10 / 55
現時点
10.菊池直人
しおりを挟む
…………か…………
暗闇の中、微かな声がする。
何処かで聞いた、覚えのある幼い微かな声。
朦朧とする意識の中、遥遠くににいるのか
……………き………、………はる………
何かを言っている、懐かしい声。
もっと近くで話して欲しい。
もっと私に聞き取れるように。
遥遠く彼方で、必死に何か伝えようと声をあげている。
それなのに遠すぎて言葉が聞き取れない。
ぼんやりとした意識の中でそう願った。
そこでふっと脳裏に思考が閃く。
その声は酷く懐かしい、幼い自分と同じ声。
あの夜消えてしまった自分の半身のカナタの声。
ハッと遥は我に返ったように意識を取り戻し床に倒れ込んでいた体を起こした。
室内に降り注ぐ日の光はまだ明るく室内を照らしだしていて、遥が意識を失ってほんの僅かな時間しかたっていないようだ。意識を失うほど激しく差しこんだ脇腹の痛みも今は全くない。
ふと、姿見に映る自分の顔を見つめる。先ほどの声は夢だったのだろうか。
「………ねえ、カナタ?あなたなの?」
自分を映す鏡に向かってそっと問いかけても、そこに映るのは遥の黒々としたくまのできた自分の戸惑う顔だけだ。
先ほど鏡の中で浮かべたあの不敵な笑いは、見間違い立ったのだろうか。痛みが強くて歪んだ顔がそう見えたのか、既にあの時点から意識がなく夢の中だったのだろうか。
しかし、先ほど親切な忠志が遥に忠告した事は、現実のことだ。そして、あの彼が言ったのは、けして嘘ではない気がした。
槙山さんは、私とよく会ったって言ってた。よくって一回や二回じゃないはず。
遥は床に張り付いたような重い体を起こすと、ヨロヨロと玄関先に放置された買い物袋を拾いに重い足を運んだ。
この体の怠さを遥は、知っている。
気にしないで買い物に行ったが、朝起きた時点で疲労感は既に合ったのだ。この怠さは、一晩よく寝た後のものとは思えない。そして、同じようなことを遥は昔経験したことがある。
それは、ずいぶん昔遥が眠っていた間に、カナタが勝手に体を動かし深夜のテレビ番組を見たときと同じ。遥は寝ていると思った夜中の三時間以上を、カナタが夜更かしをした時。心は二つでも体は一つで、眠らない体は朝遥が起きた時点で既に疲労困憊していた。それとよく似ていた。
何が起こっているんだろう…………。
誰かに助けてほしかった。
カナタが戻ってきたのなら、隠れてこそこそ何かをしているなんてことがありうるのだろうか。どちらにせよ、この不安が拭い去れるものなら何でも打ち明けてしまえばいい。そう遥は心から思い、震える手で携帯の通話ボタンを押していた。
※※※
忙しい電話の攻防戦が響き渡る。
締め切りが近い編集部の中は、普段の倍も激しい喧騒に包まれている。そんな中で、今直人の担当する数人の作家は異質な方だと思われるた。
特に今電話をしている作家は、ページ一枚分の日常的に訪れる喫茶店や、珈琲や紅茶にまつわるエッセイを連載している。元は翻訳を主体にして仕事をしているのだが、時折小説も書き安定した固定ファンのいる人でもある。ある時トントン拍子でエッセイを依頼出来たのだが、それが案外評価がよく定期掲載となっていた。元来几帳面な性格なのか、毎回律儀に期日前で必ず1校目をメールに添付して連絡をしてくれるので大助かりだった。性格なのだろう殆ど文面には誤字も脱字もないので、直人的には校正の修正も少なく大助かりだ。
「鳥飼先生、次回のエッセイの話なんですけど。」
添削しても殆ど毎回誤字脱字もない過不足のない文体は、しなやかで鮮やかな情景が浮かび女性的にも感じられる。まるでその場にいて見ているようにも感じる喫茶店の風景と、出てくる珈琲や紅茶の芳しい香りとその店で出される甘味や軽食の切り取りかたが絶妙だ。読んでいると訪れたくなるし、一度行っていても新しい一面がわかると読者から好評を得ている。
ところがこの文面を生み出す当の本人が、かなりの人嫌いで殆ど人前に顔をださないことで出版業界では有名なのだ。
