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序章 魔法の国の滅亡
名の盟約
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手の甲に擦り寄せられる頬を心地よく感じる。
僕はアルが導くままに細い通りを歩いていた。噴水広場を離れれば人──死体はない、店先に置かれた果物を手に取ってアルに話しかける。
「僕の他に生きてる人って……いないの?」
『貴方が目を覚ます前に見回ってみたが一人も見ていないな』
店先のベンチに腰掛けると、アルは僕の足の間に入り込み右の太腿に顎を乗せた。
『リーダー格を討てばあのような集団は散り散りに逃げる。だが、ご馳走を置いて帰る気は無かったようでな、連れて行っていた。何匹かはこちらに向かってきたので返り討ちにしたがな』
「……連れて行かれる人を、助けなかったの?」
質問をしてすぐに後悔した。自分を助けてもらっておいてそんな言い方はないだろうと自分を責める。
その上アルとの価値観の違いに苦しむ事になった。
『何故私がそんな真似をしなければならない』
「なぜって……そんなの」
『私は人に何の思い入れもない、貴方は別としてな』
「僕が魔物使いじゃなかったら……?」
『私はあの時空を散歩していた。この国が襲われているのを眺めていただけだ。魔物の狂暴化の手掛かりを探してな。貴方の声が聞こえたのは貴方が魔物使いであるが故、でなければ存在にも気が付かなかっただろう』
淡々と答えるアルに空恐ろしさを感じる。だが当然の事とも思えた、魔物なのだから。
「……君は、人を食べるの?」
余計な質問が口をついてでた。
『好んでは喰わん』
「食べるんだ」
『捧げられたからその分は喰った、その分の仕事もした』
アルは僕の顔を見てすぐに目を逸らした。僕は今どんな顔をしていたのだろう。
「捧げられる……の?」
『昔の話だ』
そう言ってアルはそっぽを向く。
これ以上は聞くな、そう言われた気がした。
僕達はしばらく無言の時を過ごした。
沈黙に耐えかねた僕はアルに話しかけると、背けられたままの目に反して耳だけはピクピクと動いてこちらに向けられた。
その仕草に僕は安堵する。
アルが話しかけられるのを待っていた。
アルに嫌われてはいない。
アルも僕と同じに気まずく思っている。
「これから……僕はどうすればいいのかな」
アルが半分程こちらを振り向く。
「この国はもう、ダメなんだよね」
自然と涙が零れる。それを視界の端に捉えたアルは焦ったように真っ直ぐに向き合う。
「どうしよう……僕、どうすればいいの?」
とうとう決壊した。
溢れてくる涙を止められずに僕は情けない泣き声を上げる。焦ったアルは首を伸ばして僕の顔に頬を擦り寄せる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん……なさい。嫌わないで、お願い……僕を見捨てないで」
アルを抱き締める。
声が震えて、上手く息が吸えなくなる。さっきまでは上手く話せていたのにまたこれだ。
いつもこうだ。僕はいつまで経っても何も出来ない、話すことも出来ないままに相手に嫌われて、終わり。
『………不安、か』
アルは黒蛇の尾で僕の顔を無理矢理上げさせて、目を強制的に合わせた。
『私が何を言っても貴方の不安は解消されないのだろうな』
真っ直ぐな黒い瞳が僕を射る。アルはしばらくそのまま動かずにいたが、僕の腕をすり抜けて店の中に消えた。
僕はただ呆然として座っていた。アルの姿が完全に見えなくなってから動けるようになった。
「や、やだ! 行かないで……待ってよ!」
棚にぶつかって綺麗に並べられていた果物が床に散乱する。それを踏んで転んで、僕はまた泣いた。転ん痛みからではなく、アルに二度と会えない気がしたから涙が溢れた。
でもその予感は外れてくれた。
『………大丈夫か?』
