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第三十一章 過去全ての魔物使いを凌駕せよ
その表象
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銀の鍵を手に、もう片方の手を兄に──ライアーに引かれる。と言ってもライアーの姿は見えず、僕の手を掴む浅黒い肌の手が肘の下あたりまで見えているだけで、あるべき身体は闇に包まれ、足音も聞こえない。
そんな不可思議な闇を抜け、僕は一人で門の前に立っていた。ライアーは影も形もない。
『ごきげんよう、魔物使い。使者に聞いています、覚悟は出来ていますか?』
ヴェールを纏った人の形をした何かが話しかけてくる。僕の半分ほどの身長だ、表情らしきものは全く分からない。
「……何の覚悟?」
『窮極の門を抜ける覚悟です』
「…………僕はただ、『黒』の名前を取り戻したいだけだよ」
『使者を出し抜くのならば、全ての時空と接さなければ。そして考え抜き、空虚を手に入れなければ』
彼──性別はよく分からないので、彼としよう。
そう、彼の言っていることはよく理解出来ない。
『あの世界の眼には限度がある。しかし、副王は全てでありますから』
「……全て?」
『全にして、一。一にして、全。あなたも副王の中に』
「…………『黒』の名前を取り戻すにはそれしかないんだよね? なら、分かったよ。覚悟ならある、どれだけ苦しんだって、死んだって構わない」
死んだら『黒』に名前を返せなくなるかな? それは本末転倒だ。アルに別れも言っていないし、それはよくない。
僕は勢いで言ってしまったと撤回しようとしたが、彼はもう門を開いていた。
「……君は誰?」
『…………ウムル・アト=タウィル、案内人です。どうぞ、お気になさらず』
どこに立っているのかも分からず、ただ彼の後ろをついて行く。低い音や一定周期の振動、何か異形の傍を抜けていく。
「ねぇ、えっと……ウムル? さん。名前を取り戻して向こうに戻るのは何時間後になりそうかな」
『一瞬後、そして、数十年後』
「…………数十年かかるけど時間戻してくれるってこと?」
『時間など、どうぞ、お気になさらず』
時間を気にするなと言われても、『黒』には一刻の猶予も無いのだから気にして当然だろう。モヤモヤとした気分を抱えたまま彼の後をついて行く。彼は不意に止まり、振り向いた。
『ここから先は海です。銀の鍵はお持ちですね、離すこと無きよう。アーチが見えましたら儀式に従って鍵を動かし、呪文を唱えてください』
「呪文って……本に載ってたやつでいいんだよね?」
何故かスラスラと読み解けた不思議な文字。何故かスルスルと頭の中に入ってきた呪文。
それを彼に確かめる間もなく、僕は深淵に投げ込まれた。
ずっとずっと落ちていく。どれだけ落ちるのかなんて計ることも出来ず、呆れかけた頃にだぱんと水に落ちた。
「ウムルさーん……? 何、これ……海っていうか……ワイン?」
深く広い水の中に落ちて掴まる物が無い時どうすればいいか、幼い頃兄に教わった。水中にあった足を上げ、海面に仰向けになるように力を抜く。ぷかぷかと漂い、バラの香りを嗅ぐ。何だか酔っ払ってしまいそうだ。
「鍵を動かせとか言ってたなぁ……どうやって?」
鍵を眺めたり呪文の練習をしたりして永遠にも思える時を過ごした。すると海の先に石組みのアーチが見えてきて、彼が言っていたのはアレのことかと再び鍵を顔の前に持ち上げる。
「……あぁ、分かった」
直前まで分からなかった鍵の動かし方も、噛んでしまっていた呪文の詠唱も、数十年前から繰り返してきたかのようにスラスラと行える。
その儀式が終わると僕は門に漂着する。
『お待ちしておりました』
「……ウムルさん? 僕、どれくらい……」
『一瞬でしたよ。さぁ、門を抜けてください。その資格を持つ人間なのでしょう?』
「…………この門が……」
