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38.カナタ
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今や激しい疲労に意識は微かに遠のき始めた。
和希の懺悔にかおるが考え付く相応の罰を与え、店主である男に気取られる前にあの場所を離れた。しかし、それ以前から使い果たしていた体力を回復する術もないまま、這うような思いで歩くかおるの気力を奪う。横になるにも今横になれば、確実に誰かに体を奪われるのが体内の気配からも分かる。しかも、腹部に走る酷い痛みは何時もと同じ場所に、存在を示す様に出現してかおるの気力を更に削り奪いつつある。
元々痛みというものは、かおるにとって与えるもので与えられ感じるものではなかった。かおるは無意識に手で肩を抱き、自分が寒さに身を震わせているのに気がつく。そしてそれに気がついたかおるは、少し躊躇いがちに辺りを見回す。
その仕草はまるで誰かを探しているようにも見える。今すぐ誰かが現れ、冷えきった彼女に何かをしてくれることを期待しているかのように見えた。しかし、今周囲には彼女の望むことを与えられる人影は存在せず、かおるは無意識に首元を押さえる。
立ち止まったままボンヤリと首元を押さえたまま、かおるの動きが人形のように止まった。瞳がボンヤリと力をなくし、それは端から見ればバッテリーが落ちスイッチが切れたように感じられる変化だった。
「……瀬戸さん?!」
遠くから背中にかけられた大きな明るい声に、かおるのボンヤリしていた瞳がパッと見開かれる。かおるの瞳が子供のように輝き、彼女は素早い視線で振り返った。
「よく出会うね、俺達。ってこんな時間に何してんの?またこんな時間に女の子が独りで出歩いちゃ危ないって。」
和希に少し似た髪の色は、射し込む朝日のように輝いてキラキラと金色に見える。彼の人懐っこく自分を心配する視線に、かおるは微笑もうとして出来なかった。自分が確実に目の前の彼と会うことを期待していたのが分かった。かおるは忠志と出会いたかった自分が理解できないのに、それでもこうして心配してくれる彼と少しでも一緒にいられるのが嬉しい自分に気がついていた。
「瀬戸さん、大丈夫?」
「かおる。」
その名前で呼ばないでと思わず言葉を続けそうになりなからも、かおるが小さな声で呟く。瀬戸遥の名前を知っていたら彼との関係にも矛盾がおこると、かおるが気がついた時には時既に遅しではあった。しかし、名字しか知らなかったらしい青年は、納得したように微笑みながらかおるの瞳を覗きこんだかと思うと口を開く。
「じゃ俺の事も忠志ね?槙山さんはおしまい。俺も名字はなんか落ち着かないんだよね、普段も皆名前で呼ぶし。えっと、かおるちゃん?かおるさん?」
「かおるでいい。あたしも忠志って呼ぶから。」
そっかと全く気にした風でなく明るく笑う忠志の顔を、かおるは眩しそうに目を細め見上げる。それに気がついた忠志が少しまた心配そうに顔を覗きこむ。
「また、こんな時間まで何かやってたの?体壊すから止めとけって、女の子だし体大事にしないときついだろ?……かおる。」
そっと伸びてきた大きな暖かい手が、かおるの頬をなで目の下を指が撫でる。
冷えきった頬に驚くほど熱い忠志の体温に、かおるは息を飲んで彼の顔を見上げた。その視線は見て分かるほどに真っ直ぐに自分を覗きこみ、ただ自分の事を労り心配しているのが分かる。
「この間あんな危ない目にあったんだから、気を付けなきゃ。」
「この間……。」
それが何を示すのかは分からないが、かおるは忠志が自分の事を心配してくれるのがただ単純に嬉しかった。それが顔に出たのだろう忠志が少し怒ったように、かおるの瞳を正面から覗きこみ頬を熱い手で軽く摘まむ。
