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第四章 温泉の国の海底には
各々の旅立ち
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真っ暗な会議室、砂嵐のモニター。そんな不健康な部屋で私は目を覚ます。
部屋の中にはいつも通りにはしゃぐ『灰』と、本を眺めているだけの『黒』が居る。
『ねぇ、今どこにいるの?』
「飛行機だよ! 窓からの景色が全然変わらなかったから退屈して寝ちゃった!」
『国を出たの?』
「なんかねー、色々あってさ、『黒』が出るハメになっちゃったみたいなの」
『黒』が表に出た? なんて珍しい、何年ぶりだろうか。『黒』が表に出るのは私達二人が共に行動不能に陥ってしまった時だけだ。
私は……確か呪いの影響を受けすぎるからと引っ込められた。なら『灰』は?
『貴女はなんで出られなくなったの?』
「……ん? 『黒』に交代しろって言われたから交代しただけだよ?」
『そ、そう』
ちら、と『黒』の方を見る。目が合った、いつもなら本から目を離したりしないくせに。
そして珍しくも『黒』から話しかけてきた。
『面白いことになると思ったんだけどね、嫌いな昔馴染みに会ってしまったよ。これなら身を捨ててでも顔無し君に着いていけば良かったかな? そっちの方が楽しいかもね。狂気と混乱は退屈を寄せ付けないから』
『どういう意味よ、それ』
『黒』は少し俯き、顔を前髪で隠す。再び顔を上げると、モニターの光を正面から受けているというのに、彼女の顔は見えなくなった。黒く塗り潰されたみたいに、顔が無いみたいに。
『父上様は退屈してらっしゃる』
『……私達に父親なんているの?』
『キミ達のじゃない、ボクの父上様さ。何も見えない、何も考えられない、ボクの父上様!』
『…………貴方、誰なのよ』
『言っただろう? 混沌だよ。気をつけなよ? ボクはいつにでもどこにでもいる! 愉しむ為に愉しませる為に、ねぇ? あっはは、はは、はははははっ!』
気味が悪い、気持ちが悪い、 恐ろしい。
私は彼の押し付けるような狂気的な雰囲気に、彼に尋ねたことを後悔した。
『どうしてここに居るの! 貴方は、私達じゃない!』
『あはっ、そうさぁ? けれどね? もうすぐボクはキミにもになる。顔が無いからこそあらゆる顔を持つのさ! ふふ、っはははは! あははははっ!』
『……っ! 気持ち悪いのよ!』
下卑た嘲笑が会議室に響き渡る。立ち上がって顔を上に向けて、そうして笑い声は止む。
バタンと真後ろに倒れて、また起き上がる。モニターの光に照らされた顔は、何の感情も読み取らせない『黒』の顔だった。
『黒』に話しかけても返事はない、ヘッドホンを着けだした。話しかけるなという事なのだろう。
モニターの画面が切り替わり、飛行機が映る。着陸の場面だ。
それを見た『灰』は会議室の扉を開く。まるでこの部屋から逃げるように。
眩い光が全てを埋めつくし、私の意識は眠りにつく。
月の光を封じ込めた淡い光を放つ月永石の手枷。
美しいそれを月の光にかざす。
開けた窓から入る月光を求めて月永兎が寝惚けながら足下に擦り寄る。鳴神はまだ眠っているようだ、まだ人間だということだろう。
月の光を受けていると、ふわふわと夢見心地になる。夢を見るなんて天使らしくもないことだが、ぼうっと昔の光景が瞼の裏に映る。
その頃から私は悪魔との力関係を正常に保つという仕事をしていた。だがその頃は天も地も穏やかで、暇を持て余していた。
そしてある時、ある天使の面倒を見るように言われ、そうした。
黒と白と灰の混じった柔らかな髪、見透かすような黒と赤の違った瞳。美しいその子はずっとつまらなそうにしていた。
私はきっと、あの時既に心を奪われていたのだ。退廃的な美しさは独占欲を刺激して、私を歪ませていった。
『ほら、ウサギだよ。可愛いだろう』
飽きさせないために遊ぶ、それは楽な仕事ではない。私の使いでもある兎を初めて見せた時は喜んでくれた。可愛らしく微笑んで、私に礼を言った。
『日食を見に行こうか、金環食になるみたいだよ』
様々な美しい景色を見せれば目を輝かせた。世界中を渡り歩いて、空も海も二人で眺めた。可愛らしい小魔獣を拾って帰って二人で育てた。
あの子は私に「大好き」とも言ってくれた。
けれど、そんな時間は永くは続かない。私が見せられる全てのものはもう見せた。つまらなそうに何百回目かの日食を眺めながら、美しいその子は言う。
『ねぇ、最近つまんないよ、何かないの?』
何千匹目かの私の使い達に餌をやりながら美しいその子は言う。
