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第七章 牢獄の国に封じられし明星

赤く塗り潰される

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凍えるような寒さの中、僕に覆いかぶさった体は温かい。初めて優しさを行動で示してくれた大人の背に手を添える。
ぬる、と生温い液体が触れる。それはどんどんと溢れてくる、僕の手はそれで染まっていく。
少女達の悲鳴が遠くなって、アルが僕に叫んだ言葉も聞こえない。だが、耳元で囁かれた優しい声だけははっきりと聴き取れた。

「怪我、ない?」

「……神父様?」

絞り出せたのは彼の名ですらなかったが、彼は満足そうに笑った。

「良かったぁ」

ずる、と僕を抱き締めていた腕が落ち、体も僕の足元に投げ出された。雪華が駆け寄り、彼を職の名で呼ぶ。アルはそんな僕達の前に仁王立ち、緑色の液体と対峙する。

『スライムだ、面倒な相手だぞ……一切の物理攻撃は通用しない。魔術の類も取り込めば己が力とする。セレナ、貴様は防御に徹しろ、いいな』

「あ、ああ……お前、アイツ倒せるのか?」

『分からん。勝率は低いぞ。魔力が弱いからと馬鹿にしていたが、これなら魔王と名乗るのも……』

セレナは大剣を横に構え、零に縋る僕達を守るように立った。アルは唸り声をあげてゆっくりとスライムに近づく。

「神父様、神父様ぁ! しん……ぷ、さまぁ。やだ、やだぁ。起きて、起きてくださいっ……」

泣きじゃくって零の体を揺する雪華を僕はただ眺めていた。雪華のように泣くことも、声をかけることも出来ない。心も体も凍りついてしまったかのように動かない。

『この、無礼者共がぁぁあァァァ!!』

体の中に沈んだ王冠を溶かしながらスライムが叫ぶ。氷柱が削り取った大理石の欠片を取り込み、先程の斧のように撃ち出した。
セレナの大剣に守られ、僕達には一欠片も当たらなかったが前に出ていたアルはそうはいかない。

「おい!  アル、それ溶けてんじゃねぇのか!?」

『ああ、肉片もまとわりついていたらしい。直ぐに治る。大したことはないが……やはり面倒だな』

じゅ、という音と共にアルの翼が緑色の液体に蝕まれる。

『さて、どうするか……ヘル?  何をしている!  下がれ!』

無意識にスライムの元へ向かう僕を、アルが必死に止める。ズボンの裾を噛み、黒蛇を胴に巻きつけた。

「アル…… や め ろ 」

殆ど意識せずに吐いたその言葉はアルの動きを容易く止めた。僕の行動に困惑している様子のスライムは、壁にかけられていた模造品の剣を取り込む。

『無礼者、貴様は……串刺しの刑に処す!』

「………ね、よ」

アルの叫び声が遠く響く。振り上げられる剣がスローモーションで見えた。
僕はそんなことは気にせずに、呪詛の言葉を命令に変えて吐く。思考などない、本能的な行動だった。

「 死 ね 」

カシャン、と軽い音と共に偽物の剣が床に落ちる。
パァン!  と派手な音と共にスライムの一部が弾け飛ぶ。

『な、何!?  貴様ァ……何をシタァあぁ!』

体を持ち上げて、僕に向かって倒れ込むスライムの体に右手を突き出す。熱湯よりも熱く、僕の手を溶かしていく。
皮膚が剥がれて肉が剥き出しになるのを僕は他人事のように眺めていた。もう数秒でも浸けていたら骨になるんだろうな、なんて間抜けな好奇心はすぐに消える。

「 死 ね 、って言ってるんだよ。早く、早く死ねよ。ほら……早く、死 ね 」

スライムが硬直する。僕の腕を喰うのをやめ、ぶるぶると震え出す。液体から抜け出た僕の腕には皮膚がない、だが痛みは感じない。
それが異常な興奮状態にあるが故など僕は思いつきもしなかった。ただ、痛みなんてあっても邪魔だろうとは思っていた。

数秒後にスライムは弾け飛び、後には流れのなくなった汚い池のような色の水が点々と残った。
飛び散ったそれにはもう思考する事も肉を喰らう事も出来ない。

僕は駆け寄ってくるセレナもアルも無視して、ただ両腕を眺めていた。もう、自分のものか神父のものかも分からなくなってしまった。
何が?  この、腕を染めた赤が。
この赤は何?  なんだろう、分かりたくない。
何故赤いの?  何故だろう、知りたくない。
何で、何で血がついてるの?  誰の?

