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12月

閑話50.宮井浩司

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人間の縁と言うものは、本当に不思議なものだと浩司は思う。宮井浩司が伏倉有希子と初めて出会ったのは、大学のサークルでの事。最初の印象はクリクリした目をした可愛らしい子という感じだった。サークルの男どもは伏倉が可愛い、横磯佑香が可愛いと騒いでいたが、正直なところその時の浩司にはあまり興味がなかった。恋愛自体に興味がないわけではなく、サークルでちょっと出逢った程どの関係性に運命迄は感じられなかったのだ。と言うわけで宮井浩司と伏倉有希子の関係は、一つ年上の宮井浩司の卒業と同時に一旦途絶える。ところがここからが運命だったのかもしれない。翌年の新入社員の中に見つけたら伏倉は、再び浩司の後輩になって今度は仕事のやり方を指導する間柄になったのだ。

「伏倉さん、これ三十部ずつコピーで、三枚一組を右上綴じで。」
「はい、宮井先輩。」
「先輩はいいよ、終わったら教えてくれる?」

宮井は元々の性格か指導も丁寧で、分かりやすい説明をする人間だった。しかも、わからなそうな部分は、先取りで説明もしてくれる。おかけで指導を受ける有希子の方が感心しながら、彼の人柄に接することになった。
久々に少し残業になっていた有希子は、デスクチェアに寄りかかるようにして背筋を伸ばす。夏場と言えど八時を過ぎれば流石に夜の闇に浮かぶオフィスビル群の明かりは疎らにしか点っていない。

「うーん、そろそろ帰らなきゃぁ。」
「そうだな、大分遅いし。」

背後からかけられた声に思わず有希子は飛び上がる。脅かすつもりじゃなかったと、彼は笑いながら有希子が以前美味しいと言った事のあるパン屋の袋を差し出した。有希子が目を丸くすると差し入れと、浩司は微笑んでパソコンのモニターを覗き込む。

「なんだ、終わってるじゃないか、何してたの?伏倉さん。」
「あ、最終的な確認を…。」
「そっか、ご苦労様。終わったんなら帰ろうか?」

はいと答えて帰る支度をする有希子を、何故か浩司が待っている。有希子は不思議そうに浩司の姿を眺めた。

「あの、宮井先輩、帰らないんですか?」 
「帰るよ?ほら、早く準備して、電気消すと幽霊が出るらしいよ?」

思わずはぁ?と言いたくなるような台詞に、有希子は初めて浩司の顔を真っ正面から見上げる。有希子より30センチほども高い身長の手足も長く、それでいて脚や腕には程好く筋肉がついているのが伺える。そんな彼は穏和そうな目元で有希子の事を眺めながら待っていて、そうか消灯のために待っているのかと有希子は気がつく。慌てて片付けを終わらせると連れだってオフィスを出た浩司は、当然のように有希子の顔を覗き込む。

「伏倉さん、家遠いの?」
「あ、いえ、電車で二駅です。」
「え?ほんと?じゃ俺んちと近いかもね。」

そうなんですか?と返す有希子は暢気で面白い人だなぁと、彼の事を見上げる。結局彼は紳士的に有希子を家まで送り届けると、対価として部屋に上がることもなく爽やかに帰ってった。他の男性とは一風変わった彼の思考や行動に、有希子は少しずつ惹かれているのに気がつく。ところが相手の方は一向にそんな気配を見せもしない。もしかしたら全然気にもかけてないのかと思い始めた矢先、再び残業で残った有希子に彼は同じように自宅前まで送り届けてくれたのだ。

「あの、お茶くらい飲んで帰られませんか?宮井さん。」
「あ、いや、電車に……。」

そこまで口にして彼はしまったという顔をした。家は近くと話していたが住所は直に教えてもらったことがない。それに気がついた有希子は、目を細めて彼の住所を問いかける。答えは近くどころか、会社を挟んで正反対の方向の二駅先。つまりはかなりの遠回りをしていた。何故そんな嘘をついてまで送ってくれたのかと詰め寄ると、彼は恥ずかしそうに頬を染めて顔を背ける。

