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第十五章 惨劇の舞台は獣人の国
我を忘れて
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魔物が僕の名を呼んだのはそう不思議なことでもない。魔物は先程僕の声を真似てアルの名を呼んだし、死体に潜り込んでその声と姿を騙った。
声真似が得意でそれなりの知性があると考えれば、アルが呼ぶ僕の名を覚えたとも考えられる。だが、兄の声でというのはこの理由では納得がいかない。
「ねぇ、君……にいさまに会ったの?」
会っていたとして、その記憶が残っているのか? だとしてもアルの声の方が新しい記憶で真似やすいだろうに、何故今兄の声を真似たのだろう。
『ヘル! 戻れ、こっちに来い。それ以上其奴に構うな!』
背後からアルの声が聞こえた、すぐ後ろのはずなのに何故か遠く聞こえる。僕はアルに逆らって魔物にまた一歩近づいた。
少し遠いが手は届く、恐る恐る右手を突き出した。魔物は首を伸ばし、僕の手のひらに頭を擦り寄せた。
魔物は僕を覚えている、懐いたままでいてくれた。僕はその事に安堵して、魔物への警戒心を薄れさせた。
「そういえば君人喰いだったね、お腹減ってたの? だからって……あんなの、ダメだよ」
人しか食べられない魔物に人を喰うなと言うのも酷な話だ。飢え死にしろなんて流石に言えない。
言う権利があるのはせいぜい「必要なだけ」だとか「無駄に嬲らずに」だとかその程度。
死体に潜り込んでその人を騙って誘き出すなんて残酷すぎる。疑似餌と考えればそうでもない? だが僕は人間だから、どうしても人間の味方をしてしまう。残酷だから何? 人の方が余程残酷だろ? なんて声に耳を塞いでしまう。
『……ヘル、ヘル、ヘル!』
「わ、分かってるって、僕がヘルだよ」
魔物は僕の名を何度も繰り返す、僅かな気恥ずかしさを感じながら制止を促す。だが、魔物は落ち着くどころか激しさを増す。それは僕に魔物使いの力がないからなのか、前なら止められたのか、それは分からない。
『ヘル。ねぇ、ヘル………僕、お腹空いタ。ナ』
兄の声が歪んで、魔物の顔が割れる。
口先から四つに割れて首まで裂けて、まるで花のように開いた。裏返る体内には鋭い牙が並んでいて、その中心から長い舌が何枚も伸ばされる。
『……li…………り……?』
途切れ途切れの鈴の音、僕の腕に絡みつく舌。それらは僕から現実感を奪い、行動を止めさせた。腕が喰いちぎられるまでにそう時間はかからず、僕はその間突っ立っていた。
アルが魔物に体当たりを仕掛け、僕の腹に尾を巻き付けて後ろに転がした。ハートは傷口を縛って血を止めようとしているらしいが、どうにも上手くいかない。大量の出血と尋常ではない痛みは僕の意識を薄れさせる。
「おい! しっかりしろ、起きろ! おい! なぁやめろよ……俺の目の前で死ぬなよっ!」
ハートの声を最後に僕の意識は途絶えた。
山上の空に配置された魔法陣が薄れ、雨雲は消えた。地上が僅かに明るくなり、地に広がった赤い液体が彩度を増した。
ヘルの腕から流れ出た血はアルを憤らせるのには十分過ぎたし、咀嚼音はさらにそれを煽った。
『……随分と知能が下がったな、怪物化が進んだからか? それとも腹が減ったからか?』
だが、アルは我を失って飛びかかるような真似はしない。目の前の魔物が探していた人物だからだ。
今や人物と呼ぶに値するかは分からないが、確かにヘルの兄だった生物なのだ。
『聞いた言葉を繰り返すだけなど、まるで鳥のようだな? オウムだったか……まぁ、それはどうでもいい。私は貴様を探していた』
『……探し……iテい………ru、ぅたa』
『長々と説明しても理解出来まい、単刀直入に言おう。ヘルに回復魔法をかけて欲しい、失った魔物使いの力とお前が喰った腕を戻すためにな』
『くった……? クッた、喰った!』
腹が膨らんでご機嫌なのか、彼は尾を振り回して首を左右に揺らす。
『聞いているのか? 回復魔法をかけろ、と言っている。早くしろ、出血が酷い』
頻頻にヘルの方を振り返りながら、アルは落ち着いて頼みを伝える。言葉が理解出来ているとも思えないが、他に方法はない。
「おい狼! 話してないでこいつを背負って神降に入れよ! 一応傷口は縛ったけど、早く病院かどっかに連れて行かないと死んじまう!」
『……少し待て、此奴に傷を治させる』
「はぁ!? そんなの出来るのかよ。どうなったって俺は知らないからな、こいつが死んだって俺は関係ないからな……」