「あ、ぁ……あ、ぁぁあ」

『ヘル?  ヘル、大丈夫か?  痛むのか?』

ねぇ誰の?
僕の、神父様の。
どうして神父様は血を流したのかな?
僕を庇った。
どうして僕なんか庇ったの?  何の価値もないのに。
どうしてだろう、僕なんか助けたってどうしようもないのに。

「うる、さい。うるさい!  黙れよ!  だまれ!」

『ヘル、ヘル!  落ち着け、大丈夫だ!  ヘル、私を見ろ!  私の声を聞け!』

ほら、見てご覧よ、また赤い水たまりが出来たよ?  僕のせいで。
僕なんかを守って。

「いや……やだ、やだ、来ないで、やめてよ。殺さないでよ、その人達は……僕の」

ここは牢獄の国の城なのに、見えるはずのない両親が見えた。僕を守ろうとして、血溜まりに沈んだ肉塊が見えた。
僕にこびりついた血と肉片の感触がはっきりと蘇る。僕の両親だったモノを口に放り込んで、邪悪に笑う魔物が目の前に居る。

叫んだ。何を?  分からない。きっと呪詛の言葉を吐いた、誰にも聞かれてはならない醜い言葉を叫んだ。
頭が痛くて、耳鳴りがして、目眩がして。僕は暗闇の中に突き落とされた。
……誰に?
……僕が一番大嫌いな人に。
……それは誰?
……僕。



何時間も漂って、ようやく暗闇から抜け出した。どうやってかは分からない、自力で抜け出した気もするし、誰かに助けられた気もする、でも何もせずにされずに自然と抜けられた気もした。

目を開いて一番初めに飛び込んできた光景。見覚えのない、真っ白な天井。
知らない、こんな場所知らない。寝かされたベッドもかけられたシーツも知らない。

体を起こして、両腕を眺める。赤くない。
右腕には包帯が巻かれていた、左腕には何もない。
白い。
僕はそれに訳の分からない安堵を感じて、再びベッドに頭を落とす。
倒れ込むようにしたせいで少し痛い。
そう、痛いんだ。
今打った頭も、包帯の巻かれた腕も。

感覚が戻っている。何故なのかは考える必要も無い。
感覚を失っていた方が異常な状態だったのだから、正常に戻ったのなら原因など無視して喜ぼう。

暖かいオレンジの電球に、手を翳す。僕は今、きっと温かい。
誰かに触れられれば分かるのに。誰かが触れてくれて、僕に「温かいね」と微笑みかけてくれればいいのに。

僕は今、それが叶う願いなのか叶わない願いなのかも分からない。
この部屋には誰も居ないから。
でも誰かが部屋を尋ねるかもしれない、僕を心配した誰かが来てくれるかもしれない。

誰か?  そんなの居ないよ、僕は独りだ。

誰かの……僕の囁きが聞こえる。
頭がおかしくなったのかな、どうしてこんなになったのかな。
本当は僕は独りだからかな、皆なんて幻や夢なのかな。


ふと、幼い頃を思い出す。
学校を辞めさせられた時の、失望した両親と、僕を見つめる僕によく似た少年。
「ありえない。───なのに、出来損ないなんてありえない」
彼はそう言って、僕を……どうしたんだっけ。
思い出したくないな。


赤と孤独のせいでおかしくなった僕を現実に連れ戻してくれたのは、木の扉をノックする音だった。
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