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そして新たな感染
171.
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そこからのことは詳しくは説明できない。それは状況を説明をしたくないのではなく、説明が難しいというのが本音。というのもこれこそ現実としてはあり得ないことばかりがアキコ達の身の回りには起きていて、言葉にするにはその為に適切な語彙を引き出すのもとても難しいのだ。良くあるホラー小説とSF小説を足して、現代もののダークな雰囲気のライトノベルを掛け合わせて、しかも都市伝説のようなおどろおどろしい説話でそれを割れば適切な言葉を紡ぐことができるかもしれないとは思う。だけど言い換えれば普通ならそんなことが自分の身の上にこんな風に降りかかってくるなんて、普通に社会の一人として暮らす人間なら考えもしないことだ。
既に建物はスッポリと山瀬に似た濃い霧に辺りごと完全に呑まれていて逃げ出そうにも、周囲には濃い霧の中に生まれる新たな影が有象無象のように自分達を取り込もうと取り囲む。確かに趣味の読書としてはジャパニーズホラーはアキコだって嫌いではないが、本音を言うのなら体験するのはモニター越しに見るだけで十分なのだ。何しろタガアキコという人間の体験してきた人生の方が十分にホラー染みていて、更に実体験したいなんて一つも考えない。それなのに、アキコとしての人生が四十路を越す今になってお化け屋敷のリアルバージョンを、これからここで命懸けで体験しましょうなんて御免被りたい。
やっとのことで建物から逃れて、敷地を囲むフェンスを潜り抜けたが、靄はなおのこと追い縋ってきて道らしい道すら覆い隠す。しかもここにきてアキコ達と一緒に逃げる人数も更に増えていて、中でも目立つのは足が悪く杖をつかないとならない高校生と目の悪い様子の青年までここに加わってしまっていた。
それ以外にこんな子供迄…………何なのこの建物って……
一体この建物の主達は何の目的でアキコをはじめとして、何人もの人間をこうして監禁したのかまるで目的が分からない。それでもこの靄の存在を考えてしまえば、自分のような存在を捕まえたかったのかとも思うし、それとも滓が見える人間がそれに関して何かをしようとしたのかとも思うのだ。兎も角、持っといた筈の看護師達は忽然と姿を消して、それに関しては唯一施設の人間である看護師は怯えきって状況を説明することも出来ない。そして彼女はアキコ達が何故監禁されたかについても、怯えているのか何なのか今は口を開こうとしないままなのだ。
兎も角…………逃げるのが先よね
その上ここまでアキコを助けにきてくれたカズキは他の人を探して建物から外に出てくるまでに、元々昔から怪我をしていた関節の脆くなっていた右腕を完全に駄目にしてしまっていた。カズキがもしここから逃げ出せても病院にかかるには、カズキはどうしたって警察に逮捕されるしかない。その上で脱臼していると軽く状態の説明を口にしてはみたのだが、どうみても関節が外れていると言うより無理な力で関節の骨を粉砕しているのだ。恐らくは頭の障害で自分でも身体の力の加減が分からないから、カズキは常に火事場の馬鹿力で全力を振るう負荷を関節にもかけていただろう。何度も同じ負荷をかけるうちに、その腕自体が堪えきれなくなったに違いないのだ。逃げ続ける今も本当は肩が酷く痛むだろうが、逃げ出すためにはどうしてもカズキは意識を保たねばならなくて、医薬品があると分かっていてもアキコは録に鎮痛もしてやれない。だからここでアキコに出来るのは、傷の熱が出てきつつある熱いカズキの左の手を握ってマトモな世界に一緒に連れ帰ってやることくらいだった。
ヒョウ…………