出血を止めるために傷口を押さえ、体温の低下を遅らせるために背を擦る。ハートは人の死に目を見るのが嫌で、ほとんど効果のない行為を惰性で繰り返していた。
『縛魂石、だったか? 石を何のために使ったか思い出せ、記憶を……知識と感情を留めるためだろう? 今の貴様はそれを失っている』
縛魂石はその名の通り魂を縛り付ける石だ。生物の魂は通常、肉体の中心にある。それは天使や悪魔でも変わらない。
肉体が滅び生物的な死が訪れると、魂は各々の死後の世界へ旅立つ。余程のことがない限り数百年のブランクを経て生まれ変わる。
だが縛魂石に縛られた魂は生まれ変わることはない──いや、死後の世界にすら行くことはない。
石が砕けない限り、肉体がどうなろうと魂はそこに在り続ける。石が砕ける時が縛魂石に縛られた魂の終わりだ。この石は魂を物質化する物だと言える。
『……思い出せぬなら、ここで砕くぞ』
今のエアの状態は縛魂石と怪物化した肉体の接続不良と言える。怪物化が進む中で脳という器官そのものが一度失われ、人を貪るうちに再び脳を作り出した。
新しい脳には当然人間の頃の記憶や知識はない。彼はそれを見越して縛魂石を使っていたのだが、そのバックアップは未だ役に立っていないようだ。
アルがエアをすぐに見つけられなかったのも、縛魂石の中の魂が休眠状態にあったからだ。魔力を頼りに探すアルでは名残で動いているだけの肉体が彼だと分からなかったからだ。
『…………ばク、koンn? 砕ァく、キオク……知識?』
『早く復元させろ! ヘルをこのまま死なせる気か!』
アルには人間がどれだけの血を流せば死ぬのか分からない、それだけに焦っていた。
『死ぬ? ………駄目、ダメ、僕の……ヘル、は僕ノ、オt……u…………僕の許可無……死』
ぴく、と魔物の耳が立つ。瞳に赤い逆さ五芒星が現れ、額の石が怪しい輝きを放つ。
『……返、セ、返せ……ソレは僕の弟だ』
アルは注意深く魔物を観察する。
魔物の言動はこれまでとは違い繰り返し言葉ではない、明らかな自我がある。縛魂石との接続が上手くいった、目の前の魔物はヘルの兄に戻った、そう考えられる。
だが、声の端々には知性が感じられない部分がまだ多い。そもそもヘルの兄は信用の置ける人物ではない、回復魔法をかけるかは分からない──いや、疑っている時間はない。
アルはヘルを……腕から流れる血を見て結論を出した。
『回復魔法をかけろ、いいな? 頼むぞ……』
道を塞ぐのをやめ、魔物をヘルの前に誘導した。
声真似が得意でそれなりの知性があると考えれば、アルが呼ぶ僕の名を覚えたとも考えられる。だが、兄の声でというのはこの理由では納得がいかない。
「ねぇ、君……にいさまに会ったの?」
会っていたとして、その記憶が残っているのか? だとしてもアルの声の方が新しい記憶で真似やすいだろうに、何故今兄の声を真似たのだろう。
『ヘル! 戻れ、こっちに来い。それ以上其奴に構うな!』
背後からアルの声が聞こえた、すぐ後ろのはずなのに何故か遠く聞こえる。僕はアルに逆らって魔物にまた一歩近づいた。
少し遠いが手は届く、恐る恐る右手を突き出した。魔物は首を伸ばし、僕の手のひらに頭を擦り寄せた。
魔物は僕を覚えている、懐いたままでいてくれた。僕はその事に安堵して、魔物への警戒心を薄れさせた。
「そういえば君人喰いだったね、お腹減ってたの? だからって……あんなの、ダメだよ」
人しか食べられない魔物に人を喰うなと言うのも酷な話だ。飢え死にしろなんて流石に言えない。
言う権利があるのはせいぜい「必要なだけ」だとか「無駄に嬲らずに」だとかその程度。
死体に潜り込んでその人を騙って誘き出すなんて残酷すぎる。疑似餌と考えればそうでもない? だが僕は人間だから、どうしても人間の味方をしてしまう。残酷だから何? 人の方が余程残酷だろ? なんて声に耳を塞いでしまう。
『……ヘル、ヘル、ヘル!』
「わ、分かってるって、僕がヘルだよ」
魔物は僕の名を何度も繰り返す、僅かな気恥ずかしさを感じながら制止を促す。だが、魔物は落ち着くどころか激しさを増す。それは僕に魔物使いの力がないからなのか、前なら止められたのか、それは分からない。
『ヘル。ねぇ、ヘル………僕、お腹空いタ。ナ』
兄の声が歪んで、魔物の顔が割れる。
口先から四つに割れて首まで裂けて、まるで花のように開いた。裏返る体内には鋭い牙が並んでいて、その中心から長い舌が何枚も伸ばされる。
『……li…………り……?』