「独りで出歩くなよ?な?かおる。」
「ココア。」
え?と忠志が唐突な言葉に驚く。
かおる自身も自分が口にした言葉に驚いたように、彼の目の前で俯き彼女らしくなく恥ずかしげに頬を染める。その仕草に忠志が明るい笑い声をたてて、ポンポンと優しく俯いたかおるの頭を撫でちょっと待ってなと囁く。かおる自身、自分でも予想外に口をついてしまった言葉だったと思う。
でも、独りで出歩かないと会えないとあなたに会えない。
夜明け間近の明け方の街で、偶然であったとは思えないほど軽やかな足取りで駆けて自販機に駆け寄る忠志の後ろ姿に、かおるはオズオズと歩み寄る。それはまるで彼から離れたくないと、かおるが思っている証拠のようにも見えた。振り返って直ぐ傍にかおるが立っていたのに驚きもせず、忠志はその手を伸ばしかおるの手をとると暖かな缶を滑り込ませた。
「あったかい、ありがと。」
「はは、安上がりだな、こんなんで喜ばれると悪いな。珈琲じゃなくて良かった?かおる、珈琲好きだろ?」
その言葉に気がつかないのか、かおるは缶を見つめながら首を横にふり苦いから嫌いと小さく呟く。
「ココアの方が好き。苦くないし甘いし…暖かいから。」
微かに眉を潜めた忠志に気がつく様子もなく、受け取ったココアを眺めて嬉しそうに微笑んでいる姿を眺める。貸して開けてあげると声をかけるとかおるは尚更嬉しそうに微笑んで缶を差し出す。プルタブを開けてもらい嬉しそうに微笑んだまま、慎重な仕草でココアを口にするかおるに忠志は面白そうに笑う。
「ココア旨い?」
「うん、美味しい。これ一番好き。」
「そっか、良かった。」
自分を笑いながら眺める穏やかな視線に気がつき、かおるは少し首を傾げながら忠志を見上げる。
「なにか、あたしおかしい?」
「あ、いや、子供っぽくて可愛いなと思っただけ。」
不思議そうにその言葉を聞きながらかおるは忠志の顔を見上げたまま動かない。そして、唐突に言葉が呑み込めたのか、かおるは頬を朱に染めて俯く。
「寒いなぁ、俺にも一口頂戴。」
何気ない言葉にかおるがオズオズと缶を差し出すと、受け取った忠志が一口缶から飲もうとして予想外の熱さに舌を出す。
「あっつ!かおる、よく飲めるなぁ。」
「ふふ、忠志猫舌なの?手とか暖かいのに。」
白い息がふわりと光を反射して、ビルの隙間から昇り始めた朝日が一直線に射し込む。
缶を再び手渡されたかおるが視線を下ろすと、その目の前に手袋をはずした忠志の手が差し伸べられた。キョトンとその手を見下ろすと、忠志の暖かな大きな手がかおるの手を包み込む。
「家まで送るよ、一人じゃ危ないから。」
「ここまで一人できた。」
「わかってるけど、女の子が一人で危ないって。かおる、俺が言うのもなんだけどお前って危なっかしいよな。」
いつの間にか腹に響いていた痛みは遠退き、暖かなココアを片手に反対の手がもっと暖かい手に包まれる。歩き出す忠志の体温を直に感じたくて自分の手袋を外したかおるに、忠志が寒いからしてていいのにと微笑みかける。思わずかおるが忠志もも手袋を外したと指摘すると、濡れてたからだよと優しい声が告げかおるは彼を見上げ嬉しそうに微笑んだ。
自分をより歩幅が広い筈の忠志が、不思議なことに上手くかおると同じ歩調で歩く。やがてそれが忠志が歩調を合わせてくれていると気がつき、かおるはもう一度横の彼を見上げる。普段は不快に感じそうな筈の距離に苦もなくいる忠志の存在に、正直かおるは戸惑いながらもされるがまま大人しく横を歩く。
害意も敵意もない、彼と一緒だと冷たい朝の刺すような空気すら今までと違って穏やかだ。ずっとこうしていられたらとかおるは思う。
