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100.外崎宏太

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部屋の中に呆然と突っ立った風間祥太の姿の向こうに、異様な体勢で宙に浮かび手足をだらりとぶら下げた遠坂喜一の姿が鳥飼信哉には見えていた。

「信哉!キーチを下ろせ!!」

四倉梨央の鋭い言葉に咄嗟に風間を押し退けて部屋に駆け込んだ信哉が、喜一の体を力ずくで抱えあげる。続いて飛び込んだ梨央が喜一の体に飛び付くようにして、ガッチリと首に食い込んだネクタイを爪が割れるのも気にせずに必死に外す。床にそっと下ろされた喜一の体に飛び付くと、梨央は看護師の手早さで呼吸や脈を確かめながら俺に向かって救急車と叫ぶ。

「何やってんだ!!キーチ!!しっかりしろ!」

梨央がそう叫びながら喜一のボタンを外して前を寛げて、真上から胸を押し始めるのを音で感じとる。それからのことは実は俺自身よく記憶が纏まらない。正直喜一が自殺なんてあり得ないと思ったからで、俺はこの状況にパニックだった。妻が死んでた時は平気だったろって?その通りだが、ここ暫くの俺は以前と感情の触れ幅が全く違うんだ。了が傍にいるようになって、俺には今まで知らなかった感情が多すぎてオーバーフローを起こす事が増えた。兎も角俺にはガキの頃からつるんできた男が、縊死を選ぶはずがないと全く現実に向き合えなかったんだ。俺の目には喜一がどんな状態なのか分からないし、押し退けられて壁にぶつかりへたりこんだ風間の様子も分からない。

「くそ!キーチ!!戻れよっ!キーチ!!」

看護師で人の生死に関わることの多い梨央の声が次第に泣きだし始めているのに、喜一は既に手の施しようがないことを空気で感じとる。そうして微かな救急車の音を聞き取りながら、俺は必死に心臓マッサージを続ける梨央と信哉の横で見えない筈の目を喜一に向けて立ち尽くしていた。

遠坂喜一は自宅の中の部屋のドアノブにネクタイをかけて縊死した。
喜一が首を括ってからは恐らく十分もない程度だったろうが、縊死で命を落とすには十分な時間だ。しかも鍵のかかっていなかった室内には、喜一の遺書もしっかりと残されていた。喜一が長年暮らしていたアパートは家財道具は殆ど処分されていて、以前は足の踏み場もない程だった山のような書籍すら綺麗に片付けられていたという。
その日の朝一番に警察署に向かい辞表を出した遠坂喜一は、真っ直ぐに病院へ向かい恐らく進藤隆平を殺害したのではないかとされている。進藤隆平も同じ日にネクタイを使って、半座位のようにベットから落ち縊死していた。既に進藤は自力での立位はとれなかったから、少なくとも傍までネクタイを持って歩み寄った誰かがいる。一時は脱走した三浦和希が殺害した可能性も上げられたが、三浦と進藤の病室は離れていて何処に入院しているかは元より入院していること自体お互いに知らなかった筈だった。それに遠坂喜一が病室に入った後、扉の前にいた不動武司をトイレまで移動させ殺害した人間もいる。だが病棟の入り口に配備されている防犯カメラには、持ち場を離れた制服警官以外の出入りは見られなかった。恐らく病棟の正式な出入口ではなく、遠坂は病棟の奥の隠れた場所にある非常階段か業務用エレベーターを使って移動しているのだと思われる。不動の遺体が見つかったのはトイレの奥の個室だが、そこに連れ込まれた直後に風間がやって来ていたのだろう。そうなると不動武司の殺害も遠坂の可能性が出てきて、確かに遠坂喜一の自宅の流しに不動の首を切り裂いたと思われるナイフが見つかった。
喜一の縊死の第一発見者は風間祥太。
風間は午前にも一度喜一の家に来ているというが、その時喜一は既に不在だったという。警察署で辞表の事を聞いて慌ててここにきたというが、居ないことでもしかしてと病院に足を向けたらしい。
そして喜一が中にいる筈の病室で、進藤の縊死を発見したのも風間だった。既に進藤も手の施しようがない状態だったというが救命措置や、行方の分からなくなった喜一や不動の捜索を開始して、後程不動の遺体がトイレで発見される。院内では見つからない遠坂を探してもう一度確認のために病院から喜一の自宅に向かい、部屋に入った時に喜一が首を括っているのを発見したのだ。
風間があの時呆然と立ち尽くしていたのは、自分が見ているものが現実と思えなかったと言う。確かに一日に同じような遺体を、二人も見つけてしまったらそうかもしれない。しかも、片方は自分の相棒で二年間共に過ごした同僚。その上遺書に残された内容は、警察官としてはあるまじき行為への懺悔だった。
分かってはいたが、文字としてそれを残されると正直胸が痛む。
どうしてと何度も繰り返すが、答えのでないことばかり。何故息子の仇なんて考えたんだ?喜一が育てていたわけでもなく、何年も会ってもいない
上に息子は性的な暴行をした犯罪者でもあったんだ。それを捕まえる仕事をずっとしていたのに、何で三浦に仕返しをしようなんて考えたんだ?喜一。それに、けりの付け方は他にもあったろう?俺のように表側から裏側に移動して生きていたって構わないじゃないか。それでも、生きてれば何かしら変わっていくものだってある。そんなことを考えてしまう。

