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第三十一章 月の裏側で夢を見よう
胡乱な家
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目覚めてから数分、僕は動くことも声を出すことも出来なかった。
一先ず状況を整理しよう、その決意を何度も繰り返している。
昨日僕が眠ったのは天蓋付きの大きなベッド。しかし今僕が眠っているのは質素なベッド。窓から見える景色は風俗街の灯りだった。しかし今見えているのは濃霧。
「な、何なの……?」
とりあえず行動した方がいいのか、分かるまでは動かない方がいいのか、僕には分からない。
部屋の詳しい観察に移ろうか。部屋は魔法の国の自室とよく似ているが細部や広さが違う。まず広さは二倍、向かいにもベッドがあって、真ん中に線を引けば対称となる家具の配置だ。家具は勉強机に始まり、本棚やタンスなどで特筆すべきものはない。全て二つずつある。向かいのベッドにも誰か眠っているようだが、頭まで毛布を被っていて誰なのかは分からない。
「…………起こしたくはないな」
勉強机には見慣れない本が並んでいて、備え付けらしい椅子には魔法の国で一般的な学生鞄が置かれていた。部屋の主は学生だろう。僕はどうしてここに居るのだろう──何度目かの疑問を抱いた時、枕の横に置かれていた小さな時計がピピピと大きな音を鳴らしだした。
「ひっ!? なっ、な、何!? 何、何!?」
向かいのベッドにも同じ物があるらしく、向こうからも聞こえてくる。眠っている人が起きてしまう。
「とっ、止まってよ、うるさい……起きちゃうじゃん! ねぇ早く止まってよぉっ!」
直方体の時計は微かに震えており、どこをどうすれば止まるのか全く分からない。焦っていると背後から来た誰かが時計を取り上げ、底面の出っ張りを押し込んだ。すると振動と音は止まり静寂が帰ってきた。
「……何寝ぼけてんの、お兄ちゃん」
僕と同じ顔に時計を返される──顔は同じだけれど、彼の髪は真っ黒だ。生え際から毛先まで羨ましいくらいに美しい黒、僕も少し前まではこんな色だった。
「お兄ちゃん? 何、じっと見て。どうしたの」
「…………フェル、なの?」
僕をお兄ちゃんと呼ぶ僕にそっくりな人物といえば、フェル。
「……うん? うん、フェルだよ」
「そ、そっか、ここどこ?」
「…………家だけど」
家? そりゃあ誰かの家だろうけど。
フェルは僕の足を覆っていた毛布を引き剥がし、僕の腕を掴んで部屋を出た。洗面所に一直線、顔を洗うよう言われた。
「お兄ちゃんよく寝ぼけるけど今日は特に酷いよ、酷過ぎる」
顔を洗い、鏡を見る。黒い髪に黒い瞳──フェルと全く同じ容姿だ。魔法の国に居た頃と同じ、魔物使いに目覚めていない頃の見た目だ。
『ヘルー、フェルー、ご飯出来てるから顔洗ったらおいでよー』
間延びした声が扉の向こうからかけられる。フェルは元気の無い返事をし、ぼうっと鏡を眺める僕の腕を引っ張った。
連れてこられたのはダイニング。魔法の国の自宅とよく似ているが、やはり細部や広さが違う。席には既に兄が座っており、パンを食べていた。
『こら、エア。一人で先に食べない』
そんな兄の頭をぽこんと叩く黒い手。先程声をかけてきた人物と同じ声だ。
「……みんな遅いんだよ」
『反抗期真っ只中だなぁ……もう十八なんだから少しは弟達の手本のお兄さんになってくれないかな?』
「なってくれない」
『なってくれないかーそっかー』
僕やフェル、兄と同じ黒い髪はクルクルと巻いて、僕達と違った黒い肌は素晴らしくキメ細やかで、僕達とよく似ているけれどより深く吸い込まれそうな黒い瞳。そう、ライアーだ。僕はその確信を持つため、ライアー兄さんと声をかけた。
『なに、ヘル』
普通の返事。確かに彼はライアーらしい。
『早く食べないと学校遅れるよ』
「が、学校?」
『しっかりしてよ、来年から中等部なんだから』
来年から中等部……鏡を見た時の違和感はそれか、僕は少し幼いのだ。僕は十五歳だけれど、この謎の空間では十二歳の身体と他者からの認識がある。兄は十八とか言われていたか、なら三年前の──夢、なのか?
