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第十七章 滅びた国の地下に鎮座する魔王
空腹
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魔界の底、崩れた魔王城の下から吹き出した虹色の輝きを放つ黒い粘着質な液体。それは容易に天井に届き、植物のように根を張った。
表面に無数の目が生え、その全てが僕を見た。奇妙な鳴き声が響き渡る、魔法陣が至る所に発生する。
『な、なになになんなの!? なんなのあれ!』
「怒ってる、すっごい怒ってる! アル、逃げて! 早く、今度こそ殺されちゃうよ!」
『アレは……貴方の兄か』
焦る僕やミカとは正反対に、アルは冷静に観察している。
「そうだよ! 早く逃げてよ!」
『説得は』
「聞く訳ないだろ!? 僕の話なんか!」
兄を宥める方法はただ一つ、僕を好きなだけ嬲らせること。だが、今となってはその方法は使えない。
人間だった時ならまだしも、完全なバケモノと化した兄に身を捧げれば一瞬のうちに喰われて終わりだ。僕を喰ったと認識するかどうかすら怪しいし、僕一人で知性を取り戻すほどに飢えを癒せるとは思えない。
『逃げると言ってもな、あの目からは逃れられん。攻撃は避けるから説得を試みてはくれないか』
「無駄だって!」
『ヘル、大丈夫。貴方は昔とは違うだろう? 対等に話が出来る筈だ』
どこまでも優しい、諭すような声。それには安心しきって身を委ねたくなる。
「……知らないくせに」
対等なんて、兄がそんな存在を認識する訳がない。兄にとって兄以外のものは愚鈍で目障りな塵芥なのだから。
僕は何も言わずにアルの背にしがみつき、兄から目を逸らす。爆発音にも似た魔法の音と衝撃波だけを感じていた。
とん、という揺れとともに飛行が安定する。いや、違う。着地したのだ。
恐る恐る顔を上げると、僕の目の前には僕の頭よりも大きな眼球があった。ぐりんと動き、瞳孔が開かれる。
「ひっ……ぁ、アル、何してるの!? 近付くなんて何考えてんだよ! 早く逃げてっ! 早く飛んでよ!」
『……攻撃が止んだ、話をしてくれ』
「僕の話なんか聞かないって!」
『ヘル』
「嫌だ! 早く逃げてよ!」
アルは全く動こうとはしない。ミカは気持ち悪いと喚いて僕の背に顔を埋めた。嫌だ嫌だと駄々をこねているうちに、また地が揺れた。
揺れの原因は雷だ。空もないのに真横に落ちる雷が地を揺らしているのだ。雷も対抗するように絡みつく黒い焔も、今はまだ遠くの出来事。
けれどその揺れに呼応するように、玉虫のような色を変えながら、目の前の液体が形を変える。アスガルドで見た、ドラゴンにも神獣にも似たあの姿へと。
『ヘル、ほら、話を聞いてくれるらしい』
「そ、そんなわけ……ない、よ」
アルは兄をなんだと思っているのだろう。世間一般で言う、弟思いの兄だとでも思っているのか? だとしたらアルは救いようのない愚者だ。
『大人しくなっただろう? 姿も変わり話もしやすくなった』
「話する気なら人に戻るだろ!?」
『それは……そう、だが』
アルは虹色の魔物へ歩み寄る、兄だと分かった今でもその美しい姿は僕を魅了する。額の宝石に僕が映った。
「…………に、にいさま?」
その調子だ、とでも言いたげにアルが口角を上げて振り向く。
「あの、僕……」
話と言っても、説得と言っても、何も思いつかない。要らないと言ったことを謝ればいいのか?
「さっきは、その……」
『ヘル』
魔物が美しい声で僕の名を呼ぶ。
「あっ、な、なに?」
『おナカ、スいた』
「……にいさま?」
『たべタい、ヒト、おいシいの』
「あの、ねぇ、待ってよ、にいさま……話を……」
『…………ヘル、おいしい?』
真っ二つに割れる頭、首。断面に並ぶのは牙、奥から伸びるのは舌。
アルは咄嗟に後ろに飛び退いたが、僕の前髪は僅かに食まれた。
「……か、ら。だから! 言ったじゃないか! 無駄だって、僕の話なんか聞かないって!」
アルが動かなければ僕の頭は無くなっていた。それを考えると、避けてくれたアルへの感謝よりも僕を危険に晒したアルへの怒りの方が大きくなる。
『す、済まない……私は、貴方に』
「にいさまは僕どころか、誰の話も聞かないんだよ! そういう人なの!」
『貴方に……ただ、家族というものを分かって欲しくて』
家族? 僕に?