「はい、ああ、沿線のですね。はい。では、先方の了承が得られたら連絡します。はい、そうですね。」
メモを取りながら相手の指定した場所を、パソコンの地図を眺め確認する。掲載するにも相手の承諾をとって、写真撮影もしないとならないので、手配には数日かかる。それを頭の中で、組み立てながら話す。
※※※
元々、名前だけは知っていた。学生の頃、翻訳された洋書を読んだこともある。繊細な小麦畑に風が走る情景の描写に、上手い翻訳だと感心したから何気なく名前は知っていた。
勤め初めて出版社主催のレセプションやらパーティーやらがあって、何度か機会はあるのに当の作家は招待されても何だかんだと理由をつけて辞退の知らせばかりが続く。それに気がついて、先輩に問うと有名な人嫌いなのだと教えられた。何度か先輩も連絡を取ったことがあるが、顔を会わせたことすらないという。
「そんなんで、大丈夫なんですか?」
「他の出版からは、幾つも本出してる。そっちは増版続きだし、安定した固定ファンもいるから、うちからも何か出してくれればなぁ。」
先輩の言葉になるほどと納得する。
歳も人物像も分からないが、翻訳だけでなく個人名で書籍も出しているならかなり能力があるのだろう。試しに幾つか手に取った本で、繊細な世界観の中で食事や甘味の表現がより際立っているのに気がついた。
あれ、この人の話最初気がつかなかったけど、俺が知ってる喫茶店に似てる。出てくる食べ物も、何か分かる気が………
丁度初めて任されたエッセイのページをどうやって埋めるか思案していた俺は、気がついたことを含め謎の作家に連絡をとってみることにしたのだ。断りが多いが仕事連絡に関するメールアドレスは開示されていたので、当たって砕ける位の気持ちだった。
ところが断りのメールかと思って開いたら、予想外に今は時間がありますので先ずはお話だけなら伺います。少し立て込む時期で自宅を離れられませんので、宜しければ一度ご足労願えますかと親切丁寧なお返事を頂くにいたった。
実はこの作家と上手く折り合いがついたのは、この雑誌の部署では自分が初めてだという。他の部署や他の出版社には何人か編集者と交流があるらしいが、この快挙に編集室がどよめいていた。
綺麗な文体が人気で何度も依頼の声をかけるが、先輩の話では電話にも中々でないし連絡はほぼメール。多くは今か変えているモノがあるのでと言う断りの連絡しか来たことがなかったらしい。
返答のメールの文章から、恐らく執筆以外にも何か仕事をしているのだろう。何かと忙しいとか旅行先だと断られることが多かったのも納得できた。
この仕事難のご時世に、なんと羨ましい
タイミングよく話を聞いてもいいと連絡があった時は、思わずデスクなのにガッツポーズをとっていた。初めての仕事で、難物を落とせる可能性があるのだ。これは上手くやらないとと俺は気合いを入れて、自宅の住所らしき文面を眺める。
それほど遠くない。遠くないどころか、大体の建物が分かる程慣れた地域だ。
編集室一同から見送られるようにして、間違いないと先輩が太鼓判を押した洋菓子店で差し入れという名の賄賂を片手に、直人は指定の時間とにらめっこをしながら自宅を訪問する。
当の作家のペンネームは『鳥飼澪』。
発行の書籍には、本名も性別も年齢も出身地すら公表されていない。公式には全て非公表だった。女性だとばかり思って洋菓子を片手に緊張しながら尋ねた家で俺の事を迎え入れたのは、確かに艶やかに短く揺れる黒髪で、手も足も細くしなやかでスタイル抜群、しかも贔屓目に見てもかなり美人だった。ただ、俺よりも5センチ以上は背の高い、美形ではあるがれっきとした男性だった。
ペンネームだということを失念し、中性的で女性ともとれたからといって、完全に女性だとばかり思い込んでいた直人の大失態だ。
そんな出会いをした男同士が恋に落ち、なんてタイプの書籍も別部署で発行してはいる。だけど、残念ながら俺には長年心に決めた人がいるわけで。
黒曜石という宝石があるが、まさにそういう表現が似合う当の御本人は直人の後悔も知らず、余り感情を表に出さない淡々とした様子で彼を迎え入れた。