『窮極の門。人類が求めたアカシックレコード、神に到達すると信じるもの、副王です』
副王、という言葉は度々彼の口から……口から? 口は見当たらない。まぁとにかく彼が紡ぐ文の中に出てくる。副と言うからには主である王も居るのだろうか。僕はそんな今は関係ないことに頭を使いながら門を抜けた。
「……『黒』の名前を、教えてください」
その先に居たのは、いや、在ったのは虹色の球。形や色が絶えず変わって輝いて、互いに離れては近付き近付いては離れている……そんな球の集合体。
『…………魔物使い、こちらへ』
「ウムルさん? でも、まだ……」
『壊れたくなければ、少しずつ』
裾を引っ張られ、また僕はどこかに落ちた。途端に視界は明るい青で溢れた。
「…………空?」
『魔物使い、これから魂の記録を遡ります。前世からあなたへ、それに至る魔物使いの記録を少しずつ見せていきます。宇宙全ての記録を与えるには器が小さ過ぎる、魔物使いは壊すべきではありませんので、異例の対応です。どうぞ、ご感謝を』
「ありがとう……? えっと、これは……僕の前世の記憶ってことなのかな?」
僕は草原に寝転がっていた。首を回すことも指を動かすことも出来ない。記憶を見ているだけなら仕方ないのか? だが、随分と退屈だ。
『魔物使い、また寝ているのか?』
隣に誰かが腰を下ろし、僕も僕の意思でなく起き上がる。やはりこれは映像を見ているようなものだ、視界を借りた経験が活きて早く理解出来た。
「気持ちいい所でしょ? お気に入りなんだ」
僕の声ではないけれど、僕が──いや、僕の前世が話している。口を勝手に動かされているような感覚もない。自分の声のように骨を伝わって聞こえるだけ。
起き上がった僕は隣に座った男と視線を交わす。金色の瞳は呆れた視線を寄越している。黒い布を身にまとった黒髪の褐色の男──見覚えがある、サタンだ。髪型も服装も少し違う。
「何かあったの?」
『いや……何も無い。平和だ』
「そっか、なら良かった」
前世の僕の声は今の僕よりかなり高い。いや……まさか、女なのか。水面や鏡はないし、自分の身体を見下ろしたりもしないからよく分からないけれど、視界の端に見える手からして女の子だ。
『…………来い』
僕はサタンの手招きに腰を上げ、彼の膝の上に腰を下ろした。金色の瞳に映り込んだ僕は僕も見惚れるほどの美少女だった。
……いいなぁ、僕もこのくらい可愛い女の子なら兄もそこまで酷い暴力はしなかっただろう。
『……悪魔になる気はないか? 魂を寄越せば余が直々に加工してやるぞ』
「ないって言ってるでしょ? 私は人間のままがいーの」
『…………余の妻にしてやると言っても?』
「あっはは、そんな上から目線のプロポーズじゃどんな女の子も落ちないよ」
サタンには妻が居たはず、それもかなりの愛妻家だったはずだ。ということはこの前世はサタンが結婚するよりも前? 僕に……僕の前世に求婚していたのか、いや、冗談っぽさもあるけれど。
「それよりあの子は? ほら、前に話してた、天使の……」
『サタン! 少し時間を貰えるか』
他愛ない会話の途中、草原に天使が降り立つ。
戦闘が始まるかと身構えたが、サタンもその天使も特にそれらしい構えは見せない。まさか……神魔戦争が始まる以前? そんな頃から魔物使いは居たのか?
「ちょうど良かった、この子だよ」
視界の端に居た天使がようやく真ん中に移動する。六対の白い翼に、長く美しい金髪。鋭い赤い瞳……ルシフェル! どうして身体が動かない、今すぐ殺さないと、封印しないと──いや、これは過去の映像、前世の記録だ。僕は見ているだけだし、今の彼女はまだアルを殺していない、アルは生まれてすらいないだろう。
『……ルシフェルか。天使長様が悪魔に何の用だ』
『…………聞いてくれサタン! 酷いんだよ神様は! 私はこんなに頑張っているのに、神様は作り立ての人間ばかり気にかけて!』
この頃からルシフェルは人間に敵対心を抱いていたのか。いや、この直後に堕ちたのか?
