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38.遠坂喜一

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ここのところ仕事が終わると俺の家に上がり込んで、竜胆貴理子のファイル調べが続いている毎日。十日足らずだと言うのに捜査は打ち切り確定になっていて、刑事課の不満は爆発寸前だが上層部のお達しと来ればどうにもなりそうもない。ただでさえ三浦の件も進まないのに、近郊で起きた事件の捜査もままならない日々だ。そんなわけで不満を別なもので解消するべく、竜胆ファイルの本意を探っているわけだ。しかし目的もなく調べてみようったって、竜胆貴理子の目的がわかるわけもない。次第に手詰まり感が否めなくなっている矢先、風間が不意に何かに気がついた声をあげた。

「なんだ?何か気がついたか?」
「遠坂さん、この事件の犯人って……。」

突然目の前にパソコンのモニターで突き出されたのは、ファイルの中にはない事件。一瞬風間も手詰まりになって現実逃避していたのかと思ったが、風間は風間で気になっていることを別な面から黙々と突き詰めていたらしい。
所謂・竜胆ファイルの中でも特別に異質な家系図調査。
その中にいた風間の同級生の実の父親とおぼしき男が、巡視中に死亡した事件。香坂智春巡査……殉職による二階級特進で香坂警部補といったらいいか、その三十年も前の事件の犯人の名前を何処かから見つけ出してきたらしいのだ。既に警察には調書すら残っていない事件の犯人の名前が、未だにネットの片隅には残っているらしいってのは恐ろしい話だ。態々そう言う事件をまとめて記事にしている人間がいるんだというから、まあご苦労な事だよな。しかもその男の経歴やら様相まで、まとめたものがサイトのなかにあったという。本当かどうかは兎も角まさか件の竜胆貴理子の作ったサイトじゃないだろうなと、思わず勘ぐってしまいたくなる。

「違うと思いますよ、今も更新されてますから。」
「三十年もずっと調べてんのかよ?」
「サイトが開設されたのは数年前です。」

なんとまあ数年前から初めて三十年も遡って事件を調べてるその根性は、他のものにむけなかったんだなぁと内心あきれてしまう。こういうのは案外若い中高生がやってたりしますけどね、と風間はネットワークでサイトの管理人という人間が名乗っている奇妙な『SEAorW』という名前を指す。中高生が何で三十年も遡って事件を調べてんだよと思うが、そこは本人にしか分からない理由があるのだと言う。それにしても

海かW?

意味がわかんねぇなぁと呟くと、ヒントが何処かにあるんだと思いますよと風間も苦笑いする。こういうタイプのハンドルネームには意図がある可能性もあるし、という風間は、海自体がネットのことかもしれませんけどねとも言う。まあ、ネットワークを放浪するのをサーフィンに例える位だから、その例えはわからなくもない。とは言えWの意味は何だろう。

「ネットの考え方だと、笑いとか?」

余計に意味が分からない。そう言うと風間は苦笑いで、当人に聞かないとメッセージは分からないですよと言う。名前に何かメッセージかもというのも疑問だが、こんな風に過去の事件を纏めてのせる意図はなんだろう。機会があったら聞いてみたいもんだが、一先ずそれよりも風間が言いたいのは別な事らしい。

倉橋俊二

何処かで見た名字に眉を潜めると、風間はなんとそいつが総合病院の院長の息子らしいと言うのだ。
三浦が隔離されていた総合病院の院長・倉橋健吾の息子だと言う倉橋俊二。しかもつい先日の話だが高齢の倉橋健吾は突然に病死していて、その妻迄後を追うように急死したばかりだ。ここに来て何やらキナ臭い臭いをさせながら、違法投薬をしていたとおぼしき倉橋の身内がチラホラ覗いてくるのは何でだろうか。

倉橋……倉橋……

それ以外にも何処かでその名字を何回か呟いた気がして、自分の記憶を辿っていくと、不意に何か記憶が引っ掛かった。咄嗟に俺はファイルの下を探りだし、風間がどうしたんです?と問いかける。何処かでその名字が並んでいたのを見た筈だ、名前を読み上げたのはウンザリする一覧の中で関係しているかどうかは兎も角。ホテル火災当日の宿泊者名簿には、確かにその名前が存在していた。

「倉橋健一……倉橋翔……倉橋澄子。」

まさか、これも関係ある人間じゃないだろうなと考えてしまう。気持ちの悪い偶然なのか、これも何か必然なのか。三十年前に殺人事件を起こした息子と二十三年前のホテル火災で死亡した倉橋という名前の人間。
ふと総合病院という言葉で思い出した俺は、風間の前で知り合いに電話をかけてみる事にする。