情感豊かな文章と目の前の無感情に見える人物の落差に、てっきり本人は奥にいて目の前の人物は旦那か誰かなのか、はたまた人違いかと思ったほどだ。ところが手土産の洋菓子を差し出すと、ああこれ何処其処のケーキですね、ここのシュークリームが旨いんですよねと突然話し出した。
「申し遅れました、鳥飼信哉といいます。」
気を取り直したように彼は、初めてニッコリと女だったら直ぐ恋に落ちる極上の笑みを浮かべた。それが実は目の前におかれたケーキの効果だとは信じられないが、どうも本当の事らしい。
一見しただけでは分からないが、目の前の男性作家鳥飼氏は実はかなりの甘味好きだったというわけだ。つまりは言い方は悪いが甘味で胃袋を掴んだ直人は、まんまと難物の『鳥飼澪』こと鳥飼信哉のエッセイを手に入れる事に成功した。勿論、経費で色々な店の甘いものが食えることもダシにしてエッセイを書くことを取り付けたのは言うまでもないが。
お陰でその頃まだひよっこ扱いだったのに、それが功績になって他にも数人気難しい作家を抱えているのだが。まあ、最近気難しい作家ばかり押し付けられている気がしなくもないのだが。
※※※
「今回のは、そうですね、先方の希望では。そこを掲載するのは止めてほしいそうです。ええ、販売数が安定しないそうなので。はい、それは大丈夫だそうです。」
文面にしたものの店舗側から販売数が安定しないので、安定供給できないと申し入れがあった。このまま紙面になってそれを求めたが入手できないとなると、時に店舗にとっては悪評に変わりかねない場合がある。そういうときには事前にその部分を削除か変更する事もあるのてで、つまりは変更部分を彼に伝えるための連絡だ。自分が勝手に記載をかえると彼の文章のイメージが変わるのでどうしても彼に書き直してもらうしかない。店舗で写真撮影した時にも申し入れがあったことは伝えてあったので、用意周到な彼はそこに書く代案を既に準備してあるようだ。変更して欲しい部分を伝えると、電話の向こうは抑揚のない声で了承した旨と1日くださいとだけ言う。ホントはまだ締め切りまで3日余裕があるのだが、何時ものことなので直人も承知する。どうやらこの人にとって、期日を先延ばしするのは嫌な事の一つらしい。どちらが副業なのかは知らないが、もうひとつの仕事は時間の予定がなく突然スケジュールに飛び込んでくるもののようで、記事の締め切りを伸ばす事になるよりは早め早めに動く癖がついているのだろう。そう彼と付き合ううちに感じた彼の人柄から、感覚として直人は踏んでいる。あまり追求することでもないので直人も追求しないし、その関わり方が彼にとっては良かったらしく今のところ彼との関係は良好の太鼓判がもらえる自信がある。何時もの通り直人はお願いしますとだけ言って、電話を切った。
他の難物たちも割合予定通りらしく、何度かそれぞれに繰り返しの電話をして時間が過ぎていく。
仕事をしていると余計なことは考えなくてすむから、実は考えなきゃいけないことを先伸ばししていることを忘れられる。それでは駄目なのだろうけど、予想と違う反応と返事をした人の事を考えるとどうしても気が滅入るのだ。
初めて会った時、パスケースを手に恥ずかしげに頬を染めた彼女の姿に直人は一目惚れした。
もう会わないのだろうか、どうやって探せばいいのか悩んでいた最中、本当に偶然再会することができた。その後は電車の時間を合わせホームで出会うたびに話かけ、次に何とかお茶に誘うことに成功した。回数を重ね、元気がない時は映画や水族館や動物園に誘い、打ち解け友達として電話もできる間柄になるまで直人がどれだけ頑張ったことか。
友達からは小学生の清い男女交際かよと何度言われたことか。
何しろ瀬戸遥という人が恋愛に疎いというか、あまり男女関係に対しての積極性がないのだ。可愛くて仕方がないのに、大人しく彼女の傍に居続けた自分の6年間の努力に自分でも可笑しくなるのではないかと思うほどだった。隣に居るのに中々気持ちを打ち明けられず、それでも恋心は諦められずに彼女の傍らに居続けた。
