The Box Garden

羽川明

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第一話

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 豪奢な屋敷の中央に、天井にガラスを貼った吹き抜けがあった。朝陽と月光を存分に浴び、すくすくと草木生い茂るその場所に、ソフィアはいた。
 ソフィアは、自身をソフィアと知ったときから、すでにその場所にいた。ソフィアにとって、あたり一面に生茂る緑と、四方を囲むガラスの向こうから覗く視線、鳥や虫たちの歌、談笑する人々の声、自分自身、それが世界のすべてだった。
 そして今、ソフィアのその吸い込まれるような深いエメラルドの瞳には、コルセットをきつく絞り、花開くスカートを摘み上げて向き合う、ブロンズの髪の女たちが映っていた。
 一人は険しい顔をした、年配の女。丸い山のように膨らんだ頭には数えきれないほどの髪飾りを刺しており、首には巨大なネックレスが光っていた。
 もう一人は、呆れ顔の、妙齢の女。こちらは手のひらを閉じることができないほど大振りな、豪奢な指輪をいくつも嵌めている。しかし唯一、薬指だけは空いていた。
「カロリーナ! カーチャを知らない?」
 ソフィアに、ガラスの向こうのその声は届かない。ただ、今日は使用人たちがやけに慌ただしい。ガラス越しに見える通路を、せわしなく行き来しているのだ。
「お母様。それが今朝から姿が見当たらないのです。使用人たちは外出していないと言いますが、それも本当かどうか」
「困ったわね。もう新しい先生が玄関までいらしているのに」
 そばを通ろうとした使用人の男を捕まえ、年配の女-ベリンダは早口で捲し立てる。
「先生を早くお通しして。ずっと玄関に立たせていたんじゃ失礼だわ」
 使用人の男は無言で頭を下げると、早足で通路の奥へ消えていった。
「お母様、カーチャはどうされるのですか?」
「あの子が一人で外へ出るとは思えないわ。きっとまたこの屋敷のどこかに隠れているのでしょう。クリストファー先生にはそれまで応接間でおもてなしをして、引き止めるしか……」
 ベリンダはそこまで言いかけたところで、カロリーナが目を見開いて固まっていることに気づく。声をかけようと口を開きかけたとき、背後から遮るように別の声がする。
「なんの騒ぎです?」
 麦に近い美しい金髪に、黒い大理石のような複雑な虹彩を持つ、細身で長身の男が現れた。
「クリストファー先生……」
 ベリンダは振り返るや否や頬を朱に染め上げ、見惚れる。
「クリス、で構いません」
 クリストファーと呼ばれたその男は、軽く整髪料で整えた前髪を右に流しながら応じる。瞳と同じ色をしたウェストコートに、折り目のついた同色のズボンがさまになっていた。
「応接間はあちらです。申し訳ありません、使用人にはきつく言い聞かせておきます」
 ベリンダが手のひらで示す背後に、クリストファーは振り向きもしない。
 ただ、にこやかな笑みだけは絶やさずにいた。
「いえ、こちらへは自分から赴いたのです。仕立て屋から、良いものが見られるとうかがいまして」
「良いもの、ですか? あ……」
 ベリンダが言い終わらないうちに、クリストファーはベリンダを軽く押しのけ、その背後の、ガラス張りの庭園を見やる。
「これは……」
 クリストファーは口を閉じることも、まばたきをすることも忘れたまま、しばし目の前の光景に見入った。
 宝石のように輝く色とりどりのみずみずしい花たちの中に降り立つその血の通ったシルクのような肌と、腰まである、陽光のような輝きを放つ白に近い金髪。一矢纏わぬその様相で、人口の小川の水を肩にかけるその姿は、天使か女神か。
 視線に気がついたのか、その出来過ぎた彫刻のようなくびれを曲げ、こちらに振り向いたのは、迷宮の入り口のように深い吸い込まれるようなエメラルドの瞳をしたうら若き少女、ソフィアだった。
 その姿に、クリストファーは再び言葉を失う。
「あれは……?」
 やっとの思いでそれだけを口にすると、ベリンダが答えた。
「お見苦しいものを見せてしまい申し訳ありません。十数年前に引き取ってから、私たちも扱いに困っておりまして」
「言葉は?」