そのためにアキコは靄の中に揺らぎ、この普通の人間の集団の中では一番滓に触れているだろうカズキを欲しがる新しい影の気配を打ち払う。アキコや経立のように既に影の存在に成り代わったものは影達も全く欲しがらないが、ただの人間や滓を纏う人間は餌にもなるし撒き餌のように滓を引き付けもする。それはアキコ自身が以前はそうだったのだから、アキコ自身には痛い程によく分かっているのだ。何しろアキコがリュウヘイの滓を食べて生きていたように、滓は人間で言えばタンパク質の塊や栄養剤みたいなものなのだと思う。それを惹き付けやすい体質をもった別な高校生とカズキには、影が群がろうとしているのがアキコには分かってしまうのだ。経立は向かってきた影をどうにかして喰うことはできるのだが、それは諸刃の剣でこれ以上負荷をかけるのは限界に近い。それを知っていてこの中で逃げ道を切り開くのには、アキコが哭いて目の前の敵対するものに不幸を叩きつけて先を切り開くしか出来ない。ただこれを続けることが何を意味するのかは、カズキや他の人間を守るために哭く度アキコの体には焼けつくような痛みが走っていくので分かっていた。毛が逆立ち皮膚の表側が爛れて剥がれていく気配がしていて、既に腕が取り戻せない変容をしつつあるのが分かる。
ヒョウ、ヒョーゥ
それでもアキコはカズキを何とかここから連れ出して、せめてこんな靄の中ではなく人間の世界に戻してやりたかった。こんな奇妙キテレツな自分を長年閉じ込めて封じてきた土蔵の中のような狂った世界ではなく、何ども叶えることの出来ない謎かけのような条件を叶えようと模索してのたうち回る歳月を無意味に繰り返すような空虚な空間でもない。
少なくとも美味しいものが食べれて暖かい布団で眠れたり、誰かのことを静かに眺めていられるような。
マンションの一室で一緒に家族のように過ごして、ただ暖かな時を共に過ごす平凡で当たり前の普通の日常を誰もが暮らしている社会。例えもうカズキがそこから外れた存在になっていても、本来はカズキはそこにいる人間だったのだ。自分を助けるためにここで影に飲まれてしまっていいなんて、カズキを我が子のように思うアキコには堪えられない。ここでもしカズキを影にとられでもしたらリュウヘイとの約束すら守ってやれない自分の存在なんか、塵にでもなってしまえばいいとすら思う。だから、何も迷うこともなくアキコは哭き続けて、自分の力で自分の身体を削り落としていく。
そのためなら、もういい、こんな体、
カズキはリュウヘイの子で、同時に何よりも大事な我が子。そのカズキを何とかして元の世界に返してやりたくて、自分の限界がもう目の前に迫りつつあるのを知りながらアキコは靄の中で哭き、カズキや人間を襲おうとするモノに容赦ない災厄を引き寄せ続ける。靄の中でアキコの呼ぶ災厄に飲まれた影であるモノが互いの爪で傷つけあい同士討ちに牙を向き合った後どうなったかなんて気にもかけないし、見る間にカズキと繋いでいない方の手の爪が黒い鉤爪に変容していくのも気にしなかった。
ほんと、おたくはロクデナシの世話をやいて苦労するのが性根にしみついているな
既に消え去り自分の中に溶けきってしまったと思っていた筈の魂が、不意に心の中で目覚めたように話しかけてきたのはその時だった。シンドウリュウヘイが、目覚めたように奇妙に優しく柔らかな声でアキコに向かって言う。その言葉に思わず馬鹿言わないでと心の中で叱責してしまうのは、この子もあんたも大事だから助けたいのとアキコが心の底から切に願っているからだ。人間としては悪人で決して生かしておいてはいけないかも知れなくても、アキコにとっては大事で愛しい子供。自分はあの時リュウヘイが居なくなったことですら、今もまだこんなにも哀しくて辛くて仕方がないのよと思わず心の中で叫ぶ。その言葉にリュウヘイが、微かに戸惑うような気配を漂わせている。
なあ、…………母さんは…………俺のことを、どう思ってるんだ?
