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第三十四章 美麗なる妖狐は壮大な夢を見た

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そろそろ部屋を出なければならない。アスタロトが嘘を吐いたのかどうか追求して、玉藻を捕らえて、兄も呼び戻さなければならない。
やるべき事は沢山あるし、先延ばしにしていい問題ではない。けれどどうにもやる気が出ない。

『……ヘル』

とりあえずベッドに座ってやる気が出るのを待っているとアルが頬を肩に擦り付けてきた。いや、頬だけではない、前脚に後脚、尾、翼……身体全てだ。
どこを撫でても擦り寄る強さは変わらず、して欲しいことがあるのかと聞いても俯いてくるると鳴くだけ。

『…………ダメだよ。やる事あるんだから』

『……それをやる気は無さそうに見える』

『まぁ、ね……』

『なら良いだろう? 先程の会話で貴方の愛情の強さが分かって……気分が、な? ヘル……』

胴に絡んだ黒蛇が服の中に潜り込む。僕は半分笑いのようなため息をついて、両前足を肩に置いてアルを引き倒した。覆い被さるようになったアルの爛々とした肉食獣の瞳と、期待の黄と欲情の赤の揺らめきを見せる首飾りの輝きが僕の視界で交じる。そっと腕を上げてアルの首に回し──たところでノックもなしに扉が勢いよく開いた。

『お兄ちゃん! いつまで寝てるの、色々大変なんだから早く起きてよ!』

ベッドに両肘をついて首だけを起こし、叫びながら入って来たフェルと目を合わせた。

『お兄ちゃん……? え、それって、そういう……? いや、あの……ごめん……だけど、こんな朝から……そういうことは』

『…………察しが良くて助かるよフェル、今すぐ部屋から出て記憶を消して』

『待て、ヘル。色々と大変だと言ったか。何があったか伝えてくれるか、弟君』

アルは僕の胸を踏み台に跳ぶようにベッドから降り、フェルの前で姿勢を正して床に腰を下ろした。

『え……っと、あの、狼さん……狼さんとお兄ちゃんって、本当に……?』

『何が大変なんだ?』

『…………悪魔達、ちょっと揉めててさ。早く来て欲しいんだ』

フェルは疑問に答えてもらえないことを察し、本来の要件に集中した。僕に似てそういったことには敏感だ。
悪魔達が揉める理由の心当たりは一つ、アスタロトの虚偽報告についてだとは思うのだが、ベルゼブブが居るなら食事の取り合いなんてくだらない理由の可能性も無きにしも非ず。
着替えや洗顔など身嗜みを整え、僕は気楽にダイニングに向かった。予想外にも掴み合いの喧嘩にはなっておらず、言い合いどころか一言も発していなかった。かなり深刻な揉め事なのだろうか。

『……おはようございます、魔物使い様』

魔物使いと呼ばれ、ヘルシャフトという名が忘れられていることを思い出す。アルは刻印のおかげで僕の名前を覚えていて、フェルはお兄ちゃんと呼んでくれているから忘れられていることを忘れていた。

『ベルゼブブ……? 不機嫌だね、何かあった?』

『何か……ね。気楽なもんですねぇ、ったく……とっとと喰うべきでした。もっと美味しくなるかもーなんて、馬鹿な考えですよ』

『…………何の話?』

『熟すのを狙って腐り落ちる……なーんて、果物の完熟待ちしてたら稀にありますよね? その話ですよ魔物使い様』

僕は果実の味より食感を優先し青い方が好みなので、稀にあるという話題には同意できない。しかし何を言いたいのだろう、彼女が具体的に話さないなんて珍しい。

『マンモンさん? 何があったんですか?』

視線を移し、これまた不機嫌そうに頬杖をついているマンモンに尋ねる。

『……悪魔としてな、てめぇにこれ以上関わってメリットがあんのかっつー話をしてた訳よ。で、この便所蝿はデメリットしかねぇっつってんだ』

『え……? えっと、それって』

『お別れですよ、魔物使い様』

ベルゼブブは袖を捲り、僕の名前の焼印だったはずの大火傷の痕を治した。

『人間でなくなり時空間の干渉を操る貴方は、私にはもう喰らえないものだと判断しました。天使だの精霊だのと不味そうですしね。名前すら分からないなんて気味が悪い。喰えないもの、喰えたとしても不味いもの、んなもんに手ぇかけてる暇はないんです。今までの時間と労力返して欲しい気分ですねー』