今までみたいに誰かを傷つけずに、こうして暖かな彼と歩いていられたら。
「………あたしの………願い。」
ポツリと囁いたかおるの声に忠志が視線を落とす。
聞き取れなかったのだろう忠志が、かおるに問い返したが答えは帰ってこなかった。
空になっていたココアの缶がかおるの指から滑り落ち、憤りも怒りも感じていなかったかおるの意識は転げ落ちるように深い闇に飲み込まれた。
フッと操る糸が切れたように意識が途切れ、支配するものを失った肉体だけが夜の明け始めた日射しの中に取り残される。
手を繋いで歩いていたかおるに起きた目に見えるような異変に忠志は息をのみ、目の前の彼女を見下ろす。
足元で転がる缶がユックリ円を描き転がっていく音を聞きながら、ヒンヤリと清んで人気のない朝日の光の中で薄青の空気の中に立ち竦む。
一時空虚な脱け殻のようだった肉体に、忠志の目の前で別な微かな光が灯る。ユックリとした瞬きの後に表にうかびあがった表情は、先程とは全く違う凛とした勝ち気そうな印象に変わった。
彼女は何が起きたか分からないのか、慎重に辺りを伺う視線を巡らせた。やがて、朝日が近づくのをみやると同時に、彼女はユックリ自分の手を繋ぐ青年に向けて視線を上げる。そこにはつい今しがたまで子供のように微笑んでいたのとは全く違う、強い視線と不思議な表情を浮かべた存在が一人残った。
「あなた……誰?」
カナタにはつい直前まで心を満たしていた感情が何か分からなかった。誰かも知らない今まさに仲良く手を繋いでいる目の前の男の存在に、驚愕すると同時に強い不信感が沸き上がった。
この人、誰?
今までのカナタの記憶に目の前の男は存在していない。遥がまだ眠っているのは分かっている事も入れれば、直前までの意識はかおるであったはずだ。簡単に明け渡しはしないはずなのに、カナタは体に突然知らせもなく投げ込まれたのと同じだった。そして、目の前でポカンとしている男が自分にとって利益であるかも分からない。鋭い視線に目の前の男の手が緩み素早く手を抜き取ると、何故か微かに心が痛む気がした。
「唐突にごめんなさい、でも、あなた誰?」
素早く辺りを見回しながら同じことを繰り返すと、目の前の青年は驚いたように素直に槙山忠志と名乗った。
訳もわからず一人意識に放り込まれた状況のカナタは、街の朝日で鏡の様に輝くウインドウに映る自分の姿を見つめる。見た限り露出の少ない遥の好む服装だが、深紅の口紅や化粧は遥とは違う。カナタとかおるが会話をして、あれからどれくらいの時間が過ぎたのかは分からないが服装は最後の記憶で見たのと同じもののようだと心で呟く。ただ服装が同じだからと言って一晩なのかもっとなのかは、この状況ではカナタには判断できない。
目まぐるしく思考を巡らせるカナタの様子に、訝しげに忠志が目を細めるのが分かった。
「ごめんなさい、急に脅かして。」
何と言えばこの場を誤魔化せるのか一瞬思考が停滞する。手を繋いで歩く程の間柄を言葉でどう納得させればいいのか、冷静に考えているとは言えカナタでも判断できない。しかも、目の前の視線は咄嗟に出た不審の言葉とは言え、カナタに不信感を持っただろうことは明らかだった。
「は…遥?!」
息を切らしかけられた声に、思わず振り返ると白い息を吐きながら駆け寄る姿があった。
乱れた服もそのまま見慣れた直人が、立ち竦んだままの2人に駆け寄る。新たに加わった直人の姿に目の前の青年が目を丸くして小さく遥の名前を呟き、駆け寄る直人とカナタを交互に見つめるのがわかった。
直人にどう答えたらいいか分からず言葉もなく立ち尽くしたカナタを、暫く目を細め息を整えながら直人は見つめていた。しかし、何かにふと気がついた様に目を細め微かにカナタの眼を覗き込んだ。