「伏倉は可愛いから夜道を一人じゃ危ないと思ったんだ。それだけ。」

彼が恥ずかしそうに白状する表情は不覚ながら、有希子にとって胸がキュンとしてしまう程可愛かった。それが、伏倉有希子と宮井浩司が恋人として付き合うきっかけの出来事。



※※※




伏倉有希子が宮井有希子になったのはそれから一年後。最初は共稼ぎをしていたが、更に一年後妊娠を期に有希子は専業主婦になった。予定日より少し早く産まれた娘は珠のようとは良く言ったもので、本当に可愛い赤ん坊だ。クリクリした目をした有希子に似た娘。兄貴の浩一と義姉アリシアと、その息子の智雪が見に来て目を丸くするほどの美人。特に兄弟のいない智雪には新鮮だったらしい。11歳の誕生日前の少年は、娘の顔を不思議そうにつつく。まだ目の見えない筈の娘は、ぐずることもなくアプアプと何かを話しているみたいに声をあげる。
それは本当に幸せな時だった。病気で早くに亡くなった伏倉の両親と事故と病気で亡くなった自分の両親がいれば、尚完璧な幸せだっただろうが。失ったものをとやかく言うのは浩司の性格ではない。亡くしたからこそ大切に思えるものだってあるのだ。そして、亡くしてないからこそ尚更愛しいものも沢山ある。育っていく程に母親にの容貌の娘の中に、僅かに自分と似た部分を少し見つけて浩司は目を丸くしてしまう。
ある時家に帰るとベソをかいている麻希子の姿があって有希子に話を聞いたら、麻希子にとって大事なヌイグルミなのに幼稚園の友達が泣いて欲しがったからあげたというのだ。浩司も基本的に利害得失よりは、人間関係を良好に保つ方をとる質だった。有希子はそういう時は割りと折衷案を模索し必要な方を選択するタイプ、利害が大き過ぎる時には少し人間関係が悪くなるのはやむを得ないと考えられる現実派なのだ。

「有希子、麻希子は僕に似てる?」
「浩司さんたら今さらよ?性格なんかそっくりなんだから。」

有希子は笑いながらそう言う。何処がと聞き返すと全部よ、気がついてないのと笑われてしまった。似ているからというわけではないが、我が子は特別可愛い。そしてあっという間に年齢を重ねると普通はパパのお嫁さんになるという時季に、麻希子が口にしたのは予定と違う雪ちゃんのお嫁さんになるだった。

何でそっちかなぁ、確かに智雪はイケメンだし、今色々と大変な時期だけどさぁ。

兄が義姉と一緒に急逝したのは衝撃だったが、麻希子が傍に引っ付いているお陰かやがて甥っ子は元の元気を取り戻した。おまけに何故か昔以上に麻希子にベッタリになってしまった気もしなくもない。環境の変化もあるからやむを得ないのかもしれない。何せ娘はまだ6歳で分別がついているわけではないのだ。そんな風に呑気に考えていたら、娘はあっという間に高校生になって、ここ最近急に大人びた顔をすることが増えているのに気がついた。以前と違って物憂げに考え事をしたりする姿を見かけるようになって、初めて自分が歳を取った自覚をする。

「有希子、家のお姫様は恋愛とかしてるのかな?」
「あら、浩司さんたら今頃?」

今頃ってことはとっくに恋する乙女だったのかと、しょんぼりしてしまう。娘のパパのお嫁さんになる宣言の有効期間は、もうとっくの昔に機会を失っていたらしい。そう言ったら有希子は可笑しそうに笑いながら、浩司を眺める。

「浩司さん、その有効期間は普通小学生前までなのよ?」
「だって、その辺りは雪のお嫁さんになるって言ってたし。」
「浩司さんは雪ちゃんに麻希子のお嫁さん宣言の権利をあげちゃったのよ。」

そんなことを今更言われても、あげたかった訳ではない。内心しょんぼりしていた矢先、あの停電が起きたのだ。その日は幸い既に帰途についていて、電車から降りた瞬間に縦揺れに襲わわれていた。もし残業でもしていて職場にいたら、停電の真っ只中だっただろう。人混みをかき分けホームから出るまでかなり時間がかかり、彗星のような流れ星が幾つか電気の消えた街に流れるのを見上げながら自宅へ帰る。安堵に泣き出した有希子と、甥の子供の衛を抱きしめた娘の顔にホッとした。なのに、娘の顔が晴れず、娘は衛が寝付くと衛を見ていてと自分達に頼んで玄関先で外を眺めている。その姿はつい最近迄子供だと思っていた娘とは別人のようだ。顔立ちは昔の有希子と変わらないのに、急に大人びて女性らしい表情を浮かばせている。

「麻希子は雪を待ってるのかな?有希子。」
「そうねぇ。心配だものね。」

有希子は既に何が思い当たることもあるようだが、自分には教えてくれない。そういうことは自分で見て気がついた方が、良いわよとにこやかに彼女は言うのだ。そんなものなのかなと思っていたら、やっと帰ってこれた様子の雪の手を引いて安堵の表情を浮かべた麻希子が戻ってきて、浩司は思わず自分の時にはそんな顔しなかったなぁと少しばかり残念に感じたのだった。