「アル……アル、よかった。居たんだ。ねぇお願い、僕を嫌わないで、お願い。ひとりにしないで」
砕けた果物の汁で滑りながら、這いずるようにアルの首にしがみついた。こんな鬱陶しい真似していたら嫌われても仕方ないのに、それをすぐに考えられないからダメだと気付けずに何度も繰り返している。
『ああ、全て貴方の望みのままに』
尾の黒蛇は果物用のナイフを咥えている。そしてそれを僕の手に握らせた。
『さあ、名を刻むといい』
「………え、名を……って」
小さなナイフは見た目に反して重い。
アルの前で正座をするように座り込んだままの僕はただ呆然とアルの眼を見つめ返した。
『知らないのか? 名の盟約だ。この国では有名な筈だが』
知っているに決まっている、この魔法の国で最も使われている契約の方法だ。だがアレは魔法道具なんかに使うものだ、それを生き物に使うなんて絶対にいけないことだ。
「知ってるよ! 知ってる……けど」
『魔性のモノとの契約には血が伴う。これも知っているだろう? 気にする必要は無い。さあ、早く。これで貴方の不安は消え去るだろう』
名の盟約、対象に自分の名を彫り込むことで服従を誓わせるもの。
痛みや自我のない物に使うものだ。生物に対しては禁じられている。今やそんな法律は機能していないけれど。
盗まれて使われないように契約違反があれば即座に対象物が壊れる呪いがこの契約の一番の特徴。
妻に使った男の話を聞いたことがある。妻は不貞を働き、体が焼け崩れて死にかけた。王宮魔法使いにより解除されたが、妻は一生寝たきりになったという。男の方は厳罰に処された……だったか? とにかくそんな真似をするわけにはいかない。
「アル……ごめんなさい、僕は、ただ、あの、そんなつもりじゃなくて」
説明しなければ、そんな大層なものではないと。ただ少し不安になっただけだと。僕を助けて慰めてくれたアルにナイフを突き立てるなんて出来ないと。
『……早く、名を刻め』
頬を撫でようと差し出した手の上に尾が乗せられた。黒蛇がこちらを見つめ、それからゆっくりと目を閉じた。
この艶やかな鱗に刃を突き立てろと、この素晴らしい尾に僕の名を刻めと、そう言っている。
アルはその場に座り、蛇と同じに目を閉じた。
「……アル、アル、違うんだよ。僕は、こんなの」
『やれ。そうしなければ私の気が済まん。私の忠誠心を貴方に示したい』
「………っ、ごめん、ごめんね。アル……ごめん」
ナイフを尾に突き立てる。真っ赤な血が流れて、ズボンが染まっていく。そのままナイフを滑らせて、硬い鱗を裂いていく。嫌な感触だ。
「ごめん……痛いよね? 痛いよね……ごめんね、もうちょっとで終わるからっ……ごめん、ごめんっ……!」
感触や行為そのものよりも嫌なのは、この行為を「良い」と思っている僕だ。これでもうひとりになる心配はない、そんな事を思う僕がなにより嫌いだ。恩人を傷付けて悦ぶなんて人間の屑だ。
Herrschaft
僕の名前が……美しい鱗に彫られた醜い文字が怪しく光る。その光が収まると傷は焼かれたようになり血は止まった。その痕は更に醜く見えて、僕は目を逸らす。
『ふむ、中々良いものだな。ヘルシャフト……でいいのか? 良い名だ、貴方によく似合っている』
アルは上機嫌に傷を眺める。嬉しそうに尾を振り、器用にナイフを取り上げると、僕の手についた血を綺麗に舐めとった。
「アル……ごめん、なさい。痛い? 痛いよね……ごめん」
『いいや、謝る必要はない。私が望んだ事だ。無理を言ったな、済まない』
「アル……ありがとう、これで……良かったの? せめてもう少し綺麗に彫れれば良かったんだけど。君の尻尾、こんなに綺麗なのに……僕の、で……こんな」
『いいや……美しい文字だ、貴方の必死さが表れている。見た目だけ綺麗なものになんて価値は無い。特に契約というものは醜い方が本心だと分かるからな、少し乱れているくらいが丁度良いのさ』
尾に彫られた僕の名前を愛おしそうに僕に見せる。
