フォークロア・ゲート

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追憶の妖精の街

32.ロウ・フォード

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教会の扉を潜ったらてっきり異世界に迷い混むと考えていたのに、目の前に広がったのは古めかしい教会の礼拝堂だった。歩く足の下は赤い古ぼけた毛足の短い絨毯か敷かれ、足音は吸収され響かない。ユックリと礼拝堂を見渡すと、簡素な祭壇には蝋燭が置かれたままで窓からは蒼い月光がさしかかっている。ロウの見渡した視界の中で祭壇の一番近くに黒いベールを被った頭が見えるのに気がついた。

シスターか?

ロウの気配に気がついたように、相手は月光の下で立ち上がると影になって見えない顔をロウに向ける。真っ直ぐにロウに顔を向けているが、逆光のせいで顔立ちは見えない。立ち止まったロウを黙ったまま見つめていた相手は、シスターのつけるウィンプルを身に付けているのではなかった。黒いカッパのようなフード付きのケープを纏っている相手に、ロウは僅かに緊張を滲ませながら見つめる。

「あんたは、誰だね?」
「……ミスターは誰に言われてここへ?」

フードの奥から放たれた静かな声は女のもので、教会の中に静かに響き渡った。ロウは眼鏡を押し上げながら、自分は探偵で手紙で仕事の依頼を受けたとだけ説明する。じっさ子供を探して欲しいと書かれた手紙の裏に、忍ばせた自分を助けに来てという文字を書かれた手紙。教会を示唆した手紙の差出人と、目の前の教会にいた人物。それは同一の人物なのかと眼鏡の奥で、相手の様子を息を殺して伺う。同時に人の気配のない教会で毎晩のように蝋燭を灯していたのは目の前のフードを被った人間なのか。

「依頼は誰からなの?」
「知らんね、知っていたとしても守秘義務だ。」

確かにそうねと相手が大人しく引き下がったのに、ロウは僅かにだが緊張を緩める。目の前の相手は話が通じないようではなく、突然ゴブリンのように襲いかかって来そうな気配はない。静かな教会の中で物騒な考えかも知れないが、ここ数日何かと追いかけ回されていることを考えるとそれでも油断は出来ない。

「あんたは、どうしてここに?」
「私は…。」

問いかけに相手は躊躇うように一言口にして押し黙り、真っ直ぐにロウの事を眺めた。ヴァイゼは今も教会の扉の前で立ち尽くしているのだろうかと思案がよぎった瞬間、背後の扉が音をたてて開き始める。ギギギと古びた蝶番の音が不気味に二人の間に響き渡っていく。
自分が入った時もこんな音だったのだろうかと首を傾げたくなる程、大きな軋みが礼拝堂に反響する。思わず振り返ったロウの視線には、一瞬目の前のケープが瞬間的に背後に移動したのかと錯覚するようなもう一つの黒い人影が姿を表した。コツンとそれは黒檀の杖を黒い手袋をした手でつき、酷く緩慢な動きで前へと歩き出す。

「ミスター!こっちにきて!」

背後のケープの女が声をあげた瞬間的に、礼拝堂の中が一気に異様な空気に飲まれていくのが分かった。空気が端から凍っていくような、何かが腐敗していくような、全身に悪寒を感じさせる気配。それに呑まれる寸前に踵を返したロウに、祭壇の上に駆け上がったケープの女がポケットから銀の鍵を取り出すのが見えた。
背後のケープは声を上げることもしないのに、緩慢な動きでこちらに迫ってきているのが分かる。背後の影のせいなのか端から絨毯が朽ち果て、椅子が軋みながら朽ちていくのが視界の端に見えた。

「あれはなんだ!?」
「ハッグよ、ミスター!早くこっちにきて!」

祭壇に回り込んだケープの女が経台の下に潜り込んで行くのが、壇を上がり回り込んだロウにも見える。経台の下は二人で身を隠すには狭すぎるとチラリと頭で考えたと同時に、ケープの女がそこにまるで鍵穴があるみたいに銀の鍵を差し込んだのが見えた。カチリと鍵が回り祭壇の古ぼけた経台の下に、月光とは全く質の違う蒼い光が溢れ出す。

「きて!早く!」

既に女は扉を潜り抜け向こう側から声をかけていたが、祭壇には既におぞましい気配はにじり寄ってきていた。頭上のステンドグラスが急速に色褪せて、音をたてて細かなヒビが走るのにロウは気がつく。辺りは既に教会だったものの廃墟に成り代わりつつあって、黒い影は教会の中程までロウ達に歩み寄っていた。

「ミスター!早く!」

ギシギシと経台が軋み始めたのに、ロウは慌てて蒼い光の中に飛び込んだ。



※※※



ロウが潜り抜けた途端、扉が崩壊するように空間にヒビが入り氷塊のように砕けて四散した。息をつきながら地面に膝をついたロウは、目の前に立つ黒いフードを被ったままの女の事を見上げる。

「助かった、お陰で命拾いしたよ。」

フードの女は少しだけ樹を緩めた様子で、ロウの事を表情の見えないフードの中から見下ろす。やがて彼女は改めて、ロウに向かって問いかける。

『ミスター、名前を聞いてもいいかしら?』

その言葉は先程まで耳にしていたのとは、少し異なった種類の音になったとロウは感じる。そう口にしながらフードを下ろした目の前の女の姿に、ロウは眼鏡の奥の目を見開いた。濃いブルーの瞳に見事なプラチナブロンドの見たことのある顔の女に、思わずロウはその女の名前を口にする。