※※※



爆弾魔のニュースを見て慌てて帰宅すると既に麻希子は帰宅していて、雪と並んでソファーに座っている。現場は危険だからと雪が麻希子を迎えにいって連れ帰ってきてくれたらしい。それでも落ち着かない様子なのは麻希子には何も怪我はなかったが、同級生が二人連絡がとれないのと雪の同級生で今は高校で麻希子の担任をしている青年とも連絡がとれないかららしい。
少し休みなさいと声をかけても不安すぎて落ち着かない様子の二人を、有希子はそっとしておきましょうと囁く。二人を気にはしていたが翌日の仕事のことも考えて、先に休んでいた浩司は明け方近くにリビングで話をしている声に目を覚ましていた。興奮ぎみな雪と麻希子の声に、連絡がとれないでいた子達とやっと連絡がついたのだろうと気がつく。カタカタとしていたリビングに静けさが落ちて、流石に二人も寝る気になったんだなと思いながら、少し様子を見がてらと思って廊下に出た。その先に見たのは背の高い所謂最近で言えば細マッチョとかいう甥の腕に、軽々と抱きかかえられる我が家のお姫様の姿だった。

あれ?お姫様抱っこは正しいのか?

何がどう正しいかはさておき。家の可愛い娘は甥っ子にお姫様抱っこをされて安心してるみたいに、彼の肩にコテンと頭を預けている。心配疲れで家の娘が眠ってしまったのかとも思ったが、お姫様抱っこをものともせずにゆっくり階段を上がっていく姿を何気なく目で追う。

僕は有希子どころか麻希子もお姫様抱っこで階段は登れないだろうなぁ。若いって凄いなぁ。

そんなとんちんかんな感想を感じながら、目で追っていると階段を登りきった辺りで甥っ子が娘と会話をしている。なんだ、寝付いてたわけではなかったか、というか寝てないなら歩きなさい、麻希子、お姫様抱っこはパパはどうかと思う。流石に従兄妹同士の関係とはいえ、家の中をお姫様抱っこで運ばせるのは如何なものか、今度にそれについて話し合うべきか。

「雪ちゃ……ありがと…。」

そんなことを考えていると階段の上から声が滑り落ちてくる。

「智雪…でしょ?麻希子…。」
「ん、智雪…、ありがと…。」

ちゃんと運んでくれて礼を言ってるなら良いかと思いかけたが、ちょっと待て。何時から麻希子は雪ちゃんを卒業して智雪だなんて呼ぶ関係になったんだ?と思った瞬間、甥っ子が完全に男の顔で家の娘に口づけたのをまんまと目撃してしまったのだ。しかも、最近では浩司の方が入室禁止を言い渡される事の多い娘の私室に、甥は当然のように娘を抱きかかえたまま入っていってしまった。

何だって?今のは何だ?お姫様抱っこにキス?まだ家の可愛いお姫様は高校生だぞ?

嵐のように渦を巻く疑問に浩司は首を捻りながら、眠気の吹っ飛んだ状態でつい今しがた迄娘と甥が二人きりで過ごしていたリビングのソファーに座り込む。
雪の母親が外国人だったからか?いやいや、雪は礼儀とか大概は日本式で育ってるし挨拶にハグもキスもない。それに、昔から甥がスキンシップ過多なのは麻希子に対してだけ……。そんなことを考えてもいるのだが、何時になっても娘の部屋から甥が出てくる音がしない。

これは…あれか?雪ちゃんのお嫁さんになるが現在実行中?早くないか?家の子はまだ子供の高校二年生だ。

この場合部屋に怒鳴りこむべきなのか、行って二人が愛の営みの真っ最中だとしたら浩司の方が邪魔者になるのか。法律的には16歳を越した娘は嫁になれるが、高校生は都の条例で淫行ではなかったか?いや、淫行は金銭享受や恋愛感情がない場合で、二人が愛し合っているのであれば淫行ではないのか?何にしても高校2年生の娘が嫁ぐとしたら、正直早過ぎると浩司は肩を落とす。

「浩司さん?早いのね。」
「有希子。」
「どうしたの?」

神妙な声音の自分に気がついて有希子が戸惑いながら横に座ると、浩司は混乱した顔で横のクリクリした瞳の妻を見つめた。

「麻希子は直ぐ嫁に行く気かな?」
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