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69.風間祥太

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鉄錆と微かに甘く香る何かの残り香。
その階段の血痕を見ても、俺がそのまま真っ直ぐに下に向かわなかったのは、警察官としての経験のせいだったのだと思う。恐らく真っ直ぐに向かっていれば、俺自身が再拘束の目に遭ったか冷たくなって発見されただろうってことは、後になって事実と付き合わせてみれば明白だった訳だが。警察官はドラマのように一人で現場に乗り込むようなことは絶対にないし、警察官は基本二人一組で動く。その事もあるし何より俺が拳銃もない丸腰なのは事実だ。一人相手なら兎も角、それが進藤のような合気道の手練れだったりしたら目も当てられない。

それに、もしこれで武器相手になれば、確実にこっちがやられる。

音をたてないつもりだが、本当に立てていないかは分からなかった。暗闇から這い出すのにも感じてはいたが、やはり殴られて気を失ったのは事実のようで頭が靄がかかっているように揺れる。それでも人の気配のない地下から、一階に上がって周囲の状況を息を潜めて確認していく。ここはテナントの入居気配のない、廃墟めいた鉄筋の三階建てビル・地下は二階。テナント名はないがエレベーターも通路も蛍光灯が弱く灯っていて、今も誰かが利用しているのだけはこの状況でも分かる。
階上からテレビ番組の音が漏れ聞こえていて微かな男の笑い声が重なり、そこに誰かが少なくとも一人は詰めているのも分かった。どう考えても自分をここに連れてきて監禁した相手を考えれば、上にいるのも進藤一派だろうって位は明白。今ならあそこに俺を一人で放置したのは三浦が来ると分かっていたからで、直ぐ傍に監視がついていないのも恐らくその三浦のせいだ。

三浦は記憶傷害のせいで、敵味方関係ないんだろうからな……

そうするとあの血痕自体も、三浦が誰かに手を出した結果ついた可能性は高い。防音のお陰で外の状況は聞こえなかったが、それほど時間を置かないあの鮮血をみると、もしかするとギリギリの線で三浦和希と鉢合わせるところだったかもしれないと気がつく。だけど同時に

血痕をそのままにするのは無理だ、あれは鮮血過ぎる。

そう理解しているがこちらは今も丸腰なのは事実で、少なくともあの最初の部屋から俺が脱出したのは、扉を向こうから開けた人間にはバレてもいる。あの時の相手が三浦和希の可能性もあったし、別な人間だった可能性だって、例えば進藤隆平だとかだ。
そうなると俺が今出来る一番良策は、遠坂に連絡を取って再度体勢を整えて踏み込むしか選択出来る方法が思い浮かばない。そうまだ少しグラグラする頭で考えながら、ビルの開放された出入口から夜の闇とネオンの明かりの瞬く通りによろめきながら向かう。余り距離としてもここから離れるわけにはいかないが、少なくとも遠坂と連絡を取れる手段を考えないと。そう考えながら自分が結局何処にいたのかを確かめようと、辺りを見渡した瞬間見慣れた顔に出くわした。

何で……ここに?

一瞬自分が夢でも見てるかと勘違いする。何故なら俺は目にしたその見慣れた顔が高校時代の顔で、自分が十年もいきなり遡ったような錯覚に陥ったのだ。そう俺の目の前に居たのは鳥飼信哉と、その幼馴染みの土志田悌順。俺を呆気にとられた風に見る信哉は気楽な私服だが、土志田の方はジャージ姿だから余計に俺の頭は高校時代と二人を錯覚している。そして何でか同時に頭の中には、奇妙なほど鮮明に上原杏奈の顔が浮かぶ。

何で……杏奈の……こと?

何処かで俺の記憶の琴線に触れるものがあるのに、思わず俺は背後を振り返り人気のない薄暗がりに沈む路地をじっと見つめる。何かを俺は見落としている気がした。高校の時に杏奈が苦しんでいたのを、直ぐ傍にいて見落としていたように。

血痕。

あの血痕の高さは、壁に叩きつられたとして階段ではなく廊下だった。相手が長身だとしても、立ったまま叩きつけられて出血するとすれば頭。頭があの高さ、だとすると随分血痕は低い。血痕の高さは杏奈の身長に近くは無かったか?それに、あの空間に微かに残っていた甘い香り。やっぱりあれは杏奈と話した時、彼女が身に付けていた香りだった気がするのだ。勘違いか?倉橋亜希子の家の匂いか?今の俺の頭は殴られて気を失っているせいで、混乱してこんな錯覚を起こしているのだろうか?

「風間?どうしたんだ?こんなとこで会うなんて?」

ネオン街には不釣り合いな二人の姿と信哉の言葉に我に帰って、二人を思わずマジマジと見据えてしまう。どうやら教師の悌順が夜回りに来ているのに信哉が付き合っているというが。
警察官として捜査に民間人を捲き込むのは、勿論正しいことではない。正しいことではないが、もし今の俺の頭が感じているのが本当だったら?もしだ、あの血痕が杏奈のものだったら?更に遠坂と連絡を取りここに来るまでの何分かの時間をロスして取り返しがつかなかったら?また、あの時みたいに手遅れだったと俺は悔やむだけか?