「リーベス?」

その名前に目の前の彼女は、微かに驚きを滲ませながらロウの事を見下ろした。

『リーベスは妹よ、私はフェーリ・ロアッソ。』

確かにロウが知っているリーベスは、美しいアッシュブロンドに濃いブルーの瞳だった。目の前の女は瞳はリーベスと同じだが、見事なプラチナブロンドの髪をしていて白銀に近い程の色合いだ。しかし、そうなるとリーベスはミセス・フリンだったということになる。そうなると話が俄然噛み合わなくなってくるのだ。フェーリの妹はシュミートの妻でロニの母親だが、既に墓が存在して故人の筈だ。しかもロウはつい先程までリーベスとパブで話しをして、パブの中で彼女の後ろ姿を見送った。しかし、目の前にいるフェーリだと言う女の顔は、どう見てもリーベスと瓜二つで他人だとは思えない。

「あんたがフェーリ?ハッグのフェーリ?」
『私がハッグ?!』

彼女はロウの言葉に驚いたように目を丸くして、立ち上がったロウの事を訝しげに眺めると数歩後退る。彼女は辺りを見渡すと油断なくロウの事を視界に入れながらも、周囲の気配を伺う。

『グルアガッハとはピクト達に呼ばれたけれど、ハッグ呼ばわりは初めてよ。ミスター。』

グルアガッハという名も聞いたことはないが、目の前の彼女にとって二つは天と地ほどもある大きな差なのだろう。素直に謝罪の言葉を口にしてから、ロウは眼鏡を押し上げつつ辺りを見渡す。
辺りは濃い群青色と紫がかった藍色の街並みが何処までも広がっている。道には半透明に見える沢山の妖精達と人間が、フワリフワリとまるで泳ぐように歩いていく。空には七色に輝く燐光が、雲のように音もなくたなびいている。

『それで、ミスターの名前は教えて貰えないの?』
「ああ、ロウ・フォード。ロウでいい。」
『ロウ……、フォード?』

彼女は不思議そうにその名前を呟くと、何かを思い浮かべるように口元に手を当てる。暫し考え込んでいた様子の彼女は、何か思い付いたように輝く濃いブルーの瞳でロウの事を見つめた。彼女はやがて思案するのをやめたように、手を下ろすと辺りを再び探るような視線で見渡す。

「何か気になるのか?フェーリ。」
『あなたには聞こえないでしょうけど、今ここは凄く騒がしいのよ。普段はこんな事はないのに。』

彼女の訝しげな声につられてロウも何気なく辺りを見渡すが、穏やかな燐光の漂う空間には騒がしさの欠片も感じ取れない。しかし、目の前のフェーリ・ロアッソにはロウには聞こえないものが聞き取れている様子だ。

「あんたは、自由にここらを出入りできるのか?フェーリ。」
『ええ、鍵を持っているから。私にしてみればあなたが、どうやってここに来ているかの方が不思議よ。』

その言葉にロウは目を細めると、先程彼女が見せた銀の鍵の事を思い浮かべる。赤いリボンのようなものを着けた銀の鍵は、最初の扉を啓のに使った青いリボンの銀の鍵によく似ていたようだった。しかし、手元にあの鍵はすでにないロウには確かめようがない。ふと、そこまで考えた瞬間、ロウの脳裏に稀人の存在が掠めた。

「あんたの娘も鍵を持っているのか?フェーリ。」
『娘ですって?!何故リリアの事を知っているの?』

驚きを隠さない彼女の瞳が大きく見開かれたのに、ロウは彼女が島に娘が戻ってきている事を全く知らないのが分かる。ここでもやはり話が噛み合わなくなってくるのだ。フェーリ・ロアッソがハッグだとしたら、一度狙ったものを諦めないハッグは娘が島にいるのを知らないと噛み合わない。しかも、フェーリはハッグが何か知っていて、ハッグと呼ばれるのは心外と言いたげだった。

「島の人間は、ハッグがあんたの娘を狙って呼び寄せたと言っていた。」

フェーリは息を飲んで立ち尽くし、辺りの気配に耳をすますように目を細める。半透明の妖精や人間の影のようなものを眺め、彼女が不意に宙に指を差し上げると燐光が集まってくるのが分かった。七色の燐光はフェーリの指の先で、集まるとピクシーの姿を浮かび上がらせる。

『マダム・フェーリ、お久しぶり。』

久しぶりねとフェーリが指先のピクシーに囁く。彼女は不安そうに見える表情を浮かべ、ピクシーに向けてその先の言葉を続けた。

『リリアは、私の娘はここにいるの?』
『マダムの娘?稀人のリリア?』
『そうね、今のあの子は稀人として島から来るしか方法がないわね。』

フェーリの口ぶりでは、まるで今でなければ彼女の娘は他の方法でここを行き来出来ると言いたげに聞こえる。だが、目の前の彼女は実際には自由に行き来しているのだから、本当にそんな不思議な事が娘にも可能になるのかもしれない。

『稀人はいたよ、農夫と一緒。』
『パパと?』

農夫と聞いてロウの頭に浮かんだのは、黒いレトリバーのフントの飼い主のバオアーのいかつい顔だった。そう考え始めると様々な事が噛み合わず、同時に全く違う見方をすると噛み合うのに気がつかされる。ロウは溜め息混じりの吐息を吐くと、混乱し始めた頭を片手で掻き回した。

『ロウ?』
「ひとつ聞かせてくれ、あんたの父親の名前はなんだ?」

ロウの言葉にフェーリは不思議そうに眉を潜めながら、ピクシーを指先に止まらせたままロウを真っ直ぐに深い青い瞳で見つめる。その瞳は確かにリーベスと瓜二つだが、もう一人そんな風に見つめる深い青の瞳を見たことがあった。

『父は生前にママと離婚したから、レーベン・バオアーに戻ったわ。』
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