血の通った生き物の腹から産まれていない、家族なんて最初から存在しない、合成魔獣が何を偉そうに語っているの。
家族がいないくせに家族の何を知って、僕に何を分からせようとしたの。
「そんなのいないんだよ! そんなのっ……いないの! 僕には、いないんだよ!」
母は僕が出来損ないだと分かってから数週間泣き腫らした。父はそんな母を宥めながら、自然に僕に関わらなくなっていった。母も次第に父に倣って僕を居ないものとして扱った。
兄は僕を玩具にした。
「僕は……僕はっ、僕はそんなの要らないんだよ!」
無視して、虐げて、それが家族なら要らない。
真綿で首を絞めるような、そんな連中必要無い。
「家族だ兄弟だなんて! 妄想だったんだよっ……! 早く逃げてよアル!」
今はもう、錯覚すら出来ない。兄からの愛を勘違いする事も出来ない。だってあれはもう兄どころか人でもないから。
『ヘル……』
「早く逃げろよ! アルは僕が死んでもいいの!? アルも僕を愛してくれないの!?」
『……分かった』
魔法も使わずに、ただ大口を開けて襲いかかるだけ。先程よりも余程逃げやすい。
だが、捕まった時にどう死ぬのか、どういった痛みを味わうのか、全て想像がつく。
肌を掠める牙が、粘着質な液体が、僕の恐怖を煽っていく。
『落ち着け』
耳を劈く轟音と共に目が眩む。最後に見えたのは光の柱。視覚と聴覚を同時に奪われ、僕は半狂乱になってアルの毛を掴んだ。
『ヘル、ヘル! あまり引っ張らないでくれ、毛が抜け……痛っ……』
ぶち、と手に感触が伝わる。引き抜いてしまったのか? 自分の声すら聞こえない中で謝罪を繰り返す。返答も聞こえないから、感覚で謝罪を止め首周りをなでて許しを乞う。
『……なに? 神性? ふざけないでよ』
『何だ、天使は創造神以外は認めないのか?』
『あたりまえ。そうじゃなきゃ、しめしがつかない。天使が、ほかの神性と、なかよくしてちゃ、しんこうに、かかわる』
『ふっ、天使様も大変だな?』
不機嫌なミカを嘲り、アルは愉しそうに笑う。
『ぺっとも、たいへんだよね。ごしゅじんさまに、け、むしられて。こことここ、はげてるよ』
『……すぐに生えるから別に構わん』
少しずつ目の痛みが収まり、視界が元に戻る。瞬く度にチカチカと光が見え、頭も痛くなってくる。兄がいるであろう方向に目を向けると金髪の男が槌を肩に担いで立っていた。
『……り? テ…………なか、すいた』
『弟を探しに来たんだろ、喰ってどうする』
あの粘着質な液体は先程の閃光でほとんど蒸発してしまったらしい。男は僅かに残った黒い水溜まりに話しかけている。
『君、だレ?』
『……トールだ、早く覚えてくれないか』
『とーゥ……ぁ、か、スいた』
『ここに人はいない』
『いる、そこ』
『それは弟だろ?』
美しい魔物の姿に戻り、僕を見つめる。僕のことは肉としか見ていないようだ。だが、トールが押さえつけてくれているおかげで口を開きはしない。
『あー、弟。エアは腹ペコだ。今は少し頭が悪い。お前を慌てて探しに来たんだ、焦って準備を怠った』
「慌てて……」
兄は激情家だ。何かあると周りが見えなくなる。僕を嬲る時によくそうなっている、悪癖だ。
『怒るし、燃やすし、泣くし、大変だった』
「泣く……にいさまが? 泣いたの?」
怒るのは分かる。所有物を盗まれれば怒るだろう。
燃やす……はちょっと意味が分からない、魔法を暴走させたのだろうか。
泣いた理由は分からない。怒って涙を流した、という意味でないのなら、兄が僕を見失って泣くなんて想像も出来なかった。
『ん? ああ、泣いた。お前がいない見当たらないと』
現実は想像を越えた。兄は何故か僕を見失って泣いたらしい。その時の感情は……僕が望んでいるものなのだろうか、だとしたら、また、錯覚出来る。いや、今度こそ錯覚ではないのかもしれない。
出来損ないの僕は学習しない。何度でも兄に希望を抱く。
「そ……う、ですか」
兄の体の表面を時々小さな稲光が走る。トールが兄を抑える為に電流を走らせているのだろう。だから触れるのはやめておいた。僕は僕を飢えた目で見つめる兄にぎこちない笑顔を向ける。
「…………探してくれて、ありがと」