「宏太?」

暮明の中に了の声がして普段なら足音が扉の傍に来ればわかるのに、俺は声がかかるまで全く了に気がついていなかった。歩み寄ってきた了が労るように俺の頭を抱き寄せて、優しい体温で包み込むと頭を撫でてくる。

「宏太。」

泣きたい。こうなってからそう感じる頻度が増えて、今では泣けないことが苦しくなる。苦く痺れるような後悔の涙の味が口の中に広がったのに、今の俺は吐き出そうにも何時ものように溜め息も出来ないんだ。上原杏奈の時もそうだったし、三月の喜一の事件の後・鳥飼澪が十一年も前に死んでいたと信哉から聞いた時もそうだった。今までだったらしょうがない、済んだことと流すことが出来たのに、今の俺にはそれが出来なくなってしまっている。心の琴線や感情の触れ幅が大きくなってどうしても、今までのようにただ受け流すのが辛い。辛くて痛くて今ここで思い切り泣けたら、少しは楽になるのにと思ってしまう。
俺を抱き寄せたままでいる了の細い腰に手を回して抱き締めると、その腹に顔を押し付ける。一度了に思わず泣きたいと口にしたら、了は俺の代わりに泣いてやると言ってくれた。そうして俺より遥かに豊かな感情でホロホロと熱く優しい涙を溢して、いつまでも俺を抱き締めるんだ。

「……喜一が………自殺なんかする筈ない。」

思わず口にしたが、結局俺は喜一の自殺で締め括られようとしている事件に納得できていない。
遠坂喜一は三浦和希への十度ほどの性的暴行だけでなく、杉浦陽太郎への詐欺教授・脅迫、金銭搾取に関してまで文字で全てを書き残していた。そして杉浦から奪った金銭は、全て一ヶ所に集めていると残している。過ちを起こした自分が警察官でいる事は出来ないと綴り、罪は自らで償うと残していたという。
恐らくそれらを書いた後に起こした進藤の縊死・不動武司の刺殺、その上調べる内に上原杏奈の刺殺まで遠坂喜一の犯行になった。流しに残されていたナイフから出た血液型が、新しいものと古いもの二種類検出されたのだという。一つは不動のO型で、もう一つは風間が監禁されていたビルの地下に残された結婚と同じB型。それは上原杏奈のものと一致した。

「三浦なら兎も角、他の奴を殺すような男じゃない……。」
「宏太……。」

そうなんだ。三浦を殺したのなら俺は納得したんだと思う。だが、喜一は三浦は殺さず、進藤と不動をころした。そんなことあるわけがないだろ?直接の怨みを張らさずに、他の奴を殺す?遠坂喜一がそんな間抜けな事で、三浦には何もせず自殺なんてあり得ないとよく分かっている。だけど何一つ証拠がない。上原のように事前に仕込んだボイスレコーダーもないのだ。喜一だったらそれくらいのことは仕込むのだって簡単だった筈なのに、何もしなかったのはあり得ないが事件が真実だからか?あいつらしくない事だが、それこそ大事なものを失い狂った証拠なんだろうか。真名かおるに狂わされたのと同じで、大事なものを失うと誰もがこんな風に狂うのか。

ねぇ?

不意に了の暖かい体温に抱き締められた頭の中に、《random face》のカウンター越しの真名かおるの声と顔が閃く。最近考えていたのとは違う、子供めいた好奇心で俺の事を見透かすように話しかけてくるあの女。まるでその顔は何か忘れてるんじゃない?と言いたげで、子供のように微笑んでいる。何で今更こんな今までとイメージの違う真名かおるが、頭を過るんだ?あの子供の声のせいか?それとも俺の中には、こんな真名かおるもいたってことか?

ねぇ?