彼女も自分の事を悪くは思ってないと思うのだ。
今日こそはと何度も思ったが元気のない顔を見たりすると、気持ちを押し付ける気がして出来なかった。6年も傍で沢山笑顔を見れるようになってから、彼女も同じ気持ちになってくれた気がした。
だから、決意してやっとのことで打ち明けたのに……
不意に胸ポケットで自分のスマホが震えだす。
仕事ではない私用電話に直人は、廊下に出ながら着信の名前を見て驚いたように目を丸くした。
「どうしたの?遥。」
今まで、一度も遥が仕事の合間に電話をかけてきた事はなかった。あってもメールくらいなもので、こういうところが他の女性に比べても遥は酷く慎ましいと直人は思う。遥に出会う前に付き合った彼女なんて、30分に一度連絡しないと鬼のように怒り狂ったがそれも特殊な部類なのかもしれない。
内心もっと連絡してもいいのにとすら思っていたのだ。
先ほどまでの苦悩もどこへやら喜んで電話に出たが、遥の様子に直人は息を呑んだ。電話の向こうの遥は、何かに脅え泣きながら電話をしていた。
『話があるの、お願い。今晩、家に来て頂戴。』
嗚咽をかみ殺すようにしながら、遥は絞り出すような苦痛の響きを持った声でそう呟いた。
暗闇の中、微かな声がする。
何処かで聞いた、覚えのある幼い微かな声。
朦朧とする意識の中、遥遠くににいるのか
……………き………、………はる………
何かを言っている、懐かしい声。
もっと近くで話して欲しい。
もっと私に聞き取れるように。
遥遠く彼方で、必死に何か伝えようと声をあげている。
それなのに遠すぎて言葉が聞き取れない。
ぼんやりとした意識の中でそう願った。
そこでふっと脳裏に思考が閃く。
その声は酷く懐かしい、幼い自分と同じ声。
あの夜消えてしまった自分の半身のカナタの声。
ハッと遥は我に返ったように意識を取り戻し床に倒れ込んでいた体を起こした。
室内に降り注ぐ日の光はまだ明るく室内を照らしだしていて、遥が意識を失ってほんの僅かな時間しかたっていないようだ。意識を失うほど激しく差しこんだ脇腹の痛みも今は全くない。
ふと、姿見に映る自分の顔を見つめる。先ほどの声は夢だったのだろうか。
「………ねえ、カナタ?あなたなの?」
自分を映す鏡に向かってそっと問いかけても、そこに映るのは遥の黒々としたくまのできた自分の戸惑う顔だけだ。
先ほど鏡の中で浮かべたあの不敵な笑いは、見間違い立ったのだろうか。痛みが強くて歪んだ顔がそう見えたのか、既にあの時点から意識がなく夢の中だったのだろうか。
しかし、先ほど親切な忠志が遥に忠告した事は、現実のことだ。そして、あの彼が言ったのは、けして嘘ではない気がした。
槙山さんは、私とよく会ったって言ってた。よくって一回や二回じゃないはず。
遥は床に張り付いたような重い体を起こすと、ヨロヨロと玄関先に放置された買い物袋を拾いに重い足を運んだ。
この体の怠さを遥は、知っている。
気にしないで買い物に行ったが、朝起きた時点で疲労感は既に合ったのだ。この怠さは、一晩よく寝た後のものとは思えない。そして、同じようなことを遥は昔経験したことがある。
それは、ずいぶん昔遥が眠っていた間に、カナタが勝手に体を動かし深夜のテレビ番組を見たときと同じ。遥は寝ていると思った夜中の三時間以上を、カナタが夜更かしをした時。心は二つでも体は一つで、眠らない体は朝遥が起きた時点で既に疲労困憊していた。それとよく似ていた。
何が起こっているんだろう…………。
誰かに助けてほしかった。
カナタが戻ってきたのなら、隠れてこそこそ何かをしているなんてことがありうるのだろうか。どちらにせよ、この不安が拭い去れるものなら何でも打ち明けてしまえばいい。そう遥は心から思い、震える手で携帯の通話ボタンを押していた。
※※※
忙しい電話の攻防戦が響き渡る。
締め切りが近い編集部の中は、普段の倍も激しい喧騒に包まれている。そんな中で、今直人の担当する数人の作家は異質な方だと思われるた。