目の前にいるのは、あの信哉と悌順だ。

この二人が一緒だった高校時代に、どんな人間だったかは今も鮮明に覚えている。宮井智雪と三人で高校時代無敵で無敗、入学そうそう上級生と乱闘騒ぎを起こしたのも、二年の文化祭で他校の不良と校門で乱闘騒ぎを起こしたのも、三年の修学旅行先で暴力団の事務所を壊滅させたのも。あり得ないような乱闘伝説を残したけど、三人とも悪事を働くような人間ではなくてただ単に捲き込まれ体質だと杏奈は何時も笑っていた。

本当に捲き込まれ体質よね、三人揃って。

信哉の能力は自分が目にしたから十分に分かっているし、悌順だって大学時代迄は国体選抜の柔道選手だった男だ。あれから十年経つとはいえ、目の前に並ぶ二人が大きくあれから衰えているとは俺には思えない。

「信哉、悌順、頼む。責任は全部俺がとるから。」

俺が口にした言葉に二人は目の色を変えていた。二人は何処に向かうと口にして迷わず歩き出し、道すがら俺が危惧していることに更に顔つきを変える。先にいるかもしれないのが進藤隆平か三浦和希、もしかしてだが上原杏奈が怪我をしてそこにいるかもしれない。



※※※



そんな事態を想定して乗り込んだ先。
俺と信哉と悌順が見つけたのは、大量の血液で色を変えた血塗れのカウチと血溜まり。それに幾つかの脱ぎ捨てられた衣類だけだった。血溜まりの先には足を引き摺るようによろめき歩いた足跡と、迷いなく真っ直ぐに血溜まりから離れていく足跡。どちらも似通った足のサイズで、どちらが誰とは断定しがたいものだった。兎も角そこに血痕の主と思われる人物は存在しなくて、俺は呆然と立ち尽くす。

これ程の出血で………逃げたのか?

どうやって?カウチには部分的に粘着テープが巻き付けられていて、誰かがここに拘束されていたのは誰の目でも明らかだ。拘束された誰かは大量の出血をしながら、その怪我を追わせた相手から逃げおうせた。相手も姿を消しているのは、逃げた人物を追いかけていったのか?

「風間。」

呆然としている俺に信哉が躊躇いがちな声をかけてくる。上原がいるかもしれないと思ったから緊急で二人に助力を頼んだが、結局はここには人の気配は何一つない。残された血の痕を調べるにも、これ以上ここを踏み荒らす訳にはいかなかった。

ビルの出入口に戻ったところで信哉が警察に通報して、その気配に二階から顔を出したチンピラを意図も容易く悌順が拘束している。やがて遠坂と連絡がついて、大量の警察官が規制線と同時に溢れだす。
地下二階の一室にあった血液は、確かに人間のもので、血液型はB型。
量としてはおよそ800ミリリットル以上。
上原杏奈はB型で、恐らく体重は五十キロ程。だから、もしこれが上原のものだとすれば出血量としてはかなりの量、ギリギリ出血性ショックを起こすか起こさないかのラインに近い。出血の場所は頭ではなく太股と考えられ、少なくとも大きな傷をおっている筈だ。
その状況でここから一人で逃げ出したと説明するには、かなり無理がある説明だと俺でも考える。大体にして止血はどうしたのか?どうやってここから出ていったのか?勿論二階に詰めていたチンピラ一人は、間抜けに階段から顔を出した位だから階下でそんなことが起きてるなんて何一つ知りもしなかった。ただエレベーターの中に僅かな血液のついた指紋が残っていて、どうやらこの薄暗いエレベーターがまだ機能的に動いたことだけはハッキリした。その後怪我をおった人物がビルから出て何処に消えたのかは、花街の雑踏の中ではハッキリさせようがない。
チンピラが詰めていた簡易事務所には先月三課が違法薬物の摘発でクラブを捜査した際、流通していたのと同じ薬物が段ボール入りで見つかった。こちらも末端の流通経路しか追えないので鼬ごっこではあるが、それでも量的にはかなりの摘発だ。
それは兎も角俺はそのまま都立総合病院に検査入院させられた。
なんでそのビルに居たかを説明するには、拉致監禁を説明するしかなかったのだ。勿論杏奈のことは話していないが、倉橋亜希子の家の壁紙とオークション詐欺のサンプル写真の話はした。道を歩いていてサンプル写真と同じ傷痕のあるブランドバックを持っていた女と会った等という、自分でも荒唐無稽な説明だったが。倉橋亜希子が既にそのマンションから行方をくらましていたのと、そのマンション自体の持ち主が倉橋亜希子ではなく架空の人物だったのは正直証拠としても大きかった。お陰で俺が民間人を巻き込んだのは、何でか有耶無耶になったんだ。俺自身の怪我も大したことではなく、二日で退院する程度。