今更そんなことを聞くなとアキコは、精一杯に哭きながら心の中で叫ぶ。
どうしてこんなにもアキコは自分の思いを伝えるのが下手な人間なのだろう。
昔のことだってヤネオシュンイチのことがアキコは本当に好きで、シュンイチとただ一緒に居たかったから傍にアキコはあの時やって来たのだ。それなのに愛情のボタンをかけ違えてしまったように、二人の気持ちも行動も何もかもが時を重ねて大きくずれていってしまった。何度も途中でこれはおかしい・これは普通じゃないと気がついていたのに、それでも正すことも出来ずにアキコは彷徨い迷路のような感情に囚われてしまったけれど。心のどこかで何時までもアキコは、ただ酷く深くシュンイチのことが好きだっただけなのだ。本当のアキコの心があの時本当に水面に沈み自分あのまま死んでしまわなければ、自分と成り代わらずアキコであり続けたのなら、恐らくはアキコはシュンイチの元にまた戻ったに違いない。また繰り返すと思いながら、またそれでもきっと傍に戻ったのだと今は思う。
好きだから……好きだったから…………
その後に理由は様々後からつけることは出来た。それは成り代わった自分はあの時アキコの心が死んでしまって、鵺のアキコにはシュンイチに対して何の感情も持っていなかった。だから、あれほどそれ迄傍に居続けた筈の男をアッサリと捨てる事が出来たのだ。そしてその後に色々と『鵺』はあの男にアキコが尽くした事に理由をつけて形だけは理解したつもりできたけれど、真実はアキコはシュンイチをひたすらに好きだっただけ。
その後も『鵺』のアキコは一度も他人に何の感情も持たなかったから、恋愛なんてひとつもせずただ淡々と生きていた。肉体というものの時計が止まる迄の時間を淡々と無味乾燥な日々を過ごして、土蔵の中の備蓄したシュンイチの放つ恐怖感という滓を餌に食いながら生きるだけ。そして何時かこのアキコの肉体が寿命を迎え、完全に鵺として存在するようになるまで待つ。その運命の中でその人間の皮を被った鵺のアキコが、何故か一人の男と今更に出逢い閨を共にして、訳の分からない契約結婚をしてやった。しかも義理の息子になった相手が死んだ後その魂を何千年かぶりに異形のモノになる危険性まで犯してまで喰って、しかも最後の約束を叶えるために成り代わりきる前のこの肉体を自分の存在意義ごと捨ててやろうとまでしているのだ。
…………好きってことでいいのか?…………なぁ、アキコ
こんなにもリュウヘイを失ったのが哀しくて寂しくて、それでもリュウヘイの残した息子を我が子として守るために自ら命を削って哭いている。そんなことを生まれてから一度もしようとしたことのない存在だった『鵺』の自分が、こんな気持ちを知るのだとしたら金輪際もう人間となんて二度と関わりたくないと切に思う。自分の存在意義すら捨ててしまったら全てが終わることも理解しているから、これが最後なのよとアキコは、己の命のように掠れ始めた声を張り上げて哭く。
…………アキコ。
リュウヘイの声に心が揺れたのは事実。それなのに最後の最後にほんの一瞬のうちにアキコ達四人だけが経立や家族達と分断され、しかもちゃんと離さないように手を繋いでいたのに自分より遥かに内包する力の強い何かに他の高校生一人と一緒にカズキを目の前で連れ拐われてしまったのだ。
駄目!駄目よ!返して!
アキコが慌ててその力に逆らおうともがくのを嘲笑うように、まるでフィルムの逆回しにしたドライアイスの煙を見せられているように靄が逃げ出していく。今まで自分達を行く手を阻み靄の中に飲み込もうとしていた筈の気配が、あっという間に霧散して影の気配すらドンドンと遠くに遠ざかっていく。シュルシュルと辺りを包みこみ道を隠していた霧が、カズキ達を連れ去った大きなモノの力に反応して後退していくのをアキコともう一人の青年だけがその場に立ち尽くして唖然として見つめている。 霧の中の影達が一番に欲しがっていたのは言う迄もなく一緒に逃げ出していた足の悪い高校生とカズキで、それを果たした途端にここに残されたのは必要のない『鵺』のアキコと目の悪い青年の二人だけ。自分達二人には何の興味もないと言いたげに、サァッと霧が境界線を顕にあからさまに引けていくのだ。その不可思議な光景に何よりも真っ先に怒りを顕にしたのは、誰でもない人間から大きく変容しつつあるアキコだった。