途切れ途切れの鈴の音、僕の腕に絡みつく舌。それらは僕から現実感を奪い、行動を止めさせた。腕が喰いちぎられるまでにそう時間はかからず、僕はその間突っ立っていた。
アルが魔物に体当たりを仕掛け、僕の腹に尾を巻き付けて後ろに転がした。ハートは傷口を縛って血を止めようとしているらしいが、どうにも上手くいかない。大量の出血と尋常ではない痛みは僕の意識を薄れさせる。
「おい! しっかりしろ、起きろ! おい! なぁやめろよ……俺の目の前で死ぬなよっ!」
ハートの声を最後に僕の意識は途絶えた。
山上の空に配置された魔法陣が薄れ、雨雲は消えた。地上が僅かに明るくなり、地に広がった赤い液体が彩度を増した。
ヘルの腕から流れ出た血はアルを憤らせるのには十分過ぎたし、咀嚼音はさらにそれを煽った。
『……随分と知能が下がったな、怪物化が進んだからか? それとも腹が減ったからか?』
だが、アルは我を失って飛びかかるような真似はしない。目の前の魔物が探していた人物だからだ。
今や人物と呼ぶに値するかは分からないが、確かにヘルの兄だった生物なのだ。
『聞いた言葉を繰り返すだけなど、まるで鳥のようだな? オウムだったか……まぁ、それはどうでもいい。私は貴様を探していた』
『……探し……iテい………ru、ぅたa』
『長々と説明しても理解出来まい、単刀直入に言おう。ヘルに回復魔法をかけて欲しい、失った魔物使いの力とお前が喰った腕を戻すためにな』
『くった……? クッた、喰った!』
腹が膨らんでご機嫌なのか、彼は尾を振り回して首を左右に揺らす。
『聞いているのか? 回復魔法をかけろ、と言っている。早くしろ、出血が酷い』
頻頻にヘルの方を振り返りながら、アルは落ち着いて頼みを伝える。言葉が理解出来ているとも思えないが、他に方法はない。
「おい狼! 話してないでこいつを背負って神降に入れよ! 一応傷口は縛ったけど、早く病院かどっかに連れて行かないと死んじまう!」
『……少し待て、此奴に傷を治させる』
「はぁ!? そんなの出来るのかよ。どうなったって俺は知らないからな、こいつが死んだって俺は関係ないからな……」
出血を止めるために傷口を押さえ、体温の低下を遅らせるために背を擦る。ハートは人の死に目を見るのが嫌で、ほとんど効果のない行為を惰性で繰り返していた。
『縛魂石、だったか? 石を何のために使ったか思い出せ、記憶を……知識と感情を留めるためだろう? 今の貴様はそれを失っている』
縛魂石はその名の通り魂を縛り付ける石だ。生物の魂は通常、肉体の中心にある。それは天使や悪魔でも変わらない。
肉体が滅び生物的な死が訪れると、魂は各々の死後の世界へ旅立つ。余程のことがない限り数百年のブランクを経て生まれ変わる。
だが縛魂石に縛られた魂は生まれ変わることはない──いや、死後の世界にすら行くことはない。
石が砕けない限り、肉体がどうなろうと魂はそこに在り続ける。石が砕ける時が縛魂石に縛られた魂の終わりだ。この石は魂を物質化する物だと言える。
『……思い出せぬなら、ここで砕くぞ』
今のエアの状態は縛魂石と怪物化した肉体の接続不良と言える。怪物化が進む中で脳という器官そのものが一度失われ、人を貪るうちに再び脳を作り出した。
新しい脳には当然人間の頃の記憶や知識はない。彼はそれを見越して縛魂石を使っていたのだが、そのバックアップは未だ役に立っていないようだ。
アルがエアをすぐに見つけられなかったのも、縛魂石の中の魂が休眠状態にあったからだ。魔力を頼りに探すアルでは名残で動いているだけの肉体が彼だと分からなかったからだ。
『…………ばク、koンn? 砕ァく、キオク……知識?』
『早く復元させろ! ヘルをこのまま死なせる気か!』
アルには人間がどれだけの血を流せば死ぬのか分からない、それだけに焦っていた。
『死ぬ? ………駄目、ダメ、僕の……ヘル、は僕ノ、オt……u…………僕の許可無……死』
ぴく、と魔物の耳が立つ。瞳に赤い逆さ五芒星が現れ、額の石が怪しい輝きを放つ。
『……返、セ、返せ……ソレは僕の弟だ』
アルは注意深く魔物を観察する。
魔物の言動はこれまでとは違い繰り返し言葉ではない、明らかな自我がある。縛魂石との接続が上手くいった、目の前の魔物はヘルの兄に戻った、そう考えられる。
だが、声の端々には知性が感じられない部分がまだ多い。そもそもヘルの兄は信用の置ける人物ではない、回復魔法をかけるかは分からない──いや、疑っている時間はない。
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