「君は…カナタさん……か?」
カナタは直人の言葉に驚きを隠せない。
まだ自分から何も話した訳でもないのに、何故彼にわかるのだろうと不思議な気持ちが湧く。本当なら名前を呼ばないよう遮るべきだったとは思いながら、自分がカナタだと彼が判別したという事実に喜びが沸き上がるのを感じている自分に気がつく。
一方で目の前のもう一人の青年は新たに呼ばれた名前に尚更困惑した瞳で2人を見つめる。
「何故、分かったの?」
微かな歓喜を滲ませる声に、直人はそれには気がつかないのかホッとした様な微笑みを浮かべて冷たい手でカナタの手を握った。そして、呆然と横に立った忠志を見上げ、そこでやっと彼のことを思い出し表情を緩めた。直人の最初の彼の印象が良いのだろう、直人は安堵の笑顔を浮かべて彼に話しかける。
「君、遥のマンションで会った人か。もしかして、彼女の事知ってた?送ってくれようとした?」
「え、ええ、確かに。」
不思議そうにではあるが、同時にそれも真実だったのだろう、忠志が改めて直人に名前を告げながら頷く。表情だけでなく言葉にも安堵を込めて直人は、彼にありがとうと告げる。出来ることならカナタは彼がかおるとどんな関係なのかを聞き出したかったが、直人の険しい視線にその言葉を飲み込んだ。
どうやら一晩しか時間はたっていないものの、直人の目の前からかおるは逃げ出したらしい。それを恐らく一晩中探していたのだろう直人はカナタの手をとりながら有無を言わさず帰ろうと促す。
「彼女を心配してくれてありがとう、槙山君だったね。彼女の事はオレに任せて。それじゃ。」
普段とは違う愛想のない直人の様子に目を丸くしながらも大人しくカナタは直人に手を引かれて歩き出す。
朝早い人気のない街を手を繋いで、2人は無言のまま歩く。暫くして同じマンションに住んでいる筈の忠志がその気配に気後れして2人を見送ることにした程、直人の気配が鬼気迫るものだったのだと歩きながらカナタは気がついた。
カナタは口を開こうとして何度もためらう。
今ここで歩きながら直人に聞いてしまうのは簡単だったが、本当は何だかこの無言を崩すのが惜しい様な気がしたのだ。
この感情は一体なんだろう。
一先ず、家に帰って聞きたいことは聞けばいい事だわ、そうい訳がましく自分に囁いてカナタは自分の手をすっぽりと包んだ暖かい直人の手を見つめていた。
和希の懺悔にかおるが考え付く相応の罰を与え、店主である男に気取られる前にあの場所を離れた。しかし、それ以前から使い果たしていた体力を回復する術もないまま、這うような思いで歩くかおるの気力を奪う。横になるにも今横になれば、確実に誰かに体を奪われるのが体内の気配からも分かる。しかも、腹部に走る酷い痛みは何時もと同じ場所に、存在を示す様に出現してかおるの気力を更に削り奪いつつある。
元々痛みというものは、かおるにとって与えるもので与えられ感じるものではなかった。かおるは無意識に手で肩を抱き、自分が寒さに身を震わせているのに気がつく。そしてそれに気がついたかおるは、少し躊躇いがちに辺りを見回す。
その仕草はまるで誰かを探しているようにも見える。今すぐ誰かが現れ、冷えきった彼女に何かをしてくれることを期待しているかのように見えた。しかし、今周囲には彼女の望むことを与えられる人影は存在せず、かおるは無意識に首元を押さえる。
立ち止まったままボンヤリと首元を押さえたまま、かおるの動きが人形のように止まった。瞳がボンヤリと力をなくし、それは端から見ればバッテリーが落ちスイッチが切れたように感じられる変化だった。
「……瀬戸さん?!」