アルが美しいと褒めるその文字は、やはり僕には見た目は勿論込められた想いも醜く見えて仕方がなかった。
僕はアルが導くままに細い通りを歩いていた。噴水広場を離れれば人──死体はない、店先に置かれた果物を手に取ってアルに話しかける。
「僕の他に生きてる人って……いないの?」
『貴方が目を覚ます前に見回ってみたが一人も見ていないな』
店先のベンチに腰掛けると、アルは僕の足の間に入り込み右の太腿に顎を乗せた。
『リーダー格を討てばあのような集団は散り散りに逃げる。だが、ご馳走を置いて帰る気は無かったようでな、連れて行っていた。何匹かはこちらに向かってきたので返り討ちにしたがな』
「……連れて行かれる人を、助けなかったの?」
質問をしてすぐに後悔した。自分を助けてもらっておいてそんな言い方はないだろうと自分を責める。
その上アルとの価値観の違いに苦しむ事になった。
『何故私がそんな真似をしなければならない』
「なぜって……そんなの」
『私は人に何の思い入れもない、貴方は別としてな』
「僕が魔物使いじゃなかったら……?」
『私はあの時空を散歩していた。この国が襲われているのを眺めていただけだ。魔物の狂暴化の手掛かりを探してな。貴方の声が聞こえたのは貴方が魔物使いであるが故、でなければ存在にも気が付かなかっただろう』
淡々と答えるアルに空恐ろしさを感じる。だが当然の事とも思えた、魔物なのだから。
「……君は、人を食べるの?」
余計な質問が口をついてでた。
『好んでは喰わん』
「食べるんだ」
『捧げられたからその分は喰った、その分の仕事もした』
アルは僕の顔を見てすぐに目を逸らした。僕は今どんな顔をしていたのだろう。
「捧げられる……の?」
『昔の話だ』
そう言ってアルはそっぽを向く。
これ以上は聞くな、そう言われた気がした。
僕達はしばらく無言の時を過ごした。
沈黙に耐えかねた僕はアルに話しかけると、背けられたままの目に反して耳だけはピクピクと動いてこちらに向けられた。
その仕草に僕は安堵する。
アルが話しかけられるのを待っていた。
アルに嫌われてはいない。
アルも僕と同じに気まずく思っている。
「これから……僕はどうすればいいのかな」
アルが半分程こちらを振り向く。
「この国はもう、ダメなんだよね」
自然と涙が零れる。それを視界の端に捉えたアルは焦ったように真っ直ぐに向き合う。
「どうしよう……僕、どうすればいいの?」
とうとう決壊した。
溢れてくる涙を止められずに僕は情けない泣き声を上げる。焦ったアルは首を伸ばして僕の顔に頬を擦り寄せる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん……なさい。嫌わないで、お願い……僕を見捨てないで」
アルを抱き締める。
声が震えて、上手く息が吸えなくなる。さっきまでは上手く話せていたのにまたこれだ。
いつもこうだ。僕はいつまで経っても何も出来ない、話すことも出来ないままに相手に嫌われて、終わり。
『………不安、か』
アルは黒蛇の尾で僕の顔を無理矢理上げさせて、目を強制的に合わせた。
『私が何を言っても貴方の不安は解消されないのだろうな』
真っ直ぐな黒い瞳が僕を射る。アルはしばらくそのまま動かずにいたが、僕の腕をすり抜けて店の中に消えた。
僕はただ呆然として座っていた。アルの姿が完全に見えなくなってから動けるようになった。
「や、やだ! 行かないで……待ってよ!」
棚にぶつかって綺麗に並べられていた果物が床に散乱する。それを踏んで転んで、僕はまた泣いた。転ん痛みからではなく、アルに二度と会えない気がしたから涙が溢れた。
でもその予感は外れてくれた。
『………大丈夫か?』
「アル……アル、よかった。居たんだ。ねぇお願い、僕を嫌わないで、お願い。ひとりにしないで」
砕けた果物の汁で滑りながら、這いずるようにアルの首にしがみついた。こんな鬱陶しい真似していたら嫌われても仕方ないのに、それをすぐに考えられないからダメだと気付けずに何度も繰り返している。