「はい?」
「人の言葉は、話せるのですか?」
 クリストファーにとって、かの少女が言葉を発することができなくとも、なんら不思議はなかった。
 神託を下す女神に、なぜ言葉を介す必要があろうか。
「はい。ですが、教養もなにもありませんし、教えようとしても、あれは私たちには興味を示しません」
「でしょうね」
 あからさまにしわを寄せて嫌悪するカロリーナになど見向きもせず、クリストファーはベリンダに向けて膝をついて許しをこう。
「どうかこの私に、あの方を任せてはいただけないでしょうか」
「とんでもない! クリストファー様、どうかお顔をお上げください。頭を垂れなければならないのは、私たちのほうでございます」
 その言葉を聞くなり、カロリーナはガラスの向こうを睨めつける。
 件の少女は、クリストファーたちの気配からか、早めに水浴びを切り上げ、今は茂みに隠れながらドレスのスカートを膨らませるためのペチコートに繰り返し足を通しているところだ。
「お母様。いい加減、ソフィアにもクリノリンを履かせるべきですわ。あんな風にペチコートを重ね着させるなんてみっともないですもの」
 クリノリンとは、スカートをドーム状に膨らませるための針金のことで、カロリーナにとってこれを使わずにドロワーズの上にペチコートを幾重にも重ね着することは、時代遅れのみっともない行為だった。
「そうね、クリノリンを履かせるのもそうだけど、あの子には教養を身につけさせるための世話役が必要だわ」
 クリストファーの笑みが、深くなる。
「お母様!?」
 カロリーナは思わず声を上げた。
「クリストファー様のお言葉なら、ソフィアも興味を示すやもしれません。もしそうなれば、主人も私も予算に糸目はつけません。どうか、お願いいたします」
 クリノリンで膨らんだスカートに顔を埋めそうなほど深々と頭を下げるベリンダに、クリストファーも深いお辞儀で返す。
「もったいなきお言葉です。このクリストファー、地位と名誉にかけて、必ずやお嬢様を、舞踏会で羨望の眼差しを集めるほどの人物になるよう導いてみせます」
「では、いつがよろしいでしょうか? カーチャにも授業をしていただかなければいけませんし、兼ね合いも考えると……」
「そういえば、カーチャお嬢様はどちらに? そちらのお方は、うかがっていたよりも大人びて見えますが」
 ベリンダはばつが悪そうにうつむいたあと、救いを求めるように辺りを見回した。しかし、相変わらず使用人たちは慌ただしく屋敷の中を右往左往するばかりで、良い報告はとても聞けそうにない。ベリンダはため息を吐きそうになるのを抑えながら、仕方なく真実を口にする。
「お恥ずかしながら、今朝から姿が見えませんの。引っ込み事案な性格のせいで、今まで来ていただいた家庭教師の方とも反りが合わなくて。先生を変えるたびに、屋敷のどこかに隠れてしまうんです。本当に、誰に似たのかしら」
「ハッハッハ、奥ゆかしいことは、なにも悪いことではありませんよ」
 頑なに笑みを崩さないクリストファーがようやく声を出して笑ったかに思われたが、ベリンダたちの目には、笑みを浮かべた口元がほんの少し開いて見えただけだった。温厚な性格のようだが、その表情は読めない。
「それでは、今日はソフィアお嬢様に授業をさせていただけないでしょうか」
「ソフィアに?」
 露骨に顔をしかめるカロリーナを制し、ベリンダは応じる。
「そうですね、ソフィアが教わる姿を見れば、カーチャの緊張も和らぐでしょうし、お願いいたします」
 手を胸の前にやって深々とお辞儀すると、許可を得て、クリストファーはガラスの中に閉じ込められた箱庭に足を踏み入れた。ベリンダがソフィアを呼びつけることをしなかったのは、ソフィアが食事をのせた盆を届ける係の使用人とすらも打ち解けようとせず、ガラスにも近寄りたがらないからだ。
 クリストファーは、使用人たちが使っているのであろう、そこだけ植物の生育の悪いあぜ道を、極力緑を傷つけないようにして進んだ。
 ソフィアには、終始笑みを絶やさないクリストファーが特別に映っていた。クリストファーの笑みが、自分のために着飾るだけの世話役の使用人たちやベリンダ、カロリーナとは違って見えたのだ。そのため、ソフィアは小鳥たちと歌うのをやめて、クリストファーの方に向き直った。