遠くから背中にかけられた大きな明るい声に、かおるのボンヤリしていた瞳がパッと見開かれる。かおるの瞳が子供のように輝き、彼女は素早い視線で振り返った。
「よく出会うね、俺達。ってこんな時間に何してんの?またこんな時間に女の子が独りで出歩いちゃ危ないって。」
和希に少し似た髪の色は、射し込む朝日のように輝いてキラキラと金色に見える。彼の人懐っこく自分を心配する視線に、かおるは微笑もうとして出来なかった。自分が確実に目の前の彼と会うことを期待していたのが分かった。かおるは忠志と出会いたかった自分が理解できないのに、それでもこうして心配してくれる彼と少しでも一緒にいられるのが嬉しい自分に気がついていた。
「瀬戸さん、大丈夫?」
「かおる。」
その名前で呼ばないでと思わず言葉を続けそうになりなからも、かおるが小さな声で呟く。瀬戸遥の名前を知っていたら彼との関係にも矛盾がおこると、かおるが気がついた時には時既に遅しではあった。しかし、名字しか知らなかったらしい青年は、納得したように微笑みながらかおるの瞳を覗きこんだかと思うと口を開く。
「じゃ俺の事も忠志ね?槙山さんはおしまい。俺も名字はなんか落ち着かないんだよね、普段も皆名前で呼ぶし。えっと、かおるちゃん?かおるさん?」
「かおるでいい。あたしも忠志って呼ぶから。」
そっかと全く気にした風でなく明るく笑う忠志の顔を、かおるは眩しそうに目を細め見上げる。それに気がついた忠志が少しまた心配そうに顔を覗きこむ。
「また、こんな時間まで何かやってたの?体壊すから止めとけって、女の子だし体大事にしないときついだろ?……かおる。」
そっと伸びてきた大きな暖かい手が、かおるの頬をなで目の下を指が撫でる。
冷えきった頬に驚くほど熱い忠志の体温に、かおるは息を飲んで彼の顔を見上げた。その視線は見て分かるほどに真っ直ぐに自分を覗きこみ、ただ自分の事を労り心配しているのが分かる。
「この間あんな危ない目にあったんだから、気を付けなきゃ。」
「この間……。」
それが何を示すのかは分からないが、かおるは忠志が自分の事を心配してくれるのがただ単純に嬉しかった。それが顔に出たのだろう忠志が少し怒ったように、かおるの瞳を正面から覗きこみ頬を熱い手で軽く摘まむ。
「独りで出歩くなよ?な?かおる。」
「ココア。」
え?と忠志が唐突な言葉に驚く。
かおる自身も自分が口にした言葉に驚いたように、彼の目の前で俯き彼女らしくなく恥ずかしげに頬を染める。その仕草に忠志が明るい笑い声をたてて、ポンポンと優しく俯いたかおるの頭を撫でちょっと待ってなと囁く。かおる自身、自分でも予想外に口をついてしまった言葉だったと思う。
でも、独りで出歩かないと会えないとあなたに会えない。
夜明け間近の明け方の街で、偶然であったとは思えないほど軽やかな足取りで駆けて自販機に駆け寄る忠志の後ろ姿に、かおるはオズオズと歩み寄る。それはまるで彼から離れたくないと、かおるが思っている証拠のようにも見えた。振り返って直ぐ傍にかおるが立っていたのに驚きもせず、忠志はその手を伸ばしかおるの手をとると暖かな缶を滑り込ませた。
「あったかい、ありがと。」
「はは、安上がりだな、こんなんで喜ばれると悪いな。珈琲じゃなくて良かった?かおる、珈琲好きだろ?」
その言葉に気がつかないのか、かおるは缶を見つめながら首を横にふり苦いから嫌いと小さく呟く。
「ココアの方が好き。苦くないし甘いし…暖かいから。」
微かに眉を潜めた忠志に気がつく様子もなく、受け取ったココアを眺めて嬉しそうに微笑んでいる姿を眺める。貸して開けてあげると声をかけるとかおるは尚更嬉しそうに微笑んで缶を差し出す。プルタブを開けてもらい嬉しそうに微笑んだまま、慎重な仕草でココアを口にするかおるに忠志は面白そうに笑う。
