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醜いヘーパ
しおりを挟む老人がただ釣りをするだけの本を読みました。一人海釣りに出て、巨大な魚と数日間の格闘を繰り広げる物語。単純な物語には強烈な力があります。平たく言って感動したワタシは、釣りをしたいと思いました。
ところが宇宙歴551年のニッポンには、というかこの時代の全世界では、娯楽による釣りは禁止されています。許されているのはAIによる漁業、そしてフィッシングスポーツ協会に属するプロ選手のみ。なんでも禁止禁止の世の中ですよ。どうしてこんな世の中になったんでしょうと考えてみれば、結局、誰かが楽をしたいだけなのだと思いました。
誰かが怪我をしたり、何かを壊したり、馬鹿な発言をしたり、その責任を負いたくないがために、禁止にしてしまう。禁止とは究極の現状維持です。何もしなければ、失敗をしない。しかし歴史の偉人たちは口を揃えて失敗をしろと言っています。身を裂くような失敗を。ネタバレになるけれど、かの老人も、結局は魚を逃すのです。何日もかけて戦って得た獲物が、あるものに奪われてしまう。しかしそれを笑う者はいないハズでしょう。
今や釣り道具を得ることでさえ免許が要ります。釣り針が凶器になる、という理由です。それを決めた役人の口に釣り針を引っ掛けてやりたい。
ともかく、ワタシが釣りをする方法は二つしかありません。
一、漁業を営む会社に入って、ロボットとAIによる遠隔操作釣りをする。
二、フィッシングのプロになる。
絶望でした。
ロボットを介した釣りなんて釣りじゃないし、ワタシの遺伝子チェックによる運動機能の才能は、一〇点中僅か二点。
ああ、自由に釣りが出来る時代に生まれたかったナア。魚を待つ時間を、釣り針に魚が食い付く感覚を、魚を釣り上げた達成感を、知りたかった。
禁止で育てられる文化というのは、宗教的な戒め以外になかったハズでしょう。それは各宗教毎に取り決めた、ある種の高潔を目指す、言わば前向きの禁止だったのです。何でもかんでも禁止にすればいいというのは、思考停止も甚だしい。考えることさえ放棄して、楽がしたいのですか。
このことを、数日前に新しく出来たSNSコミュニティー「木漏れ日を浴びよう会」、略して木日会のメンバーに愚痴を言うと、
「でも釣りって汚れるんでしょ?」
「そうだね。海水で汚れたら病気になっちゃうじゃないですか」
とか返ってきました。釣りで病気になるなら、人類はとっくの昔に絶滅してるじゃないですかと思った。フライグラスに解説して貰いなさいよとも思った。けどそれを音声入力マイク(添削機能付き)に向かって言うことはしませんでした。
人の意見を変えることが出来るのは、洗脳によってか、本人が変わりたいと思っている時か、変わることを受け入れる度量のある人物であるかのいずれかなのです。反論めいたものが開口一番に飛び出したのなら、議論は徒労に終わることが多い。しかも電子上のやり取りなら尚更。衆人環視の中で行われる討論であれば、「おや、周りの反応が悪いぞ。これは自分が間違ってたのかしら。ああ恥ずかしい恥ずかしい。ごめんあそばせ」と反省してくれるでしょう。けどSNS上での議論は、常に一体一に感じるもので、常に自分は多数派であるという誤解から抜け出せないのです。困ったもんだよネエ。
ワタシは音声入力マイクのスイッチを入れて、あ~そうですね、やっぱり、ほら、釣りって危ないですよね~、と当たり障りのないことを言いました。ソフトが添削してくれて、「そうですね。やっぱり釣りって危ないですよね」と送信されました。
すると木日会の創設者の方からメッセージが入ったのですが、それを読む前に、ワタシの脳裏に天啓が降りてきました。実際には、脳内を複雑に駆け回る数千億の神経細胞の働きが閃きを与えたのです。
ペットがあるじゃない!
ドーム外に釣りに行くのは違法。プロ選手でもない人間が、フィッシング競技場に要って生け簀に変われている魚を釣るのも違法。
けどこのドームではペットを禁止されてはいない。魚をペットとして自宅に買う。釣り道具は自作してしまえばいい。それで釣ってしまえばいいじゃないですか。
ペットの虐待防止法には抵触するけど、どうせバレやしない。それに今もドーム外ではAIによる魚釣りが行われているんです。食料にするために。海にいる魚を我が家に一旦運んで、そこで釣って、料理してしまえば、何の倫理に触れるというのですか。過程がちょっと変わっただけで法に触れるなんて、おかしいじゃない。
やってやる、やってやるぞお!
