焉』の言葉を頭に思い浮かべてしまう。本家の牛面の娘には初子の話は伝わっていなかったし、その娘が稀有な女であると言う予言も伝わっていないのはその娘がこの土地にいなかったからだ。土地にいればあえて伝えなくとも耳に入るし、てっきり知っているだろうと誰もが思い込んでいて娘には託宣は伝わらなかった。

『シュンを大事にしなくて、駄目な嫁だったんです。』

そんなことはどうでもいい。そう怒鳴り付けて初子を殺したのかと問い詰めるのに、母親となった牛面の娘は戸惑うようにそうだと言う。その言葉は希有な女と予言された娘の口から放たれて、彼女の言葉に牛面の女は否定もできないと本能的に感じてしまったと話したのだ。それはそうだ、一族の牛面女より遥かに能力が高いものに、そう談じられてしまったら、それは真実に違いないと思う。しかも聞き出せば、牛面の男は再三その女をいたぶり続けていたのだというのに絶望する。

まるで、終焉を引き寄せてしまったようじゃないか…………

そうしてそこから一族は急激に没落の一途を辿り初めて、どんなに足掻こうが喚こうがあれの予言は覆せない。何しろ「件の如し(如件)」という定型句は、件の予言が外れないように嘘偽りがないという意味であるとされているからだ。



※※※



実家の持つ別宅にはいつもイチコさんと呼ばれる老女がいて、彼女は誰からも大事にされて過ごしている。そして自分以外の子供達は何かれとイチコさんに相談に行くのに、自分だけはイチコさんに会ってはいけないのだとされていた。

なんで?イチコさんに会ってみたい。

そうどんなに両親や祖父母にお願いしても、お前は特別だから近寄ってはいけないと固く言われていたのだ。同時にイチコさんの家に近寄ると親戚の誰かに必ず止められて家に連れ帰られてもしまうのに、次第に自分がイチコさんから意図的に遠ざけられているのには気がついていた。
産まれた時から自分には何故か普通に暮らしていても、他の子供とは違う扱いをされてきたのには気がついている。常に他の子供より一際大事にはされていたと思うが、家族も兄弟も親戚も常に自分には何処かよそよそしく感じてしまう。その理由を初めて知ったのは、夫と恋に落ちて交際したせいだった。

馬鹿なことを!

イチコさんの家からかけ戻ってきた両親にそう罵倒されたのを今でも覚えている。他の兄姉のように異性と恋に落ちて婚前交渉を持った自分の秘密を、誰に話したわけでもないのに祖父母だけでなく両親まで知っていたのには流石に驚く。イチコさんは自分達の一族の年老いた親戚で、彼女の耳には何でも情報が入るのだとその時知った。そして自分を近寄らせなかったのは、自分がそのイチコさんに似た顔立ちをしていてイチコさんが嫌ったからだと言う話だ。

顔が似ていたら嫌われて近寄れないなんて…………

そう思ったけれど周囲の家庭とは自分の家の家系が古くからの旧家で、そんな仕来たりに支配されているのだと苦く思ったくらいだ。それにこんなことに目くじらをたてられると思っていなかったのは、自分が五人目の子供だったからで跡継ぎにも何にも関係していないと思っていた。でもイチコさんが自分を遠ざけるようにしていたのは、実は跡継ぎは自分にするつもりだったからなのだとその時初めて知らされてしまった。

イチコさんが決めたことを守れば、お前は跡継ぎだった!

そう叫ばれたけど、恋に落ちて婚前交渉をしたのは事実。フシダラな娘と祖父母に罵られ家から追い出されるように夫の家に嫁いだけれど、反対に近郊の集落から追い出されてしまった夫の親戚一同からも自分を娶った夫まで縁を切られてしまったのには驚いてしまった。それでもやがて夫の仕事の都合で暮らしなれた土地から離れることになって、逆に良かったと思ったのは暫くして祖父母からは再三孫はまだかと言われるようになったことだ。
関係性は遠ざかることで修復されたのだと、思っていた。シュンイチが産まれてからは、それはなおのこと顕著で。ワザワザ遠くはなれた地元から祖父母は何度もシュンイチを見にやってくるくらいで、両親も兄弟も特段シュンイチを大事にしてくれたのだ。
ところが十年前。
我が子が妻と離婚したと実家に報告してからと言うものの、一族とは疎遠どころか突然に絶縁したような関係に変わっていた。その時産まれて始めて、全ての真実を聞かされて絶望したのは、言うまでもない。

自分の産まれと、そして我が子の背負わされていたもの

そして我が子が知らずに行ってしまったことの、業の深さ。
そして、そこから自分を含めて、我が子は手に終えない化け物に変わりつつある。

我が子なのに……

今ではあの子を産み育てたことを後悔していると、毎夜自分の枕元に現れ裸足の足で自分の頭の上に立つ老女の牛のように奥歯を噛み歯を剥き出し睨み据える瞳に向かって自分はひたすらに繰り返すしかできない、
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