『もしもーし、何のよう?キチ。アタシ夜勤明けなんだけど。』
「わりぃな、リオ。聞きたいことがあんだよ。」

電話口で何よぉと知人の気安さで不貞腐れ声で話す彼女に電話でなくてと頼むと、高いわよと彼女は欠伸混じりに言う。
ほんの十分ちょっとで着古したジャージという女性にしては随分な格好で現れた彼女・四倉梨央は、室内に俺だけではなくもう一人いるのに憮然とした顔を浮かべて誰かいるならそう言ってよと不満げに呟く。梨央は実はほんの数分、というか本音を言えば隣の隣の部屋に住んでいるのだ。言う前にお前が電話を切ったと言ったら、彼女は欠伸混じりに家に上がり込むと室内の状況に呆れ顔になる。

「なに?キチ?このゴミ捨て場。」
「悪かったな。」

気安い呼び方で分かる通り、四倉梨央は外崎宏太と同じ、俺の幼馴染みの一人だ。白衣姿になると別人のようなのでかなり年下に見えなくもないが、歴とした満四十五の年増。まあ本当の事を言うと彼女の逆鱗に触れ、危険なのであえて言わないでおく。簡単に言えば小中高と同じ学校に通い続け俺と宏太と梨央、後は鳥飼澪と藤咲信夫という五人がいつもつるんでいたというところだ。他の二人・澪は少し事情があって今どうしているかは知らないのだが、信夫の方は近郊で芸能関係の社長になっている。そして目の前の梨央は件の総合病院の看護師なのだ。夜勤明けだと言う彼女は大きな欠伸をしながら、空いた場所に胡座をかくと白衣の時とは別人のようなぶっきらぼうな口調で話す。

「で?何だって?電話でなくてって。」
「内部事情を聞きたくてな。」
「なに?うちの院長のスキャンダル?」

梨央が面倒臭そうに言った言葉に思わず俺と風間が目を丸くする。勿論プライバシーや守秘義務何て言葉があるのは、お互いの職業上よく分かっているが問題解決には情報が必要なのだ。

「スキャンダルってどう言うことだ?」
「腹上死したんだよ、なんだそこじゃないの?」

腹上死って幾つだよと呆れると、梨央は頬杖を突きながら当然みたいに八十オーバーと言い切る。しかも、梨央が続けた話は、聞いていても何とも言い難い話だった。
その女の身元はハッキリしないし、どこから来たのか誰の紹介かも分からない。ただ訪問看護ステーションの看護師が、家に看護師が専従で居たと噂にしたのは去年の春ぐらいのことだったという。
何故倉橋家に訪問看護が訪れているかと言えば、これこそ守秘義務なのだが、倉橋健吾の次男・倉橋俊二が寝たきり患者だからだ。

「寝たきり?病気か?」
「違う、括って失敗してベジ。」

言葉は悪いが梨央に言わせると、自殺企図で縊死しようとして死にきれず植物状態になっているということだ。梨央が総合病院の看護師になった時には既にその状況だったというから、既に二十三年以上もその状態ということだ。倉橋俊二は縊死しようとしてで脛椎骨折したが、まだ若かったから臓器は健康。お陰で一命をとりとめ人工呼吸器を付けて、在宅医療を受けまだ生きていたのだという。頭が生きているかどうかは兎も角、その看護のために自分の病院の看護ステーションや介護サービスを倉橋健吾は工面していたということになる。そんな中突然家に見知らぬ看護師が常時傍にいるようになったんだと噂になったのだ。しかも、そこから半年もしないうちに、彼女はどうやったのか倉橋俊二の妻になったのだという。

「はぁ?意識ないって言わなかったか?」
「言ったよ、だから訪看の看護師達が荒れたんじゃん。」

荒れる?と問い返すと、おんなじこと狙ってた看護師がいない訳じゃないと彼女は胡座に頬杖で言う。

同じ事。

意識のない寝たきりの初老男に嫁ぐ理由は、正直なところ真っ当な話とは思えなかった。倉橋俊二は既に六十を越し次第に衰弱が目立ち始めていて、父親の健吾と母親は八十代、長男は早逝しているし長女は当に他家に嫁いでいる。つまり義理の両親と夫が数年で死ねば、嫁には遺産が手にはいる可能性が高い。