「待ちなさいよ!!うちの子を返してちょうだい!!」
霧を追うようにして鋭く眼鏡の奥の瞳を青く光らせたアキコは霧を追って、今まで必死で活路を切り開こうと哭きながら歩いて来た道を逆に戻り勢いよく駆け出していた。既にアキコの片腕は完全に皮膚を引き剥がし、その腕はもう獣のような白い鋼のような毛を下から伺わせようとしている。乳白色の霧は勢いよく壁を狭め逃げ出そうとでもしているように後退し始めている中で、愈々とアキコの肉体は限界を迎えようとしている。
既に建物はスッポリと山瀬に似た濃い霧に辺りごと完全に呑まれていて逃げ出そうにも、周囲には濃い霧の中に生まれる新たな影が有象無象のように自分達を取り込もうと取り囲む。確かに趣味の読書としてはジャパニーズホラーはアキコだって嫌いではないが、本音を言うのなら体験するのはモニター越しに見るだけで十分なのだ。何しろタガアキコという人間の体験してきた人生の方が十分にホラー染みていて、更に実体験したいなんて一つも考えない。それなのに、アキコとしての人生が四十路を越す今になってお化け屋敷のリアルバージョンを、これからここで命懸けで体験しましょうなんて御免被りたい。
やっとのことで建物から逃れて、敷地を囲むフェンスを潜り抜けたが、靄はなおのこと追い縋ってきて道らしい道すら覆い隠す。しかもここにきてアキコ達と一緒に逃げる人数も更に増えていて、中でも目立つのは足が悪く杖をつかないとならない高校生と目の悪い様子の青年までここに加わってしまっていた。
それ以外にこんな子供迄…………何なのこの建物って……
一体この建物の主達は何の目的でアキコをはじめとして、何人もの人間をこうして監禁したのかまるで目的が分からない。それでもこの靄の存在を考えてしまえば、自分のような存在を捕まえたかったのかとも思うし、それとも滓が見える人間がそれに関して何かをしようとしたのかとも思うのだ。兎も角、持っといた筈の看護師達は忽然と姿を消して、それに関しては唯一施設の人間である看護師は怯えきって状況を説明することも出来ない。そして彼女はアキコ達が何故監禁されたかについても、怯えているのか何なのか今は口を開こうとしないままなのだ。
兎も角…………逃げるのが先よね
その上ここまでアキコを助けにきてくれたカズキは他の人を探して建物から外に出てくるまでに、元々昔から怪我をしていた関節の脆くなっていた右腕を完全に駄目にしてしまっていた。カズキがもしここから逃げ出せても病院にかかるには、カズキはどうしたって警察に逮捕されるしかない。その上で脱臼していると軽く状態の説明を口にしてはみたのだが、どうみても関節が外れていると言うより無理な力で関節の骨を粉砕しているのだ。恐らくは頭の障害で自分でも身体の力の加減が分からないから、カズキは常に火事場の馬鹿力で全力を振るう負荷を関節にもかけていただろう。何度も同じ負荷をかけるうちに、その腕自体が堪えきれなくなったに違いないのだ。逃げ続ける今も本当は肩が酷く痛むだろうが、逃げ出すためにはどうしてもカズキは意識を保たねばならなくて、医薬品があると分かっていてもアキコは録に鎮痛もしてやれない。だからここでアキコに出来るのは、傷の熱が出てきつつある熱いカズキの左の手を握ってマトモな世界に一緒に連れ帰ってやることくらいだった。
ヒョウ…………