特に今電話をしている作家は、ページ一枚分の日常的に訪れる喫茶店や、珈琲や紅茶にまつわるエッセイを連載している。元は翻訳を主体にして仕事をしているのだが、時折小説も書き安定した固定ファンのいる人でもある。ある時トントン拍子でエッセイを依頼出来たのだが、それが案外評価がよく定期掲載となっていた。元来几帳面な性格なのか、毎回律儀に期日前で必ず1校目をメールに添付して連絡をしてくれるので大助かりだった。性格なのだろう殆ど文面には誤字も脱字もないので、直人的には校正の修正も少なく大助かりだ。
「鳥飼先生、次回のエッセイの話なんですけど。」
添削しても殆ど毎回誤字脱字もない過不足のない文体は、しなやかで鮮やかな情景が浮かび女性的にも感じられる。まるでその場にいて見ているようにも感じる喫茶店の風景と、出てくる珈琲や紅茶の芳しい香りとその店で出される甘味や軽食の切り取りかたが絶妙だ。読んでいると訪れたくなるし、一度行っていても新しい一面がわかると読者から好評を得ている。
ところがこの文面を生み出す当の本人が、かなりの人嫌いで殆ど人前に顔をださないことで出版業界では有名なのだ。
「はい、ああ、沿線のですね。はい。では、先方の了承が得られたら連絡します。はい、そうですね。」
メモを取りながら相手の指定した場所を、パソコンの地図を眺め確認する。掲載するにも相手の承諾をとって、写真撮影もしないとならないので、手配には数日かかる。それを頭の中で、組み立てながら話す。
※※※
元々、名前だけは知っていた。学生の頃、翻訳された洋書を読んだこともある。繊細な小麦畑に風が走る情景の描写に、上手い翻訳だと感心したから何気なく名前は知っていた。
勤め初めて出版社主催のレセプションやらパーティーやらがあって、何度か機会はあるのに当の作家は招待されても何だかんだと理由をつけて辞退の知らせばかりが続く。それに気がついて、先輩に問うと有名な人嫌いなのだと教えられた。何度か先輩も連絡を取ったことがあるが、顔を会わせたことすらないという。
「そんなんで、大丈夫なんですか?」
「他の出版からは、幾つも本出してる。そっちは増版続きだし、安定した固定ファンもいるから、うちからも何か出してくれればなぁ。」
先輩の言葉になるほどと納得する。
歳も人物像も分からないが、翻訳だけでなく個人名で書籍も出しているならかなり能力があるのだろう。試しに幾つか手に取った本で、繊細な世界観の中で食事や甘味の表現がより際立っているのに気がついた。
あれ、この人の話最初気がつかなかったけど、俺が知ってる喫茶店に似てる。出てくる食べ物も、何か分かる気が………
丁度初めて任されたエッセイのページをどうやって埋めるか思案していた俺は、気がついたことを含め謎の作家に連絡をとってみることにしたのだ。断りが多いが仕事連絡に関するメールアドレスは開示されていたので、当たって砕ける位の気持ちだった。
ところが断りのメールかと思って開いたら、予想外に今は時間がありますので先ずはお話だけなら伺います。少し立て込む時期で自宅を離れられませんので、宜しければ一度ご足労願えますかと親切丁寧なお返事を頂くにいたった。
実はこの作家と上手く折り合いがついたのは、この雑誌の部署では自分が初めてだという。他の部署や他の出版社には何人か編集者と交流があるらしいが、この快挙に編集室がどよめいていた。
綺麗な文体が人気で何度も依頼の声をかけるが、先輩の話では電話にも中々でないし連絡はほぼメール。多くは今か変えているモノがあるのでと言う断りの連絡しか来たことがなかったらしい。
返答のメールの文章から、恐らく執筆以外にも何か仕事をしているのだろう。何かと忙しいとか旅行先だと断られることが多かったのも納得できた。
この仕事難のご時世に、なんと羨ましい
タイミングよく話を聞いてもいいと連絡があった時は、思わずデスクなのにガッツポーズをとっていた。初めての仕事で、難物を落とせる可能性があるのだ。これは上手くやらないとと俺は気合いを入れて、自宅の住所らしき文面を眺める。
