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第一章 わたしを取り巻く人々
Ⅱ スクール・カウンセラー
わたしが所属する天文部のミーティングが滞りなく終了したあと、廊下でひとりの女性とすれ違う。彼女はこの学園の制服を身に纏っていない。黒のミディ・スカートにVネックのカーディガンを着込んでいる。
それもそのはず、その女性はスクール・カウンセラーの空地蘭さん。
小学生のころ、不登校児童だったわたしを救ってくれたひかり先生と同じように、この学園にもスクール・カウンセラーが在籍していた。
彼女は社会福祉制度に詳しく、人格者で情に厚いので生徒たちから慕われている。生徒たちからは蘭ちゃんの愛称で親しまれていた。女子生徒たちからとくに人気があり、天文部の三年生鳴瀬さんなどは「お姉さま」などと呼称している。
彼女は非常勤で、複数の学校を掛け持ちしている。スクール・カウンセラーに多い勤務形態だ。時刻はもう午後四時半。それでもこの時期は蒸し暑く不快指数が高めである。
「綾織戸さん、ごきげんよう」
「蘭ちゃん、こんにちは。わたし、あのことまだ悩んでてさ……。話聞いてくれるかな」
空地先生はわたしとも仲良し。三○代半ばで、つやのある黒髪が美しかった。彼女の声色がわずかに変調する。
「進路のことですか?」
「うん。両親には反対されてるんだ。福祉に進むこと」
わたしは視線を落とした。壁のシミが視界に入る。
進路希望として福祉系の学科がある大学を選ぼうとしていたが、両親にはかたくなに反対されていた。いま現在の偏差値では背伸びしないと届かない。
また、憧れのスクール・カウンセラーになるためには大学院で学ぶことが必須であり、学費の負担も多かった。
奨学金制度も存在しているのは知っていたが、わたしの成績ではお話にならない。
三年間モラトリアムに過ごしたつけが回ってきたのだ。自責の念で眉が歪む。
「ここではなんだから、カウンセリング・ルームで話しましょうか」
空地先生の提案で面談室に移動する。彼女はわたしの夢を体現した存在だった。生徒たちに寄り添い、傾聴の姿勢を示し、信頼を勝ち取っている。
それにひきかえわたしは夢の分岐点で道に迷い、光を失いそう。夢と両親からの圧力で板ばさみになっていた。
両親はふつうに短大か大学を卒業して一般企業のオフィス・レディになり、キャリアを築いてから高収入のハイスペック男性と結婚して二○代で子どもをつくる……それがこの国の女性の幸せだと力説する。福祉に進むなら学費は自分で払えとまで言われた。
「クラスのみんなはやりたいことはっきりしてるのにさ、わたしの夢は親にも応援してもらえない」
その心情を吐露すると、涙で袖を濡らしていた。わたしは弱虫である。
彼女は話し終わるまで口を挟まず聞いてくれた。それからわたしに紅茶を勧めてくれる。
「大学院で臨床心理士の資格を取ることだけがスクール・カウンセラーの道じゃないのよ。じつは特定の資格を取ることが必須の職業ではないの。公認心理師や精神科医の資格を持っている人もいる」
「それだって、大学で学ぶことが必須……」
気持ちが静まらず泣きじゃくりながら反論した。涙液で室内の焦点がぐにゃぐにゃに歪んでしまう。
「話を最後まで聞いて。ご両親だって、本気で学費を払わないつもりじゃないと思うわ。綾織戸さんが、本気を示せば態度が変わるかもしれません。それにカウンセラーになることだけが福祉の道じゃないのよ」
落ち着いた声色が彼女の特徴だ。ここまで言い切って、空地先生がわたしの表情をのぞき込む。ぬばたまの髪、黒曜石をくりぬいたかのような瞳、透明感のある白皙の肌。日本人形が生命を宿したと説明されれば信じてしまう。彼女は生粋の日本女性だ。
たしかにわたしはスクール・カウンセラーになれないなら福祉に関わるのは諦めるという「ゼロ百思考」に陥っていたようである。
どろどろした想いを吐きだすことで、いくぶんか気持ちが整理されていた。やはり彼女はすごい。憧れの人だ。
「わたしの気持ちわかってくれるのは蘭ちゃんとももだけだよ」
「もも……あなたと仲の良いあの子ね、名前は……」
「藍内ももですか」
先生の脳内信号が道に迷って記憶をたどっているのが見て取れる。彼女が思いだそうとしている親友のフルネームを先回りして答えた。
「そう! 藍内さんに相談してみれば。まだ二学期ははじまったばかり。時間はあります。後悔しない選択を」
先生の言葉に一礼してわたしが立ち上がったとき、何者かが扉をノックする。訪問者は同じ天文部メンバーの鳴瀬さんだった。
「お姉さま、ここにいたのですか」
「鳴瀬さん、ごきげんよう。これ、お願いね」
鳴瀬さんは空地先生を「お姉さま」と呼ぶまでに慕っている。先生が彼女に鍵を渡した。
わたしが黙々とその様子を見学していると、先生の瞳が微笑みかえす。
「このあと行くところがあるから、彼女にカウンセリング・ルームの戸締まりをやってもらおうと思ってたの」
鳴瀬さんは仕事の一部を任されるまでに信頼されているらしい。
(ぐううう……)