『ちょっと待ってよ、ベルゼブブ……お別れって、喰えないって……』

成熟した僕を喰らうために仕えている……なんて話は時折に零していた。僕はそれを冗談だと思っていた。彼女との談笑は楽しくて、彼女もそれを楽しんでいると思っていて、時折の餌扱いは照れ隠しだろうなんて勝手に解釈していた。

『ベルゼブブ……僕のこと、本当に、ご飯としてしか見てなかったの?』

『何言ってんですか魔物使い様、この世に存在する遍く全て、有機物も無機物も、全て食料です。美味い不味いは別として、全部食べられるものなんですよ、神性だろうと何だろうと、全て腹に納まるものです』

『たっ、食べられるかどうかは別としてさ、ほら……牛とか豚でも、食べずに可愛がる人は居るわけだし…………そんな、感じでさ、僕……君と仲良くやれてると思ってたんだけど』

『馬鹿言わないでください気持ち悪い。この世のどこに机の上のメインディッシュに話しかける奴が居るんですか?』

いつも助けてくれていたのも自分の食事だから? 情すら湧いていなかったの?

『……笑ってた、じゃん。一緒に……楽しく、過ごしてたじゃん』

『ええ、楽しかった。とても……ですが、それとこれとは別、喰えないと分かっては談笑も何も出来ません』

無茶なお願いも叶えてくれた。頭を撫でれば照れくさそうにそっぽを向いた。

『……仲良くしてくれたの、嘘だったの? 全部演技だったの?』

『別だって言ってるでしょう? 話の通じない馬鹿って嫌いです。貴方とは楽しく過ごせました、鬱陶しくて気持ち悪くて面倒臭くはありましたが、どれも良い思い出です』

『じゃあなんでっ!』

『でーすーかーらぁ! 喰えないんですよ貴方、こんなに美味そうなのにっ……喰えないものが目の前にあるってだけですっごいストレスなんですよ。この暴食の帝王が! ベルゼブブが! 喰えないっ……ありえませんよ、そんな物の存在を認めたくありません』

『……仲間じゃ、なかったの? 僕はっ……君と、友達……だと、思ってたのに』

『その認識で結構ですよ、魔物使い様。貴方は絶妙な距離での友人に最適です。ですが、喰えない。喰えない物は私の目の前にあってはいけません』

これまでの日々を楽しいとは感じていてくれた。良い思い出として記憶してくれていた。友達だとも思っていてくれた。
それでも「喰らえない」というただそれだけで離れると言うのか。

『……魔物使いくぅん、深く考えない方がいいわよ? だってこいつ、便所蝿だもの。虫と話できると思うぅ? 仲間や友人、同族だとかの手前に喰うか喰わないかがあるのよ、喰えるかじゃなくてね。だから喰えない魔物使いくんは共に過ごすかどうかっていう選択肢にすらたどり着けないのよねー?』

『完璧ですよマンモンさん。喰えない物なんてこの世に無いはずなんですよ。なのにそれがある……これまでの人生……悪魔生が否定された気分です。そんなものとこれ以上過ごせだなんて、無茶でしょ』

僕には理解出来ない思考だ。悪魔だから、いや、ベルゼブブだから、だろうか。

『…………どうしてもダメ?』

姿勢よく椅子に座っている彼女に近付き、僅かに巻いた翠の髪の先端を撫ぜる。睨んではくるが嫌がる素振りは見せない。喰えない僕は好き嫌いの判断すら下してもらえない。

『ダメですねー。私としましても苦しい判断なんですよ? 貴方の隣は人界で最も居心地が良い場所です』

『……人界でってこたぁ一番好きな場所っつーこったな。てめぇ魔界嫌いだろ』

『クソトカゲが居なけりゃ好きですよ』

『てめぇどこまで天邪鬼なんだよ、てめぇが嫌いなのはリリスでサタン様じゃねぇだろ? サタン様大好きなくせによぉ』

『馬鹿言わないでください殺しますよ誰があんなクソトカゲ!』

重大な判断を下す時だというのにベルゼブブは僕に関係のない話に熱くなる。重大な判断だと思っているのは僕だけなのだろうか、彼女はもう決めていて、ただの報告だったのだろうか。だとしても別の話を始めるのは酷い。
寂しくなった僕はぎゅっと彼女を抱き締め、頭を傾けて首筋を彼女の口元に持っていった。
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