その事件の日、同時刻にもう一つ騒ぎが起きていた。
花街通り中心に通りを二つ挟んで、西側にあった雑居ビル。俺が監禁されたのと似たような状態にあるビルの地下二階から、身元不明の男性一人の遺体が発見されていた。死亡時期はハッキリしないが少なくとも死後数年以上、廃業した居酒屋店舗の業務用冷凍庫に隠されていたのだ。通報は匿名で恐らく肝試しに入った若い奴らだろうという。というのもそのビル周辺には数年前三浦和希が人を殺したビルがあると噂があって、若い奴らの肝試しが後を経たないらしいからだ。実際には《random face》と呼ばれた店舗はその通りではなく、花街の路地を入ったところにある。そこは実在なのかなんなのか現在では《t.corporation》等という表記で、厳重なセキュリティのかかった扉が存在しているだけだ。
兎も角遺体は司法解剖され、実際には死因は頭部外傷によるものではなく、紐状のものによる絞殺の可能性が指摘された。遺体は歯形から上原征雄と確認、そうしてその殺害の犯人はやがて逮捕されることになる。



※※※



『あ?』

電話口の声は俺の言葉が理解できないといいたげに口を開く。上原征雄の死因、絞殺の犯人の名前を密かに伝えてこの反応だ。きっと頭の中では俺と同じ事を想定していたのだと思う。だけど真実としていえば。犯人は上原杏奈ではなかった。

「杏奈じゃなかった。母親だった。」

捜査の状況を外部に漏らすのが正しくないのは分かっているが、今回だけは多目にみて貰いたい。密かに匿名で通報したのが久保田と外崎なのは、俺も後から教えられたし、そのありかを教えたのが杏奈だとも聞かされた。だから俺も外崎も杏奈が上原征雄を殺したから、ここから逃げ出したのだと先ずは考えていたのだ。
だけど、それは大きな間違いだった。
上原征雄は杏奈と喧嘩で傷を追った後、救急を受診し耳介の裂傷を縫合している。その後救急室で騒動を起こして妻・上原春菜が呼び出された。

娘と喧嘩して怪我させられた何て言うから……

娘から電話がかかってきても、母親は娘に怒りをぶつけ話も聞かなかったという。だがその後数ヵ月して自宅で男は、酔った勢いで恐ろしいことを口にした。

お前と違って杏奈は俺の言うことをよく聞くいい女だったんだ。

夫から聞き出した鬼畜の所業に憎悪に真っ赤に染まった視界。咄嗟に手元にあったビール瓶で思い切り頭を殴り、手近なストールかなにかで首を絞めてしまっていた。

どうしよう、殺してしまった。

廃業したばかりと知っていたビルの地下二階の店舗に真夜中に遺体を運び込んで、置き去りにされた冷凍庫の電気をつけて征雄をそこに隠したのだという。それでも暫くしたらきっと臭いや何かでバレると思ったのに冷凍庫だからなのか、地下だからなのか誰も気がつかない。それでも夫が居ないことを指摘されるのが怖くて警察に届けを出して、女と一緒に消えたと訴えたけど警察は何も調べている風でもない。
次第によくわからなくなって殺したのが夢なのかとも思ったけれど、行って開ければそこに遺体は残されたまま。最初のうちはビクビクしていたけれど誰も何も言わず、月日が経っていくうちに感覚が麻痺していたのだと春菜は話したという。

『電気代は?』

それは確かに俺も疑問に思った。業務用冷凍庫一台が年間に使う電気代は約一万と少し。空白の店舗が支払いをするわけもないし、店舗の所有者は既に居場所も分からない。ところがここで一つ偶然の産物が起きていた。電気料金を支払う立場のオーナーが、実は小料理屋春菜の店舗を以前居酒屋として経営していた人物だったのだ。上原春菜に店舗を譲る前まで、電気料金支払うのにオーナーだった人物は上原春菜に各テナントからの集金を任せたり支払いを頼んだりしたという。後にテナントがなくなり上階にオーナーが隠居生活を一人でしても、春菜が入金などを代わりにしてくれるのは続いたらしい。これが電気代でバレなかった一番の理由で、つまりは春菜が信頼されていたとも言えるしビルのオーナーが笊勘定だったとも言える。

「杏奈の居場所は?」
『分からん。探してる。』

あれから一週間。
恐らくあの出血は杏奈のものだと思うが、杏奈の居場所はようとして知れない。それとも知っていて外崎宏太は隠しているのだろうか?そう考えもするし、本当に知らないのかもとも思う。同時に俺はまた杏奈を守ってやれなかったんだと、心の中が鋭く抉られたように痛みを感じている。
同時に進藤隆平も三浦和希も、倉橋亜希子も煙のように闇に姿を消したままなのだ。
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