『すっごく退屈だよ。何かないの?』
焦りを感じていた。もう何もないけれど、何かを見せなくてはならない。あの子を退屈させてはならない、存在ごと消えてしまう。
あの子を失いたくない。あの子は私の全てだ。
あの気味の悪い邪神に奪わせるわけにはいかない。
ある時、悪魔討伐の仕事が入った。下級の名前もない悪魔だ、大して困難でもない仕事だ。
あの子を留守番させて、早く終わらせて帰るつもりだった。帰ったら何を見せようか、何ならあの子の退屈を癒せるだろうか。それだけを考えていた。
『ね、連れてってよ、面白そう』
久しぶりの笑顔があった。けれど私は──
『駄目だよ、危ないから此処で待っていて』
あの子を無理矢理部屋に閉じ込めた。
危険な訳が無い、あの子に傷をつけるのにはあの子自身が傷つく事を望む必要がある。あの子が痛みを望まないのなら悪魔がいくらあの子に攻撃したってすり抜けるだけだ。
それでも私はあの子を連れていかなかった。それはきっと独占欲からだ、低俗な悪魔に見せたくない。野蛮な下界になんて連れて行きたくない。
美しいあの子は私だけのものだ。
その後も何回も何十回も何百回もそんな事があった。だんだんと世界に歪みが生じているなんて話もあった。
世界と同じに……いや、世界よりも早く私は歪みきってしまった。
何千年もの月の光を溜め込んだ月永石で、絶対に壊れない手枷を作った。あの子を閉じ込める為に。
『オファニエル、外して、出してよ、ここはつまらないんだよ』
『駄目だよ、駄目……外は危ない』
危険なんて何もないのに。扉越しに聞こえてくる、あの子が私を呼んでいる。
それがたまらなく嬉しい、あの子は今私のことだけを考えている。
あの子はもう私から離れられないのだ。
『つまらない。退屈……もういい』
何十年かしてあの子の懇願の声から感情が抜け落ちた。私は急いで扉を開く。
月永石の手枷はあの子の手をすり抜け、落ちて、軽い音を立てた。
あの子が翼を広げる。駄目だ、行かないで。
『ばいばい。僕……君のこと大っ嫌いだよ』
『待って! あ、あぁ……いかないで、お願い! 嫌だ! ────!』
あの子の名を叫んで、掴もうとした手は、抱き締めようとした腕は、虚しく空を切る。
つまらない私はあの子に触れる事すらも出来なくなっていた。何十年も何百年も探し回った、けれど見つからない。
退屈で死んでしまったんじゃないか、絶望して消えてしまったんじゃないか。
そう考えていたから、洞窟で目の前に現れて、それどころか言葉を交わしてくれて何よりも嬉しかった。
もう、ずっと遠くに行ってしまったんだろうと空を見上げる。いつの間にか月は沈み、太陽が輝いていた。私の時間はもう終わりだ。
「おふぁようございます~、天使様~」
気の抜けた鳴神の声が聞こえる。
『ああ、おはよう』
月の出ていない人界の空気は酷く重い、そろそろ帰るとしよう。鳴神とウサギ達に別れを告げる、次の満月の夜までと。
温泉の国最後の食事を終える。
ウサギ達は眠そうにニンジンを齧っており、アルに殴り掛かる事はなかった。前に座った十六夜はまだ目が開き切っていない。ふと、横を見るが、灰色の少女も真っ白な女もいない。
『ヘル、最後に温泉に入りたい』
「そんな時間あるかな」
アルは僕の腕に頭を擦り寄せて、温泉に入りたいとねだる。本当に風呂好きだ。
「アルは乾くの時間かかるしなぁ、飛行機に乗るまでに乾くならいいけど」
『乾く。乾かなければ引き抜く』
「何を……? 絶対やめてよね」
それには答えずに骨付き肉を丸呑みにして広間から出ていった。アルが温泉に行っている間に荷物をまとめてしまわなければ。
部屋に戻ると、三羽の雀は仲良く歌っていた。彼らも呪いの影響を受けていたのだろうか。
可愛らしいその雀に思わず触れてしまいそうになる手を押さえて、荷物をまとめていく。
空港の手荷物検査で引っかかるだろうな、とため息をついて黒く禍々しい本を底に突っ込む。来た時には退魔の札を貼られていたっけ。
アルもまた長々と質問攻めにあうんだろうな、なんて考えてカバンに荷物を押し込めながら、アルの帰りを待った。
部屋の中にはいつも通りにはしゃぐ『灰』と、本を眺めているだけの『黒』が居る。
『ねぇ、今どこにいるの?』
「飛行機だよ! 窓からの景色が全然変わらなかったから退屈して寝ちゃった!」
『国を出たの?』
「なんかねー、色々あってさ、『黒』が出るハメになっちゃったみたいなの」
『黒』が表に出た? なんて珍しい、何年ぶりだろうか。『黒』が表に出るのは私達二人が共に行動不能に陥ってしまった時だけだ。
私は……確か呪いの影響を受けすぎるからと引っ込められた。なら『灰』は?