『愚痴なら帰れ。余が何かは分かっているだろう』
『……君は神様と対を成す素晴らしいものだ。敵対すべき、バランスを取るべき悪だ』
『…………分かっているな。そう、余は悪。天使は善だろう。魔物使いの前で仲良く話していていいのか? 告げ口されても知らんぞ』
『魔物使いは魔界から溢れる魔力を調整するための弁、神の道具が神の愛する私を陥れるような真似はしないさ。ねぇ、そうだろ?』
やはりこの時代ではまだ神魔は敵対していない。それどころか協力して人間という種を育てていくような意思すら感じる。それならどうして今はこんなにも憎みあっているのだろう。
いや、それよりも僕の──魔物使いの存在理由だ。
魔物使いはただの弁、ただの道具……そうか、やはり僕は魔物使いの力を振るう為だけの存在だった。人間らしさなんて、弱い精神なんて、最初から必要無かったんだ。
そんな不可思議な闇を抜け、僕は一人で門の前に立っていた。ライアーは影も形もない。
『ごきげんよう、魔物使い。使者に聞いています、覚悟は出来ていますか?』
ヴェールを纏った人の形をした何かが話しかけてくる。僕の半分ほどの身長だ、表情らしきものは全く分からない。
「……何の覚悟?」
『窮極の門を抜ける覚悟です』
「…………僕はただ、『黒』の名前を取り戻したいだけだよ」
『使者を出し抜くのならば、全ての時空と接さなければ。そして考え抜き、空虚を手に入れなければ』
彼──性別はよく分からないので、彼としよう。
そう、彼の言っていることはよく理解出来ない。
『あの世界の眼には限度がある。しかし、副王は全てでありますから』
「……全て?」
『全にして、一。一にして、全。あなたも副王の中に』
「…………『黒』の名前を取り戻すにはそれしかないんだよね? なら、分かったよ。覚悟ならある、どれだけ苦しんだって、死んだって構わない」
死んだら『黒』に名前を返せなくなるかな? それは本末転倒だ。アルに別れも言っていないし、それはよくない。
僕は勢いで言ってしまったと撤回しようとしたが、彼はもう門を開いていた。
「……君は誰?」
『…………ウムル・アト=タウィル、案内人です。どうぞ、お気になさらず』
どこに立っているのかも分からず、ただ彼の後ろをついて行く。低い音や一定周期の振動、何か異形の傍を抜けていく。
「ねぇ、えっと……ウムル? さん。名前を取り戻して向こうに戻るのは何時間後になりそうかな」
『一瞬後、そして、数十年後』
「…………数十年かかるけど時間戻してくれるってこと?」
『時間など、どうぞ、お気になさらず』
時間を気にするなと言われても、『黒』には一刻の猶予も無いのだから気にして当然だろう。モヤモヤとした気分を抱えたまま彼の後をついて行く。彼は不意に止まり、振り向いた。
『ここから先は海です。銀の鍵はお持ちですね、離すこと無きよう。アーチが見えましたら儀式に従って鍵を動かし、呪文を唱えてください』
「呪文って……本に載ってたやつでいいんだよね?」
何故かスラスラと読み解けた不思議な文字。何故かスルスルと頭の中に入ってきた呪文。
それを彼に確かめる間もなく、僕は深淵に投げ込まれた。
ずっとずっと落ちていく。どれだけ落ちるのかなんて計ることも出来ず、呆れかけた頃にだぱんと水に落ちた。
「ウムルさーん……? 何、これ……海っていうか……ワイン?」
深く広い水の中に落ちて掴まる物が無い時どうすればいいか、幼い頃兄に教わった。水中にあった足を上げ、海面に仰向けになるように力を抜く。ぷかぷかと漂い、バラの香りを嗅ぐ。何だか酔っ払ってしまいそうだ。
「鍵を動かせとか言ってたなぁ……どうやって?」
鍵を眺めたり呪文の練習をしたりして永遠にも思える時を過ごした。すると海の先に石組みのアーチが見えてきて、彼が言っていたのはアレのことかと再び鍵を顔の前に持ち上げる。
「……あぁ、分かった」
直前まで分からなかった鍵の動かし方も、噛んでしまっていた呪文の詠唱も、数十年前から繰り返してきたかのようにスラスラと行える。
その儀式が終わると僕は門に漂着する。
『お待ちしておりました』
「……ウムルさん? 僕、どれくらい……」
『一瞬でしたよ。さぁ、門を抜けてください。その資格を持つ人間なのでしょう?』
「…………この門が……」
『窮極の門。人類が求めたアカシックレコード、神に到達すると信じるもの、副王です』
副王、という言葉は度々彼の口から……口から? 口は見当たらない。まぁとにかく彼が紡ぐ文の中に出てくる。副と言うからには主である王も居るのだろうか。僕はそんな今は関係ないことに頭を使いながら門を抜けた。