「あ、兄さん。今日体育あるんだけど」
『なんで前日に言わないの! 体操服洗ってないよ!?』
いや、僕が学校に行っていることやライアーが居ることから、普通に過去を思い出す夢を見ている訳ではない。
「兄さん、保険証のコピー今日までだけど……当然用意してくれてるよね?」
『キミも朝に言うよね! ある訳ないだろ! ヘル、ヘルは何もないだろうね!』
なら「ライアーという兄が欲しい」「学校に楽しく通いたかった」という願望が入り乱れてこんな夢になったと考えるべきか。
『ヘル! 聞いてるの……全然食べてないじゃないか!』
視界を覆うとんでもない美顔。ライアーが僕の顔を覗き込んでいる。
「食べてない? ヘル、具合悪いの? 兄さん、僕今日休む。ヘルの看病する、連絡やっといて」
兄がパンを持ったまま席を立ち、僕の顔を覗く。
『キミは大学に行きなさい! 今日は講義するんだろ、教授が変な理由で休まないの! あとパン持ったままウロウロしない!』
「変な理由……? ヘルを心配するのが変な理由だって言うの!? 何か大きな病気の兆候だったらどうするの、部屋で寝かせてて帰ったら冷たくなってたなんてなったら僕はっ……兄さんを刺すよ?」
『大胆不敵な殺害予告にお兄ちゃん震えが止まらない。その愛情を一割でもフェルにあげてよ』
どうやらこの兄は僕を異常に可愛がっているらしい。で、フェルにはあまり構っていないと。
なんなんだこの世界は……夢だという判断でいいのか? それにしては現実的過ぎる。何者かに夢を見せられていると考えるべきか、いや夢を見せて何になるんだ、無防備な身体を喰らうとか?
「兄さん兄さん、体操服どうしよう」
『あぁ……もう、ヘルの借りなよ。ヘルは今日休ませるから』
「僕も休む」
『キミは講義するの!』
「……じゃあヘルおぶる」
『それやっていいのはシングルマザーオアファザー! 子供の年齢が一桁まで!』
ライアーはかなり多忙そうだな、長男なのか。両親は居ないのか?
「兄さんそろそろ仕事じゃないの?」
『うわぁぁぁ……エア! ヘルは部屋で寝かせるんだよ! フェル、体操服は間違えたって言えば忘れ物にはならないから先生にはそう言い訳して……いってきまーす!』
扉の傍に掛けてあったコートを掴み、鞄を抱えて出て行った。ライアーの仕事はなんだろう、カフェの店長ではなさそうだ。
「あ、僕もそろそろ行くね。にいさま、お兄ちゃん、いってきまーす」
フェルはあの学生鞄を持ち、水兵服にも似た黒い制服を着て出て行った。
しかし「兄さん」「にいさま」「お兄ちゃん」と見事に分かれたものだ、呼び間違えがなくて結構だ。兄が年上の兄弟を「兄さん」と呼ぶのは意外なような、順当なような……
「よし、僕達もそろそろ行こうか」
兄はスーツを着込んでいる、何とも珍しい。ライアーと同じくコートを羽織り、別の部屋から大きな荷物を抱えてきた。そして僕をおぶり、家を出た。
「……兄さんは部屋で寝ろって言ってたけど」
「悪化したらどうするの、誰も居ないんだよ? 自分で病院まで行けるならいいけど、一人で歩けないくらいだったらどうするの」
誰も居ないということはやはり両親は居ないのか。
しかし霧が濃いな、街の様子を見ようにも何も見えない。
「今日、霧濃いね」
「そう? いつもよりマシだよ、自分の爪先が見える」
僕は街中でこんな濃霧を味わったことがない。つまり、この世界が僕の夢であるという可能性は低い。
夢を見せる悪魔や魔獣の話はよく聞くし、現実改変や幻覚の力を持つ魔物や人間かもしれない。しかし、今のところ僕には現実に戻る手段の目処も無ければこの世界での危機も無い。
しばらくの間は兄の背を堪能してもいいだろう。
一先ず状況を整理しよう、その決意を何度も繰り返している。