何か見落としてるんじゃないのかしら?と観察力に長けていた真名かおるが脳裏で囁きかけてくる。あの真名かおるは誰にも教えられたわけでもないのに、俺の店の奥の隠し部屋の事も中で何が行われているかまで見抜いていた。何でだと疑問に思ったが、客の出入りと奥行き、それにね・見ただけで分かるものもあるのよなんて笑って見せた。客観的な視点、冷静に見聞きしたものを分類する能力、それに人の仕草ですら彼女には相手を判別する方法になる。

何か……忘れている…………

自分が聞いた世界と、今や真実とされようとしているもの。それの齟齬を確かに俺は知っている筈なのだ。何だ?絶対に噛み合わない事があるから、俺はこうして納得できない。
客観的に見れば進藤に関しては分からない、喜一がやったと言われればそうかもしれないと考えもするからだ。その後三浦を殺す気だったが、いなかったと考えることは出来る。不動に関しては、らしくない・十年も付き合いがあるんだぞ?と思うが、進藤に情報を売っていたのと入り口に居たことからも完全な否定は出来ない。もしかすれば進藤に味方した可能性だってある。なら、上原杏奈は?真名かおると信じたなら?だけどあり得ないと、これだけは確実に思えるのは………

声だ。あの時の声、上原の死の直前の二人の会話。

思わず了に保管してあるボイスレコーダーを、持ってきて欲しいと頼んだ。了が素直に持ってきてくれた上原の声と喜一の会話をもう一度聞き直す。真名かおると名乗って喜一を呼び出し、喜一が何をしたのか指摘して、喜一に何故風間を見殺しにしたのかと問い詰めた。
喜一が風間を見殺しにしたと気がついたと言うことは、それなりのものを上原杏奈は見ていた筈だ。例えば現場周辺で喜一がいるのを見たとか?だとすれば喜一はどうする?いや、既に時間を売り渡した事は話しているんだから、これで喜一が上原を襲う必要はない。それにだ、上原の腹の傷は完全に前からで、この音声では上原は背を向けて喜一を残して歩き出しているように聞こえる。足の音が弧を描いてきいちに背を向けて、背後に喜一の微かな呼吸の音がしているように聞こえるのだ。
カツカツと喜一から離れていく上原の足音。
やがて背後を振り返るような気配、そして、溜め息。
上原はどう考えても会話の後喜一と別れている。
この後喜一が追いかけてきて上原を刺した?なんでだ?ワザワザ別れて考えて、上原を殺さなきゃと考え直した?でも恐らく事の時には罪を償う事を考え始めていた喜一が、上原を殺す必要性はなんだ?上原杏奈が真名かおるだと思ったからか?だが真名かおるなら尚更警察に連れていかないとならないんじゃないか?三浦を操ることが出来る唯一の女だぞ?やっぱり噛み合わない。

上原杏奈を殺す理由はなんだ?

それに上原は暫く歩いてから、背後を振り返り追いかけてきているか確認して溜め息をついた。その後も暫く歩く音が微かに聞こえているのは通話を切っていないからで、それは数分続く。二人は会話の後完全に別れているとしか思えない、なら別な相手がいるのか?その時不意に一瞬微かな足音を聞いた気がした。その直ぐ後にカバンに手を入れた上原が通話を切る。

誰かに会った?しかも前から来た誰かに

喜一とは真逆の方向から上原に会った人間。上原が同じところをグルグルと廻ったとは思えないし、足音は微かだったが喜一の靴の音ではない。俺は本の一瞬入る微かな足音を何度も何度も繰り返して聞き直す。

こいつが上原を殺した奴なのか?それともこいつとも会話をして別れただけか?

どうしてここで通話を切ったんだ。そのまま通話にしておけば、上原が喜一の後に誰に会ったのか分かったのに。そう考えながら残されていた、ほんの一歩にも満たない足音を聞き続ける。

誰だ?

アスファルトを踏む音。ヒールのような硬質さではないし、スニーカーのようなソフトな靴の裏の音ではない。音は重く硬いが、履き慣れない感じではない……もしかして男の靴か?男の靴となると当然喜一も対象だが、喜一じゃないと思うのは通話を切っているからだ。喜一なら通話のままにしておく………そう考えた瞬間、不意にあの時の上原杏奈の言葉が過った。

好きだったんだよ、でも、……あいつ正義の味方になりたいんだもん。私みたいなのとつきあってらんないだろ?

まさか、と言葉が溢れ落ちる。俺の様子に了が心配そうに覗きこむのがわかったが、この考えが真実なら盲点だ。盲点だが真実とは一番認めたくないし、証拠なんて何一つない。幼馴染みが罪を犯しても友達でいてと言った上原の言葉は、俺と喜一の事だと思った。だが、同時に上原と風間の事でもあったのだとしたら?上原が犯した罪ではなく、風間が犯した罪なのだとしたら?もし、真実なら俺はどうする?真実を証明するために、また全てを暴き出すのか?
俺はその思考に言葉を失うと、手探りで目の前にいる了の事を抱き締めていた。
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