鵺の哭く刻

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予後

168.

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激しい雨と雷鳴の中でシュンイチが振り返った先には、ただ今迄駆けてきた竹林と夜の闇が広がっているだけの筈だった。目の前に立つ若い男とそれに庇われているアキコ。二人以外には周囲には誰もおらず、背後には何もない。しかし、振り返るなと叫ばれたのを無視して見た視界に竹林の中に佇む巨大な影があって、それがシュンイチの視界の殆んどを射干玉の闇に塗り替えていた。

え?あれ?

もし振り返らなかったら自分は助かったのか、それともこの恐怖を何も感じないうちに一飲みにされていたのかは分からない。それでも闇の中に半円の口が突如現れ、クハァと生臭い腐臭をシュンイチの顔に向かって嘲るような嗤いと共に放つ。竹林だった筈の世界が揺れ耳障りなギジギジと歯を軋らせる音をたてて、自分の頭なんか一飲みにしてしまうほどの巨大な獣の口がシュンイチの目の前で確かに深淵の淵のようにポッカリと開いていた。

これは、なんだ?

そう思っても答えなんか出る筈もない。何しろその巨大な口は人間のものではないし、動物なのかと問われてもシュンイチにはまるで検討のつかないものだった。熊なのか、とも思えても、それほど巨大な口をした熊はあり得ない。それともなにか別な動物なのかも全く分からないほど巨大な漆黒の影なのは、自分の身長と比較して口だけでも自分の身体が一飲みの大きさなのだ。つまりはその頭部はその口より遥かに大きく、体長は更に巨大。どう考えてもマトモな動物の大きさではないのは、口だけで二メートルということは身体はシロナガスクジラとかの大型哺乳類かティラノサウルスのような恐竜でもないと釣り合わないからだ。そして今更のように思い出して激しく叩きつけてくる雨粒と、それが放つむせ返るような腐臭が襲いかかってくるのにたじろぐ。そんな情けなく後退るだけのシュンイチの背後には、失神しかけているアキコを抱きかかえるようにして必死に庇う凛々しく猛々しい若い金髪の男がいる。

男なら、あっちの方が当然の姿じゃないのか?

そう頭の中で自分に囁かれて、ふと過去の自分は誰かに絡まれたら脱兎の如く逃げ出していたのを思い出してしまう。男として情けないとは思うが、戦う力もないし自分が非力なのは薄々分かっているのだ。だから自分には逃げ出すしかなくて、そこに誰かがいてもそれは変えようがないことだった。よく昔はカツアゲされそうになって逃げ出すことがあって、それは例え彼女が傍にいてもかえられない事実だ。

そんなこといつまでも言っているから、彼女に棄てられたんだぞ?お前は。

そう囁く自分の声に、今そこで他の男に守られているのはアキコだったのを思いだしていた。そしてそこで自分が改めてアキコを守るという考えではなく、もしかしたら自分に襲いかかる前にあの女の方に行ってはくれないだろうかと頭の中で卑屈に考えた自分。瞬間、唐突に雨の音が自分から一枚壁を隔てたように遠退くのを感じ取っていた。

「お前は、また過ちを犯したぞ?もう、終わりだ。」

そう激しい雨音の中で、耳元に低く囁くような声が突然聞こえていた。だけどそれを放ったのは、目の前の化け物でもなければ背後の若い男でもアキコでもない。何しろそれらの放つ声でないのは、自分が一番よく知る声だったと分かっていたからだ。

俺の………………声だ…………

過ち。何がそうだったのか。それが言うまでもなく自分の思考のことなのは、今のシュンイチにはよく分かっていた。アキコを守ることではなくて、アキコを生け贄にして自分が逃げようと考えていたことが、耳元で自分がいう過ち。最後の選択肢を堂々と正解を放棄して過ちを選択してしまった自分の思考を、自分自身が冷ややかな声で指摘したのに気がついた途端。目の前のモノの口から勢いよく大量に吹き出した黒い靄のような濃い汚泥に、シュンイチは悲鳴もあげられずに一瞬で飲み込まれていく。腐臭が泥のように肌に張り付き顔を一瞬でスッポリと包み込み、そのまま溺れさせようとする。泥に深く沈んでいくように鼻腔や口腔に、粘度の高く焼けつくような感覚を放つ汚泥がドロドロと流れ込み始めているのだ。

助けてっ!