昨日僕が眠ったのは天蓋付きの大きなベッド。しかし今僕が眠っているのは質素なベッド。窓から見える景色は風俗街の灯りだった。しかし今見えているのは濃霧。
「な、何なの……?」
とりあえず行動した方がいいのか、分かるまでは動かない方がいいのか、僕には分からない。
部屋の詳しい観察に移ろうか。部屋は魔法の国の自室とよく似ているが細部や広さが違う。まず広さは二倍、向かいにもベッドがあって、真ん中に線を引けば対称となる家具の配置だ。家具は勉強机に始まり、本棚やタンスなどで特筆すべきものはない。全て二つずつある。向かいのベッドにも誰か眠っているようだが、頭まで毛布を被っていて誰なのかは分からない。
「…………起こしたくはないな」
勉強机には見慣れない本が並んでいて、備え付けらしい椅子には魔法の国で一般的な学生鞄が置かれていた。部屋の主は学生だろう。僕はどうしてここに居るのだろう──何度目かの疑問を抱いた時、枕の横に置かれていた小さな時計がピピピと大きな音を鳴らしだした。
「ひっ!? なっ、な、何!? 何、何!?」
向かいのベッドにも同じ物があるらしく、向こうからも聞こえてくる。眠っている人が起きてしまう。
「とっ、止まってよ、うるさい……起きちゃうじゃん! ねぇ早く止まってよぉっ!」
直方体の時計は微かに震えており、どこをどうすれば止まるのか全く分からない。焦っていると背後から来た誰かが時計を取り上げ、底面の出っ張りを押し込んだ。すると振動と音は止まり静寂が帰ってきた。
「……何寝ぼけてんの、お兄ちゃん」
僕と同じ顔に時計を返される──顔は同じだけれど、彼の髪は真っ黒だ。生え際から毛先まで羨ましいくらいに美しい黒、僕も少し前まではこんな色だった。
「お兄ちゃん? 何、じっと見て。どうしたの」
「…………フェル、なの?」
僕をお兄ちゃんと呼ぶ僕にそっくりな人物といえば、フェル。
「……うん? うん、フェルだよ」
「そ、そっか、ここどこ?」
「…………家だけど」
家? そりゃあ誰かの家だろうけど。
フェルは僕の足を覆っていた毛布を引き剥がし、僕の腕を掴んで部屋を出た。洗面所に一直線、顔を洗うよう言われた。
「お兄ちゃんよく寝ぼけるけど今日は特に酷いよ、酷過ぎる」
顔を洗い、鏡を見る。黒い髪に黒い瞳──フェルと全く同じ容姿だ。魔法の国に居た頃と同じ、魔物使いに目覚めていない頃の見た目だ。
『ヘルー、フェルー、ご飯出来てるから顔洗ったらおいでよー』
間延びした声が扉の向こうからかけられる。フェルは元気の無い返事をし、ぼうっと鏡を眺める僕の腕を引っ張った。
連れてこられたのはダイニング。魔法の国の自宅とよく似ているが、やはり細部や広さが違う。席には既に兄が座っており、パンを食べていた。
『こら、エア。一人で先に食べない』
そんな兄の頭をぽこんと叩く黒い手。先程声をかけてきた人物と同じ声だ。
「……みんな遅いんだよ」
『反抗期真っ只中だなぁ……もう十八なんだから少しは弟達の手本のお兄さんになってくれないかな?』
「なってくれない」
『なってくれないかーそっかー』
僕やフェル、兄と同じ黒い髪はクルクルと巻いて、僕達と違った黒い肌は素晴らしくキメ細やかで、僕達とよく似ているけれどより深く吸い込まれそうな黒い瞳。そう、ライアーだ。僕はその確信を持つため、ライアー兄さんと声をかけた。
『なに、ヘル』
普通の返事。確かに彼はライアーらしい。
『早く食べないと学校遅れるよ』
「が、学校?」
『しっかりしてよ、来年から中等部なんだから』
来年から中等部……鏡を見た時の違和感はそれか、僕は少し幼いのだ。僕は十五歳だけれど、この謎の空間では十二歳の身体と他者からの認識がある。兄は十八とか言われていたか、なら三年前の──夢、なのか?