それほど遠くない。遠くないどころか、大体の建物が分かる程慣れた地域だ。
編集室一同から見送られるようにして、間違いないと先輩が太鼓判を押した洋菓子店で差し入れという名の賄賂を片手に、直人は指定の時間とにらめっこをしながら自宅を訪問する。
当の作家のペンネームは『鳥飼澪』。
発行の書籍には、本名も性別も年齢も出身地すら公表されていない。公式には全て非公表だった。女性だとばかり思って洋菓子を片手に緊張しながら尋ねた家で俺の事を迎え入れたのは、確かに艶やかに短く揺れる黒髪で、手も足も細くしなやかでスタイル抜群、しかも贔屓目に見てもかなり美人だった。ただ、俺よりも5センチ以上は背の高い、美形ではあるがれっきとした男性だった。
ペンネームだということを失念し、中性的で女性ともとれたからといって、完全に女性だとばかり思い込んでいた直人の大失態だ。
そんな出会いをした男同士が恋に落ち、なんてタイプの書籍も別部署で発行してはいる。だけど、残念ながら俺には長年心に決めた人がいるわけで。
黒曜石という宝石があるが、まさにそういう表現が似合う当の御本人は直人の後悔も知らず、余り感情を表に出さない淡々とした様子で彼を迎え入れた。
情感豊かな文章と目の前の無感情に見える人物の落差に、てっきり本人は奥にいて目の前の人物は旦那か誰かなのか、はたまた人違いかと思ったほどだ。ところが手土産の洋菓子を差し出すと、ああこれ何処其処のケーキですね、ここのシュークリームが旨いんですよねと突然話し出した。
「申し遅れました、鳥飼信哉といいます。」
気を取り直したように彼は、初めてニッコリと女だったら直ぐ恋に落ちる極上の笑みを浮かべた。それが実は目の前におかれたケーキの効果だとは信じられないが、どうも本当の事らしい。
一見しただけでは分からないが、目の前の男性作家鳥飼氏は実はかなりの甘味好きだったというわけだ。つまりは言い方は悪いが甘味で胃袋を掴んだ直人は、まんまと難物の『鳥飼澪』こと鳥飼信哉のエッセイを手に入れる事に成功した。勿論、経費で色々な店の甘いものが食えることもダシにしてエッセイを書くことを取り付けたのは言うまでもないが。
お陰でその頃まだひよっこ扱いだったのに、それが功績になって他にも数人気難しい作家を抱えているのだが。まあ、最近気難しい作家ばかり押し付けられている気がしなくもないのだが。
※※※
「今回のは、そうですね、先方の希望では。そこを掲載するのは止めてほしいそうです。ええ、販売数が安定しないそうなので。はい、それは大丈夫だそうです。」
文面にしたものの店舗側から販売数が安定しないので、安定供給できないと申し入れがあった。このまま紙面になってそれを求めたが入手できないとなると、時に店舗にとっては悪評に変わりかねない場合がある。そういうときには事前にその部分を削除か変更する事もあるのてで、つまりは変更部分を彼に伝えるための連絡だ。自分が勝手に記載をかえると彼の文章のイメージが変わるのでどうしても彼に書き直してもらうしかない。店舗で写真撮影した時にも申し入れがあったことは伝えてあったので、用意周到な彼はそこに書く代案を既に準備してあるようだ。変更して欲しい部分を伝えると、電話の向こうは抑揚のない声で了承した旨と1日くださいとだけ言う。ホントはまだ締め切りまで3日余裕があるのだが、何時ものことなので直人も承知する。どうやらこの人にとって、期日を先延ばしするのは嫌な事の一つらしい。どちらが副業なのかは知らないが、もうひとつの仕事は時間の予定がなく突然スケジュールに飛び込んでくるもののようで、記事の締め切りを伸ばす事になるよりは早め早めに動く癖がついているのだろう。そう彼と付き合ううちに感じた彼の人柄から、感覚として直人は踏んでいる。あまり追求することでもないので直人も追求しないし、その関わり方が彼にとっては良かったらしく今のところ彼との関係は良好の太鼓判がもらえる自信がある。何時もの通り直人はお願いしますとだけ言って、電話を切った。