ワタシは奇妙なスリルを感じながら、下調べをして、金魚を飼うことにしました。
フライグラスによれば、江戸期には金魚料理なるものがあったらしい。
DIYで木の釣り竿を作り、針金を曲げて叩いて釣り針を拵え、手芸用のテグスでそれらを繋ぎ合わせる。水槽を買い、あとは金魚を入れるだけ。ここまで思いの外スムーズに進みました。この段階で法に触れることは何も起していないのだから、当然でしょうが。
あとはペットという名の生け贄を飼うだけ。
ワタシはドーム内で最大のペットショップへ赴きました。水生生物を扱ったスペースに向かって、金魚のコーナーをうろつく。どうせ買ってすぐ釣ってかき揚げにして食うのだから、出来るだけ質の悪い金魚を選ぼう。売れ残っているヤツの方が罪悪感もないかな。
一通り金魚コーナーを回って、それを見付けました。隅の隅に追いやられた金魚。尻尾の端がちょっと切れていて、体もでっぷりデカイ。売れないまま、このペットショップで過ごす日々だったでしょう。この場所で充分に生きたに違いない。こいつ以外にないなと思って、レジに行き、電子パッドに指紋を近付けて購入手続きを終えました。店内を歩いていた人型AIが注文を受信して、ワタシの元にあの金魚を持ってきてくれました。
ようし、これで釣れるぞお、と思って家の水槽に入れた時、ふと気になることが思い浮かびました。
(買ってすぐ食べちゃったら、何かしらでバレたりするかな)
例えば木日会で出来た友達が家に来て、空の水槽を見て、「あれれ~、この水槽お魚が入ってないぞぉ~」などと抜かし、SNS上でしたやり取りからペット虐待を推理する可能性があります。空になった水槽をゴミに出すのは、次の水曜日まで待たなくてはなりません。今は木曜日。ならばせめて水曜日まで待って、釣りを決行した後、即座にゴミを出しに行かなければならないんです。
危ない危ない。法律スレスレのことをやるのです。万全を期さなければ。
となれば、次の水曜までこの金魚を生かしておく必要があるでしょう。餌を買ってないから、店に戻って餌を買おう。あ、餌を買っておけば、虐待の疑念を更に晴らせるじゃないですか。うひょう。
買ってきた餌を水槽に入れると、売れ残り金魚はバクバク食べ始めました。食欲は旺盛なよう。あと六日の命とも知らずに。
「よし、残りの六日、お前にヘーパという名前をやりましょう」
由来はヘーパイストス。ギリシャ神話、ゼウスとへーラーの第一子。奇形児であったがために、海に投げ落とされた悲劇の子。
それから六日間、ヘーパと過ごすことになりました。ヘーパはいつでも腹を空かせています。餌を持って水槽に近づくと、こちらに寄ってきて、ワタシの顔を覗いてくる。釣られるとも知らずになあ、とワタシは悪い笑みをしました。
三日目には、ワタシが近づくだけで水面に顔を見せるようになりました。この金魚は、魚にしては主人を理解するだけの脳があるらしい。
「ヘーパ、釣られるまえにちょっとでも大きくなれよ」
彼は餌をバクバク食べる。ワタシが辛い日でも、イヤな思いをした日でも、憂鬱な日でも、彼は変わらない態度で餌を食べ続けました。
「ヘーパ、飯だぞ」
呼び掛けたら水を跳ねて鳴らすようになりました。素直なヤツです。
そして六日が経って、ワタシは浴槽に水を貯めてヘーパを移しました。自作の釣り竿を手に、浴槽の前に立って、針金の釣り針に餌を付けて……、
「……これが釣り、釣りなのかな、ヘーパ」
ワタシがしたかった釣りは、こんなことだろうか。
ワタシは浴槽の横で、今一度あの本を読みました。ヘーパに餌をやりながら。
老人は、小舟の上で大海原に揺られながら、魚を待ち続ける。魚を釣るということが、魚を釣れる人間であるということが、彼にとって必要なことだったからです。釣りをする中で、自然というものと向き合う中で、彼は高潔なものへ近づいていく。
ワタシは、どこへ近づいているのでしょう。
ヘーパが水面から顔見せて、餌をねだって、ワタシは深い溜め息を吐きました。
三年の間、醜いヘーパは生きました。
最後には水中で横転してしまう病にかかって死にました。
規約に則ってペットを火葬した後に、ワタシは空になった水槽に自作の釣り竿の糸を垂らしました。
静かに、とても静かに時が過ぎていって、やっと三年分の思い出が釣れました。
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