『貴女はなんで出られなくなったの?』
「……ん? 『黒』に交代しろって言われたから交代しただけだよ?」
『そ、そう』
ちら、と『黒』の方を見る。目が合った、いつもなら本から目を離したりしないくせに。
そして珍しくも『黒』から話しかけてきた。
『面白いことになると思ったんだけどね、嫌いな昔馴染みに会ってしまったよ。これなら身を捨ててでも顔無し君に着いていけば良かったかな? そっちの方が楽しいかもね。狂気と混乱は退屈を寄せ付けないから』
『どういう意味よ、それ』
『黒』は少し俯き、顔を前髪で隠す。再び顔を上げると、モニターの光を正面から受けているというのに、彼女の顔は見えなくなった。黒く塗り潰されたみたいに、顔が無いみたいに。
『父上様は退屈してらっしゃる』
『……私達に父親なんているの?』
『キミ達のじゃない、ボクの父上様さ。何も見えない、何も考えられない、ボクの父上様!』
『…………貴方、誰なのよ』
『言っただろう? 混沌だよ。気をつけなよ? ボクはいつにでもどこにでもいる! 愉しむ為に愉しませる為に、ねぇ? あっはは、はは、はははははっ!』
気味が悪い、気持ちが悪い、 恐ろしい。
私は彼の押し付けるような狂気的な雰囲気に、彼に尋ねたことを後悔した。
『どうしてここに居るの! 貴方は、私達じゃない!』
『あはっ、そうさぁ? けれどね? もうすぐボクはキミにもになる。顔が無いからこそあらゆる顔を持つのさ! ふふ、っはははは! あははははっ!』
『……っ! 気持ち悪いのよ!』
下卑た嘲笑が会議室に響き渡る。立ち上がって顔を上に向けて、そうして笑い声は止む。
バタンと真後ろに倒れて、また起き上がる。モニターの光に照らされた顔は、何の感情も読み取らせない『黒』の顔だった。
『黒』に話しかけても返事はない、ヘッドホンを着けだした。話しかけるなという事なのだろう。
モニターの画面が切り替わり、飛行機が映る。着陸の場面だ。
それを見た『灰』は会議室の扉を開く。まるでこの部屋から逃げるように。
眩い光が全てを埋めつくし、私の意識は眠りにつく。
月の光を封じ込めた淡い光を放つ月永石の手枷。
美しいそれを月の光にかざす。
開けた窓から入る月光を求めて月永兎が寝惚けながら足下に擦り寄る。鳴神はまだ眠っているようだ、まだ人間だということだろう。
月の光を受けていると、ふわふわと夢見心地になる。夢を見るなんて天使らしくもないことだが、ぼうっと昔の光景が瞼の裏に映る。
その頃から私は悪魔との力関係を正常に保つという仕事をしていた。だがその頃は天も地も穏やかで、暇を持て余していた。
そしてある時、ある天使の面倒を見るように言われ、そうした。
黒と白と灰の混じった柔らかな髪、見透かすような黒と赤の違った瞳。美しいその子はずっとつまらなそうにしていた。
私はきっと、あの時既に心を奪われていたのだ。退廃的な美しさは独占欲を刺激して、私を歪ませていった。
『ほら、ウサギだよ。可愛いだろう』
飽きさせないために遊ぶ、それは楽な仕事ではない。私の使いでもある兎を初めて見せた時は喜んでくれた。可愛らしく微笑んで、私に礼を言った。
『日食を見に行こうか、金環食になるみたいだよ』
様々な美しい景色を見せれば目を輝かせた。世界中を渡り歩いて、空も海も二人で眺めた。可愛らしい小魔獣を拾って帰って二人で育てた。
あの子は私に「大好き」とも言ってくれた。
けれど、そんな時間は永くは続かない。私が見せられる全てのものはもう見せた。つまらなそうに何百回目かの日食を眺めながら、美しいその子は言う。
『ねぇ、最近つまんないよ、何かないの?』
何千匹目かの私の使い達に餌をやりながら美しいその子は言う。
『すっごく退屈だよ。何かないの?』
焦りを感じていた。もう何もないけれど、何かを見せなくてはならない。あの子を退屈させてはならない、存在ごと消えてしまう。