『ああ、全て貴方の望みのままに』
尾の黒蛇は果物用のナイフを咥えている。そしてそれを僕の手に握らせた。
『さあ、名を刻むといい』
「………え、名を……って」
小さなナイフは見た目に反して重い。
アルの前で正座をするように座り込んだままの僕はただ呆然とアルの眼を見つめ返した。
『知らないのか? 名の盟約だ。この国では有名な筈だが』
知っているに決まっている、この魔法の国で最も使われている契約の方法だ。だがアレは魔法道具なんかに使うものだ、それを生き物に使うなんて絶対にいけないことだ。
「知ってるよ! 知ってる……けど」
『魔性のモノとの契約には血が伴う。これも知っているだろう? 気にする必要は無い。さあ、早く。これで貴方の不安は消え去るだろう』
名の盟約、対象に自分の名を彫り込むことで服従を誓わせるもの。
痛みや自我のない物に使うものだ。生物に対しては禁じられている。今やそんな法律は機能していないけれど。
盗まれて使われないように契約違反があれば即座に対象物が壊れる呪いがこの契約の一番の特徴。
妻に使った男の話を聞いたことがある。妻は不貞を働き、体が焼け崩れて死にかけた。王宮魔法使いにより解除されたが、妻は一生寝たきりになったという。男の方は厳罰に処された……だったか? とにかくそんな真似をするわけにはいかない。
「アル……ごめんなさい、僕は、ただ、あの、そんなつもりじゃなくて」
説明しなければ、そんな大層なものではないと。ただ少し不安になっただけだと。僕を助けて慰めてくれたアルにナイフを突き立てるなんて出来ないと。
『……早く、名を刻め』
頬を撫でようと差し出した手の上に尾が乗せられた。黒蛇がこちらを見つめ、それからゆっくりと目を閉じた。
この艶やかな鱗に刃を突き立てろと、この素晴らしい尾に僕の名を刻めと、そう言っている。
アルはその場に座り、蛇と同じに目を閉じた。
「……アル、アル、違うんだよ。僕は、こんなの」
『やれ。そうしなければ私の気が済まん。私の忠誠心を貴方に示したい』
「………っ、ごめん、ごめんね。アル……ごめん」
ナイフを尾に突き立てる。真っ赤な血が流れて、ズボンが染まっていく。そのままナイフを滑らせて、硬い鱗を裂いていく。嫌な感触だ。
「ごめん……痛いよね? 痛いよね……ごめんね、もうちょっとで終わるからっ……ごめん、ごめんっ……!」
感触や行為そのものよりも嫌なのは、この行為を「良い」と思っている僕だ。これでもうひとりになる心配はない、そんな事を思う僕がなにより嫌いだ。恩人を傷付けて悦ぶなんて人間の屑だ。
Herrschaft
僕の名前が……美しい鱗に彫られた醜い文字が怪しく光る。その光が収まると傷は焼かれたようになり血は止まった。その痕は更に醜く見えて、僕は目を逸らす。
『ふむ、中々良いものだな。ヘルシャフト……でいいのか? 良い名だ、貴方によく似合っている』
アルは上機嫌に傷を眺める。嬉しそうに尾を振り、器用にナイフを取り上げると、僕の手についた血を綺麗に舐めとった。
「アル……ごめん、なさい。痛い? 痛いよね……ごめん」
『いいや、謝る必要はない。私が望んだ事だ。無理を言ったな、済まない』
「アル……ありがとう、これで……良かったの? せめてもう少し綺麗に彫れれば良かったんだけど。君の尻尾、こんなに綺麗なのに……僕の、で……こんな」
『いいや……美しい文字だ、貴方の必死さが表れている。見た目だけ綺麗なものになんて価値は無い。特に契約というものは醜い方が本心だと分かるからな、少し乱れているくらいが丁度良いのさ』
尾に彫られた僕の名前を愛おしそうに僕に見せる。
アルが美しいと褒めるその文字は、やはり僕には見た目は勿論込められた想いも醜く見えて仕方がなかった。
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