一瞬、瞳孔が膨らむ。それにどんな意味があったのかは分からない。ご馳走が近づいて興奮しただけかもしれない。
けれど僕は、兄が僕の感謝を喜んでくれたと思いたい。そう錯覚していなければ、僕の精神は壊れてしまう。
表面に無数の目が生え、その全てが僕を見た。奇妙な鳴き声が響き渡る、魔法陣が至る所に発生する。
『な、なになになんなの!? なんなのあれ!』
「怒ってる、すっごい怒ってる! アル、逃げて! 早く、今度こそ殺されちゃうよ!」
『アレは……貴方の兄か』
焦る僕やミカとは正反対に、アルは冷静に観察している。
「そうだよ! 早く逃げてよ!」
『説得は』
「聞く訳ないだろ!? 僕の話なんか!」
兄を宥める方法はただ一つ、僕を好きなだけ嬲らせること。だが、今となってはその方法は使えない。
人間だった時ならまだしも、完全なバケモノと化した兄に身を捧げれば一瞬のうちに喰われて終わりだ。僕を喰ったと認識するかどうかすら怪しいし、僕一人で知性を取り戻すほどに飢えを癒せるとは思えない。
『逃げると言ってもな、あの目からは逃れられん。攻撃は避けるから説得を試みてはくれないか』
「無駄だって!」
『ヘル、大丈夫。貴方は昔とは違うだろう? 対等に話が出来る筈だ』
どこまでも優しい、諭すような声。それには安心しきって身を委ねたくなる。
「……知らないくせに」
対等なんて、兄がそんな存在を認識する訳がない。兄にとって兄以外のものは愚鈍で目障りな塵芥なのだから。
僕は何も言わずにアルの背にしがみつき、兄から目を逸らす。爆発音にも似た魔法の音と衝撃波だけを感じていた。
とん、という揺れとともに飛行が安定する。いや、違う。着地したのだ。
恐る恐る顔を上げると、僕の目の前には僕の頭よりも大きな眼球があった。ぐりんと動き、瞳孔が開かれる。
「ひっ……ぁ、アル、何してるの!? 近付くなんて何考えてんだよ! 早く逃げてっ! 早く飛んでよ!」
『……攻撃が止んだ、話をしてくれ』
「僕の話なんか聞かないって!」
『ヘル』
「嫌だ! 早く逃げてよ!」
アルは全く動こうとはしない。ミカは気持ち悪いと喚いて僕の背に顔を埋めた。嫌だ嫌だと駄々をこねているうちに、また地が揺れた。
揺れの原因は雷だ。空もないのに真横に落ちる雷が地を揺らしているのだ。雷も対抗するように絡みつく黒い焔も、今はまだ遠くの出来事。
けれどその揺れに呼応するように、玉虫のような色を変えながら、目の前の液体が形を変える。アスガルドで見た、ドラゴンにも神獣にも似たあの姿へと。
『ヘル、ほら、話を聞いてくれるらしい』
「そ、そんなわけ……ない、よ」
アルは兄をなんだと思っているのだろう。世間一般で言う、弟思いの兄だとでも思っているのか? だとしたらアルは救いようのない愚者だ。
『大人しくなっただろう? 姿も変わり話もしやすくなった』
「話する気なら人に戻るだろ!?」
『それは……そう、だが』
アルは虹色の魔物へ歩み寄る、兄だと分かった今でもその美しい姿は僕を魅了する。額の宝石に僕が映った。
「…………に、にいさま?」
その調子だ、とでも言いたげにアルが口角を上げて振り向く。
「あの、僕……」
話と言っても、説得と言っても、何も思いつかない。要らないと言ったことを謝ればいいのか?
「さっきは、その……」
『ヘル』
魔物が美しい声で僕の名を呼ぶ。
「あっ、な、なに?」
『おナカ、スいた』
「……にいさま?」
『たべタい、ヒト、おいシいの』
「あの、ねぇ、待ってよ、にいさま……話を……」
『…………ヘル、おいしい?』
真っ二つに割れる頭、首。断面に並ぶのは牙、奥から伸びるのは舌。
アルは咄嗟に後ろに飛び退いたが、僕の前髪は僅かに食まれた。
「……か、ら。だから! 言ったじゃないか! 無駄だって、僕の話なんか聞かないって!」
アルが動かなければ僕の頭は無くなっていた。それを考えると、避けてくれたアルへの感謝よりも僕を危険に晒したアルへの怒りの方が大きくなる。
『す、済まない……私は、貴方に』
「にいさまは僕どころか、誰の話も聞かないんだよ! そういう人なの!」
『貴方に……ただ、家族というものを分かって欲しくて』
家族? 僕に?