「……『黒』の名前を、教えてください」
その先に居たのは、いや、在ったのは虹色の球。形や色が絶えず変わって輝いて、互いに離れては近付き近付いては離れている……そんな球の集合体。
『…………魔物使い、こちらへ』
「ウムルさん? でも、まだ……」
『壊れたくなければ、少しずつ』
裾を引っ張られ、また僕はどこかに落ちた。途端に視界は明るい青で溢れた。
「…………空?」
『魔物使い、これから魂の記録を遡ります。前世からあなたへ、それに至る魔物使いの記録を少しずつ見せていきます。宇宙全ての記録を与えるには器が小さ過ぎる、魔物使いは壊すべきではありませんので、異例の対応です。どうぞ、ご感謝を』
「ありがとう……? えっと、これは……僕の前世の記憶ってことなのかな?」
僕は草原に寝転がっていた。首を回すことも指を動かすことも出来ない。記憶を見ているだけなら仕方ないのか? だが、随分と退屈だ。
『魔物使い、また寝ているのか?』
隣に誰かが腰を下ろし、僕も僕の意思でなく起き上がる。やはりこれは映像を見ているようなものだ、視界を借りた経験が活きて早く理解出来た。
「気持ちいい所でしょ? お気に入りなんだ」
僕の声ではないけれど、僕が──いや、僕の前世が話している。口を勝手に動かされているような感覚もない。自分の声のように骨を伝わって聞こえるだけ。
起き上がった僕は隣に座った男と視線を交わす。金色の瞳は呆れた視線を寄越している。黒い布を身にまとった黒髪の褐色の男──見覚えがある、サタンだ。髪型も服装も少し違う。
「何かあったの?」
『いや……何も無い。平和だ』
「そっか、なら良かった」
前世の僕の声は今の僕よりかなり高い。いや……まさか、女なのか。水面や鏡はないし、自分の身体を見下ろしたりもしないからよく分からないけれど、視界の端に見える手からして女の子だ。
『…………来い』
僕はサタンの手招きに腰を上げ、彼の膝の上に腰を下ろした。金色の瞳に映り込んだ僕は僕も見惚れるほどの美少女だった。
……いいなぁ、僕もこのくらい可愛い女の子なら兄もそこまで酷い暴力はしなかっただろう。
『……悪魔になる気はないか? 魂を寄越せば余が直々に加工してやるぞ』
「ないって言ってるでしょ? 私は人間のままがいーの」
『…………余の妻にしてやると言っても?』
「あっはは、そんな上から目線のプロポーズじゃどんな女の子も落ちないよ」
サタンには妻が居たはず、それもかなりの愛妻家だったはずだ。ということはこの前世はサタンが結婚するよりも前? 僕に……僕の前世に求婚していたのか、いや、冗談っぽさもあるけれど。
「それよりあの子は? ほら、前に話してた、天使の……」
『サタン! 少し時間を貰えるか』
他愛ない会話の途中、草原に天使が降り立つ。
戦闘が始まるかと身構えたが、サタンもその天使も特にそれらしい構えは見せない。まさか……神魔戦争が始まる以前? そんな頃から魔物使いは居たのか?
「ちょうど良かった、この子だよ」
視界の端に居た天使がようやく真ん中に移動する。六対の白い翼に、長く美しい金髪。鋭い赤い瞳……ルシフェル! どうして身体が動かない、今すぐ殺さないと、封印しないと──いや、これは過去の映像、前世の記録だ。僕は見ているだけだし、今の彼女はまだアルを殺していない、アルは生まれてすらいないだろう。
『……ルシフェルか。天使長様が悪魔に何の用だ』
『…………聞いてくれサタン! 酷いんだよ神様は! 私はこんなに頑張っているのに、神様は作り立ての人間ばかり気にかけて!』
この頃からルシフェルは人間に敵対心を抱いていたのか。いや、この直後に堕ちたのか?
『愚痴なら帰れ。余が何かは分かっているだろう』
『……君は神様と対を成す素晴らしいものだ。敵対すべき、バランスを取るべき悪だ』
『…………分かっているな。そう、余は悪。天使は善だろう。魔物使いの前で仲良く話していていいのか? 告げ口されても知らんぞ』
『魔物使いは魔界から溢れる魔力を調整するための弁、神の道具が神の愛する私を陥れるような真似はしないさ。ねぇ、そうだろ?』
やはりこの時代ではまだ神魔は敵対していない。それどころか協力して人間という種を育てていくような意思すら感じる。それならどうして今はこんなにも憎みあっているのだろう。
いや、それよりも僕の──魔物使いの存在理由だ。
魔物使いはただの弁、ただの道具……そうか、やはり僕は魔物使いの力を振るう為だけの存在だった。人間らしさなんて、弱い精神なんて、最初から必要無かったんだ。
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