お腹が鳴った。お昼のカロリーが少なかったのである。尊敬している女性の前で大恥をかいたわたしは赤面して退室した。
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それもそのはず、その女性はスクール・カウンセラーの空地蘭さん。
小学生のころ、不登校児童だったわたしを救ってくれたひかり先生と同じように、この学園にもスクール・カウンセラーが在籍していた。
彼女は社会福祉制度に詳しく、人格者で情に厚いので生徒たちから慕われている。生徒たちからは蘭ちゃんの愛称で親しまれていた。女子生徒たちからとくに人気があり、天文部の三年生鳴瀬さんなどは「お姉さま」などと呼称している。
彼女は非常勤で、複数の学校を掛け持ちしている。スクール・カウンセラーに多い勤務形態だ。時刻はもう午後四時半。それでもこの時期は蒸し暑く不快指数が高めである。
「綾織戸さん、ごきげんよう」
「蘭ちゃん、こんにちは。わたし、あのことまだ悩んでてさ……。話聞いてくれるかな」
空地先生はわたしとも仲良し。三○代半ばで、つやのある黒髪が美しかった。彼女の声色がわずかに変調する。
「進路のことですか?」
「うん。両親には反対されてるんだ。福祉に進むこと」
わたしは視線を落とした。壁のシミが視界に入る。
進路希望として福祉系の学科がある大学を選ぼうとしていたが、両親にはかたくなに反対されていた。いま現在の偏差値では背伸びしないと届かない。
また、憧れのスクール・カウンセラーになるためには大学院で学ぶことが必須であり、学費の負担も多かった。
奨学金制度も存在しているのは知っていたが、わたしの成績ではお話にならない。
三年間モラトリアムに過ごしたつけが回ってきたのだ。自責の念で眉が歪む。
「ここではなんだから、カウンセリング・ルームで話しましょうか」
空地先生の提案で面談室に移動する。彼女はわたしの夢を体現した存在だった。生徒たちに寄り添い、傾聴の姿勢を示し、信頼を勝ち取っている。
それにひきかえわたしは夢の分岐点で道に迷い、光を失いそう。夢と両親からの圧力で板ばさみになっていた。
両親はふつうに短大か大学を卒業して一般企業のオフィス・レディになり、キャリアを築いてから高収入のハイスペック男性と結婚して二○代で子どもをつくる……それがこの国の女性の幸せだと力説する。福祉に進むなら学費は自分で払えとまで言われた。
「クラスのみんなはやりたいことはっきりしてるのにさ、わたしの夢は親にも応援してもらえない」
その心情を吐露すると、涙で袖を濡らしていた。わたしは弱虫である。
彼女は話し終わるまで口を挟まず聞いてくれた。それからわたしに紅茶を勧めてくれる。
「大学院で臨床心理士の資格を取ることだけがスクール・カウンセラーの道じゃないのよ。じつは特定の資格を取ることが必須の職業ではないの。公認心理師や精神科医の資格を持っている人もいる」
「それだって、大学で学ぶことが必須……」
気持ちが静まらず泣きじゃくりながら反論した。涙液で室内の焦点がぐにゃぐにゃに歪んでしまう。
「話を最後まで聞いて。ご両親だって、本気で学費を払わないつもりじゃないと思うわ。綾織戸さんが、本気を示せば態度が変わるかもしれません。それにカウンセラーになることだけが福祉の道じゃないのよ」
落ち着いた声色が彼女の特徴だ。ここまで言い切って、空地先生がわたしの表情をのぞき込む。ぬばたまの髪、黒曜石をくりぬいたかのような瞳、透明感のある白皙の肌。日本人形が生命を宿したと説明されれば信じてしまう。彼女は生粋の日本女性だ。
たしかにわたしはスクール・カウンセラーになれないなら福祉に関わるのは諦めるという「ゼロ百思考」に陥っていたようである。
どろどろした想いを吐きだすことで、いくぶんか気持ちが整理されていた。やはり彼女はすごい。憧れの人だ。
「わたしの気持ちわかってくれるのは蘭ちゃんとももだけだよ」
「もも……あなたと仲の良いあの子ね、名前は……」
「藍内ももですか」
先生の脳内信号が道に迷って記憶をたどっているのが見て取れる。彼女が思いだそうとしている親友のフルネームを先回りして答えた。
「そう! 藍内さんに相談してみれば。まだ二学期ははじまったばかり。時間はあります。後悔しない選択を」
先生の言葉に一礼してわたしが立ち上がったとき、何者かが扉をノックする。訪問者は同じ天文部メンバーの鳴瀬さんだった。
「お姉さま、ここにいたのですか」
「鳴瀬さん、ごきげんよう。これ、お願いね」
鳴瀬さんは空地先生を「お姉さま」と呼ぶまでに慕っている。先生が彼女に鍵を渡した。
わたしが黙々とその様子を見学していると、先生の瞳が微笑みかえす。
「このあと行くところがあるから、彼女にカウンセリング・ルームの戸締まりをやってもらおうと思ってたの」
鳴瀬さんは仕事の一部を任されるまでに信頼されているらしい。
(ぐううう……)
お腹が鳴った。お昼のカロリーが少なかったのである。尊敬している女性の前で大恥をかいたわたしは赤面して退室した。
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