「ココア旨い?」
「うん、美味しい。これ一番好き。」
「そっか、良かった。」
自分を笑いながら眺める穏やかな視線に気がつき、かおるは少し首を傾げながら忠志を見上げる。
「なにか、あたしおかしい?」
「あ、いや、子供っぽくて可愛いなと思っただけ。」
不思議そうにその言葉を聞きながらかおるは忠志の顔を見上げたまま動かない。そして、唐突に言葉が呑み込めたのか、かおるは頬を朱に染めて俯く。
「寒いなぁ、俺にも一口頂戴。」
何気ない言葉にかおるがオズオズと缶を差し出すと、受け取った忠志が一口缶から飲もうとして予想外の熱さに舌を出す。
「あっつ!かおる、よく飲めるなぁ。」
「ふふ、忠志猫舌なの?手とか暖かいのに。」
白い息がふわりと光を反射して、ビルの隙間から昇り始めた朝日が一直線に射し込む。
缶を再び手渡されたかおるが視線を下ろすと、その目の前に手袋をはずした忠志の手が差し伸べられた。キョトンとその手を見下ろすと、忠志の暖かな大きな手がかおるの手を包み込む。
「家まで送るよ、一人じゃ危ないから。」
「ここまで一人できた。」
「わかってるけど、女の子が一人で危ないって。かおる、俺が言うのもなんだけどお前って危なっかしいよな。」
いつの間にか腹に響いていた痛みは遠退き、暖かなココアを片手に反対の手がもっと暖かい手に包まれる。歩き出す忠志の体温を直に感じたくて自分の手袋を外したかおるに、忠志が寒いからしてていいのにと微笑みかける。思わずかおるが忠志もも手袋を外したと指摘すると、濡れてたからだよと優しい声が告げかおるは彼を見上げ嬉しそうに微笑んだ。
自分をより歩幅が広い筈の忠志が、不思議なことに上手くかおると同じ歩調で歩く。やがてそれが忠志が歩調を合わせてくれていると気がつき、かおるはもう一度横の彼を見上げる。普段は不快に感じそうな筈の距離に苦もなくいる忠志の存在に、正直かおるは戸惑いながらもされるがまま大人しく横を歩く。
害意も敵意もない、彼と一緒だと冷たい朝の刺すような空気すら今までと違って穏やかだ。ずっとこうしていられたらとかおるは思う。
今までみたいに誰かを傷つけずに、こうして暖かな彼と歩いていられたら。
「………あたしの………願い。」
ポツリと囁いたかおるの声に忠志が視線を落とす。
聞き取れなかったのだろう忠志が、かおるに問い返したが答えは帰ってこなかった。
空になっていたココアの缶がかおるの指から滑り落ち、憤りも怒りも感じていなかったかおるの意識は転げ落ちるように深い闇に飲み込まれた。
フッと操る糸が切れたように意識が途切れ、支配するものを失った肉体だけが夜の明け始めた日射しの中に取り残される。
手を繋いで歩いていたかおるに起きた目に見えるような異変に忠志は息をのみ、目の前の彼女を見下ろす。
足元で転がる缶がユックリ円を描き転がっていく音を聞きながら、ヒンヤリと清んで人気のない朝日の光の中で薄青の空気の中に立ち竦む。
一時空虚な脱け殻のようだった肉体に、忠志の目の前で別な微かな光が灯る。ユックリとした瞬きの後に表にうかびあがった表情は、先程とは全く違う凛とした勝ち気そうな印象に変わった。
彼女は何が起きたか分からないのか、慎重に辺りを伺う視線を巡らせた。やがて、朝日が近づくのをみやると同時に、彼女はユックリ自分の手を繋ぐ青年に向けて視線を上げる。そこにはつい今しがたまで子供のように微笑んでいたのとは全く違う、強い視線と不思議な表情を浮かべた存在が一人残った。
「あなた……誰?」
カナタにはつい直前まで心を満たしていた感情が何か分からなかった。誰かも知らない今まさに仲良く手を繋いでいる目の前の男の存在に、驚愕すると同時に強い不信感が沸き上がった。
この人、誰?