あの子を失いたくない。あの子は私の全てだ。
あの気味の悪い邪神に奪わせるわけにはいかない。
ある時、悪魔討伐の仕事が入った。下級の名前もない悪魔だ、大して困難でもない仕事だ。
あの子を留守番させて、早く終わらせて帰るつもりだった。帰ったら何を見せようか、何ならあの子の退屈を癒せるだろうか。それだけを考えていた。
『ね、連れてってよ、面白そう』
久しぶりの笑顔があった。けれど私は──
『駄目だよ、危ないから此処で待っていて』
あの子を無理矢理部屋に閉じ込めた。
危険な訳が無い、あの子に傷をつけるのにはあの子自身が傷つく事を望む必要がある。あの子が痛みを望まないのなら悪魔がいくらあの子に攻撃したってすり抜けるだけだ。
それでも私はあの子を連れていかなかった。それはきっと独占欲からだ、低俗な悪魔に見せたくない。野蛮な下界になんて連れて行きたくない。
美しいあの子は私だけのものだ。
その後も何回も何十回も何百回もそんな事があった。だんだんと世界に歪みが生じているなんて話もあった。
世界と同じに……いや、世界よりも早く私は歪みきってしまった。
何千年もの月の光を溜め込んだ月永石で、絶対に壊れない手枷を作った。あの子を閉じ込める為に。
『オファニエル、外して、出してよ、ここはつまらないんだよ』
『駄目だよ、駄目……外は危ない』
危険なんて何もないのに。扉越しに聞こえてくる、あの子が私を呼んでいる。
それがたまらなく嬉しい、あの子は今私のことだけを考えている。
あの子はもう私から離れられないのだ。
『つまらない。退屈……もういい』
何十年かしてあの子の懇願の声から感情が抜け落ちた。私は急いで扉を開く。
月永石の手枷はあの子の手をすり抜け、落ちて、軽い音を立てた。
あの子が翼を広げる。駄目だ、行かないで。
『ばいばい。僕……君のこと大っ嫌いだよ』
『待って! あ、あぁ……いかないで、お願い! 嫌だ! ────!』
あの子の名を叫んで、掴もうとした手は、抱き締めようとした腕は、虚しく空を切る。
つまらない私はあの子に触れる事すらも出来なくなっていた。何十年も何百年も探し回った、けれど見つからない。
退屈で死んでしまったんじゃないか、絶望して消えてしまったんじゃないか。
そう考えていたから、洞窟で目の前に現れて、それどころか言葉を交わしてくれて何よりも嬉しかった。
もう、ずっと遠くに行ってしまったんだろうと空を見上げる。いつの間にか月は沈み、太陽が輝いていた。私の時間はもう終わりだ。
「おふぁようございます~、天使様~」
気の抜けた鳴神の声が聞こえる。
『ああ、おはよう』
月の出ていない人界の空気は酷く重い、そろそろ帰るとしよう。鳴神とウサギ達に別れを告げる、次の満月の夜までと。
温泉の国最後の食事を終える。
ウサギ達は眠そうにニンジンを齧っており、アルに殴り掛かる事はなかった。前に座った十六夜はまだ目が開き切っていない。ふと、横を見るが、灰色の少女も真っ白な女もいない。
『ヘル、最後に温泉に入りたい』
「そんな時間あるかな」
アルは僕の腕に頭を擦り寄せて、温泉に入りたいとねだる。本当に風呂好きだ。
「アルは乾くの時間かかるしなぁ、飛行機に乗るまでに乾くならいいけど」
『乾く。乾かなければ引き抜く』
「何を……? 絶対やめてよね」
それには答えずに骨付き肉を丸呑みにして広間から出ていった。アルが温泉に行っている間に荷物をまとめてしまわなければ。
部屋に戻ると、三羽の雀は仲良く歌っていた。彼らも呪いの影響を受けていたのだろうか。
可愛らしいその雀に思わず触れてしまいそうになる手を押さえて、荷物をまとめていく。
空港の手荷物検査で引っかかるだろうな、とため息をついて黒く禍々しい本を底に突っ込む。来た時には退魔の札を貼られていたっけ。
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