声をあげようにも容赦なく高圧的に汚泥が捩じ込まれて、声には一つも成らない上に呻きすらあげられない。喉の奥に向けて押し込まれていくのは、まるで屈強な三人の男達に無様に身動きできないよう縛られ蹂躙され、無理矢理に穴と言う穴を犯された時のようだった。喉にいがらっぽく絡む腐臭を伴う汚泥が、あの時休むことなく喉奥に射精され流し込まれた精液のようにドプドプと勢いよく体内に熱く流れ込んでくる。飲み込まないと溺れると嘲笑われた時と同じで、必死にこれを飲み込むしかなくてシュンイチはゴグゴグとそれを飲み続けていた。あの時と違うのは際限なくそれが続くことで、見る間に胃が膨らみ、行き場をなくして腸に流れ落ちていく。あっという間に腹の奥底・腸の中が汚泥で満たされていく感触は、何故か焼けつく痛みがあってシュンイチの体内を酸のように炙る。奥に無理矢理に注ぎ込まれる他人の体液の熱さに似たそれが、あの時のどうにも出来ない屈辱感と奇妙な愉悦を思い出させていくのにシュンイチは頭の中で繰り返す。

やめてくれ、頼むから、お願いだから

そう何度も呪文のように頭の中で繰り返しても、流れ込むモノは圧倒的で容赦がなく止まることもない。ドブドブ・ゴボゴボと音をたてて体内を汚染していく獣の吐く腐ったヘドロに呑まれて、あっという間に胃だけでなく小腸までが完全に膨れ上がってしまう。ボコボコと汚泥が細い腸を押し広げて進むだけで、腹がボコリと妊婦のように前に突きだして膨れ上がっていくのが見なくても感じ取れていた。しかも流れ込む汚泥はやがて大腸まで貫通し、この先は最後の肛門から溢れるだけなのだと気が付いてシュンイチはもう泣き出すしかない。

まるであの時みたいに、助けてもらえない、いつまでも一晩中

過去に自分が女性や子供にしたように、有無を言わさず自分の欲望のままに蹂躙され犯される。アキコを何度も奴隷のように犯して、殴り付けた時のように。縛りつけ薬を使い暴力で抑え込み何度も傷付けて来たのと同じく、獣のように腰を振りまくり精液を体内に吐き出されたように。そして無様に失禁し汚物の痕跡を残しながら歩く惨めさ。何もかも同じようなことを自分がしてきたから、全てはお前がした事の罰だといわれて。それに今また屈服させられシュンイチは自分が情けない子供のように泣きじゃくり失禁しながら、必死に何かに許しを請いているのを感じている。

やめて、助けて、お願い、お願いします、もうやめてください

何度も懇願を繰り返し泣きじゃくる。それでも絶対に自分が許されないのは、自分がやっていた時にも決してシュンイチが相手を許さなかったからだった。アキコが泣きじゃくり嘔吐しながら懇願しても絶対に許さなかったし、気絶するまでアキコを殴り付け蹴りつけたのは自分だ。それに乱暴に犯されるのが気持ちいいだろうと嘲笑い、殴りつけたせいで顔が痛々しく腫れても一度も手当すらしてやらなかった。

ごめんなさい、許して、ごめんなさいぃい!

そしてやがて自分も男に同じことをされて、泣きわめきながら気持ちいいですと叫ぶことになった。思ってもいない筈なのに何度も気持ちいいですと叫び、もっとしてくださいと自分から尻を男に向けて無様に振ってもう一度してくださいと何度も強請ったのだ。それはそれが快感だと言わないと彼らに許してもらえないし、更に痛い目に合わされると思ったから必死で媚びただけなのだが、つまりはアキコも他の女も同じ気持ちだったのだろう。
次第に汚泥が鼻だけでなく耳孔にも雪崩れこんで脳髄を汚染していく。あの時男達に支配されて汚染されて愉悦を感じた一瞬に引き戻され、今までの罪を犯した罰を自分はこうして受けていると感じるのだ。

「愉しかったろ?犯されるの。」

そうまた自分の声が囁くのが耳元に聞こえる。やがて消化器を全て満たしきってしまった汚泥が、次に流れ込んだのは気道。まるで椅子に縛られてアンザイチナミに口に無理矢理匙で一口ずつ捩じ込まれた不快なヘドロのようなものを、再び喉の奥まで管を捩じ込まれて体の中に更にジリジリと捩じ込まれているように感じる。