血の通った生き物の腹から産まれていない、家族なんて最初から存在しない、合成魔獣が何を偉そうに語っているの。
家族がいないくせに家族の何を知って、僕に何を分からせようとしたの。
「そんなのいないんだよ! そんなのっ……いないの! 僕には、いないんだよ!」
母は僕が出来損ないだと分かってから数週間泣き腫らした。父はそんな母を宥めながら、自然に僕に関わらなくなっていった。母も次第に父に倣って僕を居ないものとして扱った。
兄は僕を玩具にした。
「僕は……僕はっ、僕はそんなの要らないんだよ!」
無視して、虐げて、それが家族なら要らない。
真綿で首を絞めるような、そんな連中必要無い。
「家族だ兄弟だなんて! 妄想だったんだよっ……! 早く逃げてよアル!」
今はもう、錯覚すら出来ない。兄からの愛を勘違いする事も出来ない。だってあれはもう兄どころか人でもないから。
『ヘル……』
「早く逃げろよ! アルは僕が死んでもいいの!? アルも僕を愛してくれないの!?」
『……分かった』
魔法も使わずに、ただ大口を開けて襲いかかるだけ。先程よりも余程逃げやすい。
だが、捕まった時にどう死ぬのか、どういった痛みを味わうのか、全て想像がつく。
肌を掠める牙が、粘着質な液体が、僕の恐怖を煽っていく。
『落ち着け』
耳を劈く轟音と共に目が眩む。最後に見えたのは光の柱。視覚と聴覚を同時に奪われ、僕は半狂乱になってアルの毛を掴んだ。
『ヘル、ヘル! あまり引っ張らないでくれ、毛が抜け……痛っ……』
ぶち、と手に感触が伝わる。引き抜いてしまったのか? 自分の声すら聞こえない中で謝罪を繰り返す。返答も聞こえないから、感覚で謝罪を止め首周りをなでて許しを乞う。
『……なに? 神性? ふざけないでよ』
『何だ、天使は創造神以外は認めないのか?』
『あたりまえ。そうじゃなきゃ、しめしがつかない。天使が、ほかの神性と、なかよくしてちゃ、しんこうに、かかわる』
『ふっ、天使様も大変だな?』
不機嫌なミカを嘲り、アルは愉しそうに笑う。
『ぺっとも、たいへんだよね。ごしゅじんさまに、け、むしられて。こことここ、はげてるよ』
『……すぐに生えるから別に構わん』
少しずつ目の痛みが収まり、視界が元に戻る。瞬く度にチカチカと光が見え、頭も痛くなってくる。兄がいるであろう方向に目を向けると金髪の男が槌を肩に担いで立っていた。
『……り? テ…………なか、すいた』
『弟を探しに来たんだろ、喰ってどうする』
あの粘着質な液体は先程の閃光でほとんど蒸発してしまったらしい。男は僅かに残った黒い水溜まりに話しかけている。
『君、だレ?』
『……トールだ、早く覚えてくれないか』
『とーゥ……ぁ、か、スいた』
『ここに人はいない』
『いる、そこ』
『それは弟だろ?』
美しい魔物の姿に戻り、僕を見つめる。僕のことは肉としか見ていないようだ。だが、トールが押さえつけてくれているおかげで口を開きはしない。
『あー、弟。エアは腹ペコだ。今は少し頭が悪い。お前を慌てて探しに来たんだ、焦って準備を怠った』
「慌てて……」
兄は激情家だ。何かあると周りが見えなくなる。僕を嬲る時によくそうなっている、悪癖だ。
『怒るし、燃やすし、泣くし、大変だった』
「泣く……にいさまが? 泣いたの?」
怒るのは分かる。所有物を盗まれれば怒るだろう。
燃やす……はちょっと意味が分からない、魔法を暴走させたのだろうか。
泣いた理由は分からない。怒って涙を流した、という意味でないのなら、兄が僕を見失って泣くなんて想像も出来なかった。
『ん? ああ、泣いた。お前がいない見当たらないと』
現実は想像を越えた。兄は何故か僕を見失って泣いたらしい。その時の感情は……僕が望んでいるものなのだろうか、だとしたら、また、錯覚出来る。いや、今度こそ錯覚ではないのかもしれない。
出来損ないの僕は学習しない。何度でも兄に希望を抱く。
「そ……う、ですか」
兄の体の表面を時々小さな稲光が走る。トールが兄を抑える為に電流を走らせているのだろう。だから触れるのはやめておいた。僕は僕を飢えた目で見つめる兄にぎこちない笑顔を向ける。
「…………探してくれて、ありがと」
一瞬、瞳孔が膨らむ。それにどんな意味があったのかは分からない。ご馳走が近づいて興奮しただけかもしれない。
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