「ソフィア、といったね」
 発せられた声は一見平静を装っていたが、クリストファーの唇は震えていた。
「はい」
 ゆっくりと、口に含むように発せられたその返事は、クリストファーに甘美な喜びをもたらす。春を調律して洗練させたようなその音色は、この世のものとは思えなかった。
 しかし、それ以上にクリストファーは、ソフィアの生きた彫刻のようなその様相に改めて目を奪われる。
 コルセットに縛られてなお、くびれは職人の超絶技巧によってさえ編み出すことはできないだろう、覗く胸元や鎖骨はもはや性的なけがらわしさの一切が削がれた、美の頂点にあった。   
 肌は、白人の中でも飛び抜けて白い、しかし病的ではない温かみを兼ね備えていて、そのバランスはどんな偉大な画家にも再現できないだろう。写真でさえ、その芸術を封じ込めることはできない。
 髪は、白に近い金で、白金を糸状に引き延ばして編み込んだカツラだと言われても、クリストファーは疑うことをしないだろう。
「バレエを……」
 その言葉に、こちらへ向けられる瞳。王宮でさえ手が出せないような飴細工職人によって練られ、人形職人によって嵌め込まれた、箱庭を押し込めたかのような深緑の瞳に見つめられ、息をのむ。それでもなんとか正気を保とうと紡がれた言葉は、
「バレエを、習ってはみないか」
 敬語が自然と漏れ出てしまいそうなほど、羨望を孕んでいた。彼女に、クリストファーがただすべき稚拙さなど、ない。
「バレエ?」
 小首をかしげるその仕草一つさえ、並の女優には再現できまい。
「それはなんですか?」
 仕立て屋から聞いた通りだった。少女は、俗世の一切を知らない。あるいは、そのことがここまでの浮世離れした美しさの一因となっているのかもしれないが、この危うい透明な光そのもののような少女に、俗世のしぶとさを、頑強さを与えたとき、芸術は人間のものさしで測れる限界を超え、その遥か先へ赴くのではないだろうか。
 クリストファーは、初めて針の穴に糸を通すかのように言葉を選び、応じた。
「感じられる限りの世界のすべてを、その身一つで表現する踊りだよ」
 自分は、自身に課した笑みを忘れてはいないだろうか。我に返り、頬を手のひらで確かめたくなるクリストファーだったが、悟られぬよう、笑みをより深いものにするに留めた。
「おどり?」
「蝶や鳥たちがする、楽しげな動きのことだよ」
 両の手を広げ、箱庭に住まう小さな命を示してみせると、ソフィアは頷いた。
 しかし、それ以上反応を見せることはない。二人の間で時が止まったように思えた。
 クリストファーは、永遠にも思える時間の中、少女の反応をうかがう。やがて明確な変化があった。
「本当、ですか?」
 長いまつげがまぶたを持ち上げ、はめこまれたエメラルドの瞳が、こぼれ落ちそうになる。
 受け止めるために心構えをしながら、クリストファーは応じた。
「それだけじゃない。この箱庭の外のことならなんでも、僕に聞きなさい。そうして学んだ世界のすべてから感じ取ったものを、君はバレエで表現するんだよ」
「私に、できるでしょうか」
 クリストファーを見上げることによって、宝玉に光が差す。クリストファーの端正な顔立ちや、ソフィアほどではないが、白人の中でも白い肌の色さえ、深緑の世界に誘われていた。
「できるさ」
 独り言のように呟かれたクリストファーの黒真珠の瞳には、未来のソフィアが描き出される。
 バレエの、世界一豪奢な会場で舞うシャンデリアさえ霞む光。大きなその舞台に、脇役はいらない。引き立てる必要などないのだ。永遠を思わせる引き伸ばされた時間の中を舞う人型をしたその宝石は、血が通い、動く。俗世を知り、危うさと引き換えにダイヤモンドのごとき頑強さを手にしたその芸術は、決して揺るがない。その真正面、もっとも近い最前列の特等席で、クリストファーは目に焼きつけるのだ。
 またとこの世には現れない、地上に降り立った天使を。
「では、教えてください」
 理想からそう遠くない現実にやさしく戻され、クリストファーは頷く。
「任せなさい、ソフィア」

 こうして、クリストファーの授業が幕を開けた。
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