今までのカナタの記憶に目の前の男は存在していない。遥がまだ眠っているのは分かっている事も入れれば、直前までの意識はかおるであったはずだ。簡単に明け渡しはしないはずなのに、カナタは体に突然知らせもなく投げ込まれたのと同じだった。そして、目の前でポカンとしている男が自分にとって利益であるかも分からない。鋭い視線に目の前の男の手が緩み素早く手を抜き取ると、何故か微かに心が痛む気がした。
「唐突にごめんなさい、でも、あなた誰?」
素早く辺りを見回しながら同じことを繰り返すと、目の前の青年は驚いたように素直に槙山忠志と名乗った。
訳もわからず一人意識に放り込まれた状況のカナタは、街の朝日で鏡の様に輝くウインドウに映る自分の姿を見つめる。見た限り露出の少ない遥の好む服装だが、深紅の口紅や化粧は遥とは違う。カナタとかおるが会話をして、あれからどれくらいの時間が過ぎたのかは分からないが服装は最後の記憶で見たのと同じもののようだと心で呟く。ただ服装が同じだからと言って一晩なのかもっとなのかは、この状況ではカナタには判断できない。
目まぐるしく思考を巡らせるカナタの様子に、訝しげに忠志が目を細めるのが分かった。
「ごめんなさい、急に脅かして。」
何と言えばこの場を誤魔化せるのか一瞬思考が停滞する。手を繋いで歩く程の間柄を言葉でどう納得させればいいのか、冷静に考えているとは言えカナタでも判断できない。しかも、目の前の視線は咄嗟に出た不審の言葉とは言え、カナタに不信感を持っただろうことは明らかだった。
「は…遥?!」
息を切らしかけられた声に、思わず振り返ると白い息を吐きながら駆け寄る姿があった。
乱れた服もそのまま見慣れた直人が、立ち竦んだままの2人に駆け寄る。新たに加わった直人の姿に目の前の青年が目を丸くして小さく遥の名前を呟き、駆け寄る直人とカナタを交互に見つめるのがわかった。
直人にどう答えたらいいか分からず言葉もなく立ち尽くしたカナタを、暫く目を細め息を整えながら直人は見つめていた。しかし、何かにふと気がついた様に目を細め微かにカナタの眼を覗き込んだ。
「君は…カナタさん……か?」
カナタは直人の言葉に驚きを隠せない。
まだ自分から何も話した訳でもないのに、何故彼にわかるのだろうと不思議な気持ちが湧く。本当なら名前を呼ばないよう遮るべきだったとは思いながら、自分がカナタだと彼が判別したという事実に喜びが沸き上がるのを感じている自分に気がつく。
一方で目の前のもう一人の青年は新たに呼ばれた名前に尚更困惑した瞳で2人を見つめる。
「何故、分かったの?」
微かな歓喜を滲ませる声に、直人はそれには気がつかないのかホッとした様な微笑みを浮かべて冷たい手でカナタの手を握った。そして、呆然と横に立った忠志を見上げ、そこでやっと彼のことを思い出し表情を緩めた。直人の最初の彼の印象が良いのだろう、直人は安堵の笑顔を浮かべて彼に話しかける。
「君、遥のマンションで会った人か。もしかして、彼女の事知ってた?送ってくれようとした?」
「え、ええ、確かに。」
不思議そうにではあるが、同時にそれも真実だったのだろう、忠志が改めて直人に名前を告げながら頷く。表情だけでなく言葉にも安堵を込めて直人は、彼にありがとうと告げる。出来ることならカナタは彼がかおるとどんな関係なのかを聞き出したかったが、直人の険しい視線にその言葉を飲み込んだ。
どうやら一晩しか時間はたっていないものの、直人の目の前からかおるは逃げ出したらしい。それを恐らく一晩中探していたのだろう直人はカナタの手をとりながら有無を言わさず帰ろうと促す。
「彼女を心配してくれてありがとう、槙山君だったね。彼女の事はオレに任せて。それじゃ。」
普段とは違う愛想のない直人の様子に目を丸くしながらも大人しくカナタは直人に手を引かれて歩き出す。
朝早い人気のない街を手を繋いで、2人は無言のまま歩く。暫くして同じマンションに住んでいる筈の忠志がその気配に気後れして2人を見送ることにした程、直人の気配が鬼気迫るものだったのだと歩きながらカナタは気がついた。
カナタは口を開こうとして何度もためらう。
今ここで歩きながら直人に聞いてしまうのは簡単だったが、本当は何だかこの無言を崩すのが惜しい様な気がしたのだ。
この感情は一体なんだろう。
一先ず、家に帰って聞きたいことは聞けばいい事だわ、そうい訳がましく自分に囁いてカナタは自分の手をすっぽりと包んだ暖かい直人の手を見つめていた。
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