「遺産目的ってことか?」
「病院は兎も角、財産だけでもかなりだってよ。それが後何年かで手にはいるならって思うんじゃないかね。」

倉橋俊二が六十じゃ後何年とは言えないだろというと、病人の予後なら大体の目算は看護師なら分かると梨央は何気なく言う。全身や呼吸管理の状態、様々なデータを見れば、衰弱しているかいないかは割合判断しやすいのだという。

「人体っつーのは科学と統計学さえ知ってりゃ、なんとなく理解できんだよ、キチ。」

どういう意味かと聞くと、人体と言うものは電気刺激で動くゴム人形みたいなものだと梨央は言う。ゴムは動かし続けていれば劣化するが、全く動かさなくてもやはり劣化する。それどころか放置されたゴムは劣化がはるかに早いのだ。指令の電気刺激を操作する脳が死んでしまった倉橋俊二は、完全な後者で手足は他者がリハビリとして動かせても内臓はそうはいかない。薬で補強しても内臓というゴムは動きが悪くなってあっという間に劣化していくというわけだ。

「じゃ倉橋の息子はかなり弱ってたってことか?」
「当たり前じゃん、年齢よりはるかに中は劣化すんだから。自分の親父より年寄りだよ。」

明け透けない口振りだからこそ、梨央の言葉が本当だったことは分かる。つまり寝たきりの倉橋俊二は、既に超高齢者と同じだったというわけだ。

「三十年もあの状態だって聞いたけど、心臓が丈夫だったんだろうね。」

脳死状態でこれ程長く人工呼吸器の管理下で生命を維持するには、かなり手厚く綿密に看護や医療を受けないと無理だと梨央は言う。つまり両親は金と権力で、息子の延命に全力を注いでいたと言うわけだ。若く丈夫だった心臓が動き続けた故に、体だけが延命していた倉橋俊二。だが二年ほど心臓にも衰えが出始めたのだという。

「心電図に異常が出始めたらしいから、そろそろかなって訪看も言ってたんだよ。」
「そんなに簡単に予測つくもんなのか?」
「そこが統計なんだよ、キチ。看護師の霊感なんて統計学を知らないでるヘボが言ってるだけで、うちらは頭の中に統計をとってんのさ。」

梨央が言うには、自覚があるかないかは別として看護師は統べからく頭の中で統計をとっているのだという。世の中には霊感があると口にする看護師が多数いると言うが、それは頭の中でこの状況の患者は死亡する率が高いという統計表を持っているに過ぎない。この臭い・この病状・この肌、そんなものの集計を無意識にしていて、これが組合わさると死亡率が幾つと弾き出しているのだ。だから、看護師は大概死期を予言する。しかも、看護師はおおよそ八時間交代で二十四時間病院にいる存在、何より死に接する機会が多い。
死んだ筈の人間を廊下で見た、誰もいない病室からナースコールが誤作動した、そんな話は掃いて棄てるほど出てくるのは、八割は疲労した頭の見せる幻視と幻聴だ。残り二割?それくらいは本当に説明できないものもあんだよと梨央は言う。

「つまり、死にかけだと知ってて結婚したってのか?」
「訪看はそう言ってるよ、何せ本人は意識がないんだから結婚する意思すらわかんねぇもん。」

確かに言った通り遺産目的と言えなくもないが、それにしても本人の意志がないのにどうやって結婚したと言うのだろう。

「そこがスキャンダルなんだよ、キチ。」

梨央は目を細めて声を落とす。
結婚を推し進めたのは、その看護師ではなく父親の倉橋健吾だったのだろうと言うのだ。風間が唖然としながら話を聞いているのを横に、梨央は当然のように台所から缶ビールを取り出してくると再び胡座をかく。無造作にプルトップを引き上げて、ビールを煽りながら梨央が不快そうに口を開く。

「息子の嫁は建前で、ヒヒ親父の愛人だったんだと。」
「八十代……ですよね?倉橋健吾って。」
「八十四か五だったかな?アタシも知らない。」

それで腹上死かと言うと、更に不快そうに梨央は全く呆れるねと呟く。
倉橋健吾は倉橋俊二に嫁を娶らせるという建前で、自宅に愛人を囲った訳だ。で、しかもご丁寧に嫁という名の愛人と性行為の真っ最中に死んだということになる。八十にもなってお盛んなことでと正直呆れるが、それで死んでしまったものはどうしようもない。そう言えば妻も後を追うように死んだと聞いていたが