そのためにアキコは靄の中に揺らぎ、この普通の人間の集団の中では一番滓に触れているだろうカズキを欲しがる新しい影の気配を打ち払う。アキコや経立のように既に影の存在に成り代わったものは影達も全く欲しがらないが、ただの人間や滓を纏う人間は餌にもなるし撒き餌のように滓を引き付けもする。それはアキコ自身が以前はそうだったのだから、アキコ自身には痛い程によく分かっているのだ。何しろアキコがリュウヘイの滓を食べて生きていたように、滓は人間で言えばタンパク質の塊や栄養剤みたいなものなのだと思う。それを惹き付けやすい体質をもった別な高校生とカズキには、影が群がろうとしているのがアキコには分かってしまうのだ。経立は向かってきた影をどうにかして喰うことはできるのだが、それは諸刃の剣でこれ以上負荷をかけるのは限界に近い。それを知っていてこの中で逃げ道を切り開くのには、アキコが哭いて目の前の敵対するものに不幸を叩きつけて先を切り開くしか出来ない。ただこれを続けることが何を意味するのかは、カズキや他の人間を守るために哭く度アキコの体には焼けつくような痛みが走っていくので分かっていた。毛が逆立ち皮膚の表側が爛れて剥がれていく気配がしていて、既に腕が取り戻せない変容をしつつあるのが分かる。
ヒョウ、ヒョーゥ
それでもアキコはカズキを何とかここから連れ出して、せめてこんな靄の中ではなく人間の世界に戻してやりたかった。こんな奇妙キテレツな自分を長年閉じ込めて封じてきた土蔵の中のような狂った世界ではなく、何ども叶えることの出来ない謎かけのような条件を叶えようと模索してのたうち回る歳月を無意味に繰り返すような空虚な空間でもない。
少なくとも美味しいものが食べれて暖かい布団で眠れたり、誰かのことを静かに眺めていられるような。
マンションの一室で一緒に家族のように過ごして、ただ暖かな時を共に過ごす平凡で当たり前の普通の日常を誰もが暮らしている社会。例えもうカズキがそこから外れた存在になっていても、本来はカズキはそこにいる人間だったのだ。自分を助けるためにここで影に飲まれてしまっていいなんて、カズキを我が子のように思うアキコには堪えられない。ここでもしカズキを影にとられでもしたらリュウヘイとの約束すら守ってやれない自分の存在なんか、塵にでもなってしまえばいいとすら思う。だから、何も迷うこともなくアキコは哭き続けて、自分の力で自分の身体を削り落としていく。
そのためなら、もういい、こんな体、
カズキはリュウヘイの子で、同時に何よりも大事な我が子。そのカズキを何とかして元の世界に返してやりたくて、自分の限界がもう目の前に迫りつつあるのを知りながらアキコは靄の中で哭き、カズキや人間を襲おうとするモノに容赦ない災厄を引き寄せ続ける。靄の中でアキコの呼ぶ災厄に飲まれた影であるモノが互いの爪で傷つけあい同士討ちに牙を向き合った後どうなったかなんて気にもかけないし、見る間にカズキと繋いでいない方の手の爪が黒い鉤爪に変容していくのも気にしなかった。
ほんと、おたくはロクデナシの世話をやいて苦労するのが性根にしみついているな
既に消え去り自分の中に溶けきってしまったと思っていた筈の魂が、不意に心の中で目覚めたように話しかけてきたのはその時だった。シンドウリュウヘイが、目覚めたように奇妙に優しく柔らかな声でアキコに向かって言う。その言葉に思わず馬鹿言わないでと心の中で叱責してしまうのは、この子もあんたも大事だから助けたいのとアキコが心の底から切に願っているからだ。人間としては悪人で決して生かしておいてはいけないかも知れなくても、アキコにとっては大事で愛しい子供。自分はあの時リュウヘイが居なくなったことですら、今もまだこんなにも哀しくて辛くて仕方がないのよと思わず心の中で叫ぶ。その言葉にリュウヘイが、微かに戸惑うような気配を漂わせている。
なあ、…………母さんは…………俺のことを、どう思ってるんだ?