溺れてしまう、お願い、やめて、お願い、助けて

気管だけでなく肺の奥まで汚泥が満ちて、呼吸が自分の自由にならない。こんなにも苦しめられるほど、自分は過ちを犯したろうかとボヤけていく頭で思うシュンイチの目には、何故か不意に射干玉の闇の中に立つ自分自身が見えていた。孟宗竹の立派な竹林でもなく、あの土蔵でもなく、実家の和室でもない。ただ何もない闇の中で独り立ち尽くす自分は、疲れ果てた乾いた視線を浮かべてシュンイチを見つめ返す。

「終わりだ。もう、終わったんだ。」

その声は酷く鮮明に響き、意味がわからずにシュンイチは戸惑いながら自分の顔を見つめ直した。今まさに自由に呼吸も出来ない、声もでない、手足も動かない、まるで何処かに括りつけられ喉に管でも捩じ込まれているみたいで辛いのに。何が終わったと言うのか・必死に苦しいから助けてと心の中で訴え、もう二度と悪いことはしないと考えても、目の前の自分は手を伸ばしてくれるどころか身動ぎもせずにいる。そうして諭すように静かに自分が口を開く。

「…………遅すぎる、お前は悪い子供だった。」

何度も繰り返された断言するその言葉に愕然として、目の前の自分自身を見つめていた。もう一人のヤネオシュンイチはシュンイチを見据えて深い溜め息をつくと、何度もチャンスはあったのにと微かな声で囁く。お前は何度も何度も自分を省みることはできたし、やり直せなくても償うことも出来たのに、お前はそうしなかったとシュンイチに冷淡な声で囁くのだ。

いいや、だって、そうだと言わなかった。誰も、母も

思わずそう言い訳しようとするシュンイチに、自分が呆れたように深い溜め息をまたあからさまにつくのが聞こえる。今までと何一つ変わらないシュンイチの得意な言い訳に、こんな風にあからさまに自分が自分を憐れむ。何度も警告したし、助けを求めることもできた、省みて自分を変えようと努力することも出来た。だけど、それをしなかった理由が、そうだと教えてもらえなかったから。そう答えるしか出来ないシュンイチを、自分自身が愚かで憐れだと考えているのが口を開かなくても感じ取れる。

「教えられなきゃ、トイレの使い方も理解できないのか?お前。そういっているのと同じだぞ?」

馬鹿じゃないのかと呆れられ、あからさまに目の前で憐れまれる。言わなかったから知らない・出来ないは、塾の講師の時に自分が低能と嘲笑った子供達と何一つ変わらないだろうといわれ、自分の事を棚に上げてと言われれば反論も出来ない言葉にシュンイチは苦悩の顔で自分を見つめた。誰でもない、その言葉を投げつけるのが、自分自身なのが胸に刺さるように痛む。だが同時に自分がこんなにも苦しんでいるのを、まるで助けようともしない目の前の自分を人でなしだとも思う。すると当然だろうと言いたげに、目の前のシュンイチはヒッと歪な嗤い声を上げて肩を揺らした。

「お前だって人の皮を被った人間擬きじゃないか、何を今さら言っているんだ。」

そう言ってシュンイチは溜め息混じりに胸の前で腕を組むと、シュンイチのことを舐めるような視線で眺める。自分なのにその視線は全く自分とは思えない、冷ややかで温度の感じられないものだった。既に目の前の男は自分なのに自分とはまるで別な存在だと気がついて、シュンイチは何故か震え上がっていた。この苦しみから救ってもらえない上に、この男は自分を人間とも思っていないのだ。

「もっと早くこうなればよかったのに…………、まあ仕方ないよな、そういう約束だ。」

約束?と問いかけようにもシュンイチは完全に黒い汚泥で溺れかけていて、その答えを目の前の自分に問いかけることも出来ない。そしてユルユルと呼吸が出来ない内に、シュンイチの意識は更に深い闇に呑まれてその暗く淀んだ底に沈んでいく。

まるで深い海の底に沈んでいくみたいだ…………

それが実は元妻も似通う感覚を経験しているとは、シュンイチは全く知りもしない。ただ元妻には暖かなユルユルと沈んでいく心地よさでも、シュンイチの身体はそれに飲まれ凍り付いていくように感じている。それでもそれをシュンイチが知ったからと言って今更これをどうすることも出来ないし、頭の芯が次第に凍りついていくのをシュンイチ自身も感じている。これで終わりだと自分の顔をした男が甲高く嗤う声を聞きながら、シュンイチは朧に霞む意識の中で最後に心の底から一言だけ呟いていた。

ごめんなさい………………



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