「旦那が嫁に突っ込んでて血管切れただなんて聞いたら、泡吹いて倒れてもしおかしくないだろ?八十の高血圧のばぁさんだからな。」
「そりゃ最悪だな。」
「戒厳令強いても、看護師同士の噂は止まんないんだよ。」

八十にもなって愛人は作られるわセックス最中に死ぬわじゃ、スキャンダルにも程がある。愛人だなんだは梨央の最も嫌いな類いの話だから、不快そうな顔を隠しもしないのは仕方がない。看護学校を卒業してずっと勤めている梨央だが、今回は流石に辞めようかと思ったと呟く程だ。兎も角病院に関しては理事会が副院長を新しい院長に据えて、経営事態はほぼ変わらないようだが前院長の醜聞を封じ込めるため前院長の臭いのするものは廃棄となっているらしい。そうなると、違法投薬の件も闇に消される可能性が高くなってくる。

「ちなみに院長の長男って何で死んだか分かるか?」

問いかけにビール片手に梨央は突然だなと呟く。でも彼女の表情から、長男の事も知っているのは分かる。

「焼死。有名なホテル火災覚えてんだろ?キチ。丁度宿泊券が当たって、家族で泊まってて運悪くってやつだよ。」
「随分詳しいな。」

思った以上にハッキリと答える梨央に、俺が言うと梨央はビールを飲みながら懐かしそうに目を細めた。

「勤めて直ぐだったしな。若先生が突然ディナー券付きで宿泊券が来たんだよって話してたの覚えてるよ。」
「突然?」
「応募した覚えがないけど、当たったんだから応募したんだなって。嬉しそうに話してたの、よく覚えてる。」

二十三年も前の話なのに鮮明に覚えているのは、梨央が初めて勤めた病棟の医師として倉橋健一が勤めていたからだ。しかも、倉橋健一は母親に似たのか穏和でかなりの人格者で、院長より人気だったのだという。次期院長ともされた彼は、突然送りつけられてきたディナー券付きの宿泊券に誘われ偶然あの火災の日に妻と息子と一緒に火災に呑まれた。よくあるドラマとかの話なら出来の悪い弟が画策してなんて事もありうるが、その時点で倉橋俊二は既に植物状態になって数年が経過している。

「親子仲は悪くなかったのか?」
「ドラ息子の方だって必死に生かしてんだぞ?キチ。バカがつくような親だよ、色狂いになったのは息子が死んでからだ。もう一人欲しかったんじゃねぇの?」
「次男……死んでるのか?」
「半年くらい前かな。」

風間が奇妙な顔をして考え込んでいるのを横に、俺は予想外に倉橋俊二が死んでいたとはと考える。しかもこの話からすると、愛人に囲った看護師は息子が死が近いのを知ってて、跡継ぎを作るために囲ったとも聞こえてしまう。だとしたら倉橋健吾は子供ほしさに狂ってしまったのかもしれないが、どう考えたとしても哀れな話だ。

「四倉さん。」
「リオでいいよ、あんたキチの同僚だろ?」
「梨央さん、認知症を回復させるような薬があったら、植物状態の患者はも治りますか?」

唐突な風間の問いかけに、梨央が眉をあげる。それでも俺には風間が何を想像したのか簡単に思い付いていた。頸動脈の損傷で脳に障害の起きた三浦和希と縊死により脳死状態の倉橋俊二、片方はマトモになれば死刑確定の犯罪者で片方は院長の大事な息子。マトモに戻らなくても状態が改善するかどうか薬を試してみるのに、躊躇うだろうか?息子が弱って死にかけているのは、看護師でも分かるなら医者なら十分理解できていたはずだ。

だから、違法と知りつつ投薬してみた。

だが、結果が出る前に息子は死んでしまった。始めてしまった投薬を途中で止めるわけにもいかず、助けたかった息子はもういない。なら子供をもう一人作るしかない?どれにしろ正気の沙汰とは思えない話ばかりだ。梨央は暫く考えた後に、風間の問いに答える。

「理論的には認知症は脳細胞の萎縮だからなぁ。でも、細胞を活性化させるって考えたら死んでいない細胞を活動させると思えば可能かもね。」
「細胞を活性化……。」
「でも、脳細胞限定って出来んのかな?細胞は細胞だし。」

その言葉に一瞬思考が止まる。あの華奢な三浦が、幾ら素っ裸だといえ自分より体格のいい看守を返り討ちに出来るのだろうか。それには投薬された薬が、何らかの予想できない効果を示してはいないのだろうか。
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