今更そんなことを聞くなとアキコは、精一杯に哭きながら心の中で叫ぶ。
どうしてこんなにもアキコは自分の思いを伝えるのが下手な人間なのだろう。
昔のことだってヤネオシュンイチのことがアキコは本当に好きで、シュンイチとただ一緒に居たかったから傍にアキコはあの時やって来たのだ。それなのに愛情のボタンをかけ違えてしまったように、二人の気持ちも行動も何もかもが時を重ねて大きくずれていってしまった。何度も途中でこれはおかしい・これは普通じゃないと気がついていたのに、それでも正すことも出来ずにアキコは彷徨い迷路のような感情に囚われてしまったけれど。心のどこかで何時までもアキコは、ただ酷く深くシュンイチのことが好きだっただけなのだ。本当のアキコの心があの時本当に水面に沈み自分あのまま死んでしまわなければ、自分と成り代わらずアキコであり続けたのなら、恐らくはアキコはシュンイチの元にまた戻ったに違いない。また繰り返すと思いながら、またそれでもきっと傍に戻ったのだと今は思う。
好きだから……好きだったから…………
その後に理由は様々後からつけることは出来た。それは成り代わった自分はあの時アキコの心が死んでしまって、鵺のアキコにはシュンイチに対して何の感情も持っていなかった。だから、あれほどそれ迄傍に居続けた筈の男をアッサリと捨てる事が出来たのだ。そしてその後に色々と『鵺』はあの男にアキコが尽くした事に理由をつけて形だけは理解したつもりできたけれど、真実はアキコはシュンイチをひたすらに好きだっただけ。
その後も『鵺』のアキコは一度も他人に何の感情も持たなかったから、恋愛なんてひとつもせずただ淡々と生きていた。肉体というものの時計が止まる迄の時間を淡々と無味乾燥な日々を過ごして、土蔵の中の備蓄したシュンイチの放つ恐怖感という滓を餌に食いながら生きるだけ。そして何時かこのアキコの肉体が寿命を迎え、完全に鵺として存在するようになるまで待つ。その運命の中でその人間の皮を被った鵺のアキコが、何故か一人の男と今更に出逢い閨を共にして、訳の分からない契約結婚をしてやった。しかも義理の息子になった相手が死んだ後その魂を何千年かぶりに異形のモノになる危険性まで犯してまで喰って、しかも最後の約束を叶えるために成り代わりきる前のこの肉体を自分の存在意義ごと捨ててやろうとまでしているのだ。
…………好きってことでいいのか?…………なぁ、アキコ
こんなにもリュウヘイを失ったのが哀しくて寂しくて、それでもリュウヘイの残した息子を我が子として守るために自ら命を削って哭いている。そんなことを生まれてから一度もしようとしたことのない存在だった『鵺』の自分が、こんな気持ちを知るのだとしたら金輪際もう人間となんて二度と関わりたくないと切に思う。自分の存在意義すら捨ててしまったら全てが終わることも理解しているから、これが最後なのよとアキコは、己の命のように掠れ始めた声を張り上げて哭く。
…………アキコ。
リュウヘイの声に心が揺れたのは事実。それなのに最後の最後にほんの一瞬のうちにアキコ達四人だけが経立や家族達と分断され、しかもちゃんと離さないように手を繋いでいたのに自分より遥かに内包する力の強い何かに他の高校生一人と一緒にカズキを目の前で連れ拐われてしまったのだ。
駄目!駄目よ!返して!
アキコが慌ててその力に逆らおうともがくのを嘲笑うように、まるでフィルムの逆回しにしたドライアイスの煙を見せられているように靄が逃げ出していく。今まで自分達を行く手を阻み靄の中に飲み込もうとしていた筈の気配が、あっという間に霧散して影の気配すらドンドンと遠くに遠ざかっていく。シュルシュルと辺りを包みこみ道を隠していた霧が、カズキ達を連れ去った大きなモノの力に反応して後退していくのをアキコともう一人の青年だけがその場に立ち尽くして唖然として見つめている。 霧の中の影達が一番に欲しがっていたのは言う迄もなく一緒に逃げ出していた足の悪い高校生とカズキで、それを果たした途端にここに残されたのは必要のない『鵺』のアキコと目の悪い青年の二人だけ。自分達二人には何の興味もないと言いたげに、サァッと霧が境界線を顕にあからさまに引けていくのだ。その不可思議な光景に何よりも真っ先に怒りを顕にしたのは、誰でもない人間から大きく変容しつつあるアキコだった。
「待ちなさいよ!!うちの子を返してちょうだい!!」
霧を追うようにして鋭く眼鏡の奥の瞳を青く光らせたアキコは霧を追って、今まで必死で活路を切り開こうと哭きながら歩いて来た道を逆に戻り勢いよく駆け出していた。既にアキコの片腕は完全に皮膚を引き剥がし、その腕はもう獣のような白い鋼のような毛を下から伺わせようとしている。乳白色の霧は勢いよく壁を狭め逃げ出そうとでもしているように後退し始めている中で、愈々とアキコの肉体は限界を迎えようとしている。
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