「あ、兄さん。今日体育あるんだけど」
『なんで前日に言わないの! 体操服洗ってないよ!?』
いや、僕が学校に行っていることやライアーが居ることから、普通に過去を思い出す夢を見ている訳ではない。
「兄さん、保険証のコピー今日までだけど……当然用意してくれてるよね?」
『キミも朝に言うよね! ある訳ないだろ! ヘル、ヘルは何もないだろうね!』
なら「ライアーという兄が欲しい」「学校に楽しく通いたかった」という願望が入り乱れてこんな夢になったと考えるべきか。
『ヘル! 聞いてるの……全然食べてないじゃないか!』
視界を覆うとんでもない美顔。ライアーが僕の顔を覗き込んでいる。
「食べてない? ヘル、具合悪いの? 兄さん、僕今日休む。ヘルの看病する、連絡やっといて」
兄がパンを持ったまま席を立ち、僕の顔を覗く。
『キミは大学に行きなさい! 今日は講義するんだろ、教授が変な理由で休まないの! あとパン持ったままウロウロしない!』
「変な理由……? ヘルを心配するのが変な理由だって言うの!? 何か大きな病気の兆候だったらどうするの、部屋で寝かせてて帰ったら冷たくなってたなんてなったら僕はっ……兄さんを刺すよ?」
『大胆不敵な殺害予告にお兄ちゃん震えが止まらない。その愛情を一割でもフェルにあげてよ』
どうやらこの兄は僕を異常に可愛がっているらしい。で、フェルにはあまり構っていないと。
なんなんだこの世界は……夢だという判断でいいのか? それにしては現実的過ぎる。何者かに夢を見せられていると考えるべきか、いや夢を見せて何になるんだ、無防備な身体を喰らうとか?
「兄さん兄さん、体操服どうしよう」
『あぁ……もう、ヘルの借りなよ。ヘルは今日休ませるから』
「僕も休む」
『キミは講義するの!』
「……じゃあヘルおぶる」
『それやっていいのはシングルマザーオアファザー! 子供の年齢が一桁まで!』
ライアーはかなり多忙そうだな、長男なのか。両親は居ないのか?
「兄さんそろそろ仕事じゃないの?」
『うわぁぁぁ……エア! ヘルは部屋で寝かせるんだよ! フェル、体操服は間違えたって言えば忘れ物にはならないから先生にはそう言い訳して……いってきまーす!』
扉の傍に掛けてあったコートを掴み、鞄を抱えて出て行った。ライアーの仕事はなんだろう、カフェの店長ではなさそうだ。
「あ、僕もそろそろ行くね。にいさま、お兄ちゃん、いってきまーす」
フェルはあの学生鞄を持ち、水兵服にも似た黒い制服を着て出て行った。
しかし「兄さん」「にいさま」「お兄ちゃん」と見事に分かれたものだ、呼び間違えがなくて結構だ。兄が年上の兄弟を「兄さん」と呼ぶのは意外なような、順当なような……
「よし、僕達もそろそろ行こうか」
兄はスーツを着込んでいる、何とも珍しい。ライアーと同じくコートを羽織り、別の部屋から大きな荷物を抱えてきた。そして僕をおぶり、家を出た。
「……兄さんは部屋で寝ろって言ってたけど」
「悪化したらどうするの、誰も居ないんだよ? 自分で病院まで行けるならいいけど、一人で歩けないくらいだったらどうするの」
誰も居ないということはやはり両親は居ないのか。
しかし霧が濃いな、街の様子を見ようにも何も見えない。
「今日、霧濃いね」
「そう? いつもよりマシだよ、自分の爪先が見える」
僕は街中でこんな濃霧を味わったことがない。つまり、この世界が僕の夢であるという可能性は低い。
夢を見せる悪魔や魔獣の話はよく聞くし、現実改変や幻覚の力を持つ魔物や人間かもしれない。しかし、今のところ僕には現実に戻る手段の目処も無ければこの世界での危機も無い。
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