他の難物たちも割合予定通りらしく、何度かそれぞれに繰り返しの電話をして時間が過ぎていく。
仕事をしていると余計なことは考えなくてすむから、実は考えなきゃいけないことを先伸ばししていることを忘れられる。それでは駄目なのだろうけど、予想と違う反応と返事をした人の事を考えるとどうしても気が滅入るのだ。
初めて会った時、パスケースを手に恥ずかしげに頬を染めた彼女の姿に直人は一目惚れした。
もう会わないのだろうか、どうやって探せばいいのか悩んでいた最中、本当に偶然再会することができた。その後は電車の時間を合わせホームで出会うたびに話かけ、次に何とかお茶に誘うことに成功した。回数を重ね、元気がない時は映画や水族館や動物園に誘い、打ち解け友達として電話もできる間柄になるまで直人がどれだけ頑張ったことか。
友達からは小学生の清い男女交際かよと何度言われたことか。
何しろ瀬戸遥という人が恋愛に疎いというか、あまり男女関係に対しての積極性がないのだ。可愛くて仕方がないのに、大人しく彼女の傍に居続けた自分の6年間の努力に自分でも可笑しくなるのではないかと思うほどだった。隣に居るのに中々気持ちを打ち明けられず、それでも恋心は諦められずに彼女の傍らに居続けた。
彼女も自分の事を悪くは思ってないと思うのだ。
今日こそはと何度も思ったが元気のない顔を見たりすると、気持ちを押し付ける気がして出来なかった。6年も傍で沢山笑顔を見れるようになってから、彼女も同じ気持ちになってくれた気がした。
だから、決意してやっとのことで打ち明けたのに……
不意に胸ポケットで自分のスマホが震えだす。
仕事ではない私用電話に直人は、廊下に出ながら着信の名前を見て驚いたように目を丸くした。
「どうしたの?遥。」
今まで、一度も遥が仕事の合間に電話をかけてきた事はなかった。あってもメールくらいなもので、こういうところが他の女性に比べても遥は酷く慎ましいと直人は思う。遥に出会う前に付き合った彼女なんて、30分に一度連絡しないと鬼のように怒り狂ったがそれも特殊な部類なのかもしれない。
内心もっと連絡してもいいのにとすら思っていたのだ。
先ほどまでの苦悩もどこへやら喜んで電話に出たが、遥の様子に直人は息を呑んだ。電話の向こうの遥は、何かに脅え泣きながら電話をしていた。
『話があるの、お願い。今晩、家に来て頂戴。』
嗚咽をかみ殺すようにしながら、遥は絞り出すような苦痛の響きを持った声でそう呟いた。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
丘の上の王様とお妃様
よしき
恋愛
木崎珠子(35才)は、大学を卒業後、帝国財閥の子会社に勤めていた、ごくごく平凡なOLだった。しかし、同じ職場の彼に二股をかけられ、職場にも居づらくなり、あげくに両親が交通事故でいっぺんに他界。結局会社を退職し、両親がやっていた喫茶店「坂の上」を引き継ごうと、地元へ帰ってくる。喫茶店の仕事は、会社務めに比べると、珠子にはなんとなくあっているようで...ご近所さんを相手にユルくやっていた。そんな珠子が地元へ戻ってから半年ほどして、喫茶店「坂の上」の隣にある、通称「お化け屋敷」と呼ばれる大豪邸に、帝国財閥の偉い人が越してくると話題になる。珠子は、「別の世界の人間」だからと、あまり意識をしていなかったのだか...
「お化け屋敷」の噂からひと月後。いつもは見ない紳士が、喫茶「坂の上」によってきて。そこから始まる現代シンデレラ物語
せんせいとおばさん
悠生ゆう
恋愛
創作百合
樹梨は小学校の教師をしている。今年になりはじめてクラス担任を持つことになった。毎日張り詰めている中、クラスの児童の流里が怪我をした。母親に連絡をしたところ、引き取りに現れたのは流里の叔母のすみ枝だった。樹梨は、飄々としたすみ枝に惹かれていく。
※学校の先生のお仕事の実情は知りませんので、間違っている部分がっあたらすみません。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる