The Box Garden

羽川明

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第三話

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 二人が邂逅を果たしてから、早くも半年が経とうとしていた。今日が、ソフィアのバレリーナとしての始まりの日になると、クリストファーは言った。
 今日は新人バレリーナたちのための大会が行われる日だった。緊張の色を隠せず、落ち着かない様子のソフィアを、クリストファーは人気のない廊下に連れ出し、語りかける。
「大会まであと三十分もない。緊張するのは真剣な証拠だ。だけどね、ソフィア。今日はソフィアと同じ新人のバレリーナたちが集まっている。君が演目の途中で失敗しても、誰も君を笑ったりはしない。ミスをしても最後まで続けるんだ。目の前に座る審査員のことは、あまり気にしなくていい。君は、君なりの姿であり続けるんだ」
 ソフィアにとって、大会はおろか、人前で自分の踊りを披露することすら初めてだったが、彼女はゆっくりと深く頷くと、出場準備のため舞台裏へ向かった。その途中、ボタンがはち切れそうなウェストコートを着た巨体の男が、すれ違い様、レオタード姿のソフィアに無遠慮な視線を送ってきた。ソフィアにその意図はわかるはずもなく、少女はただ身を竦めた。
 本番直前。次がいよいよソフィアの番だというとき、少女は、舞台袖の椅子で待っていた。そこからは、ぎこちなくも必死に踊る薄い水色のレオタードに白のタイツ姿の少女と、それを正面最前列の席で見届ける四人の審査員が見えた。
 そのうちの右側、ソフィアからもっとも近い位置に、先程すれ違ったあの巨体の男がいた。汗ばんだ頭を厚手のハンカチで拭うその男の鼻は低く、豚を思わせる。やはり今にもボタンがはち切れそうなウェストコートを着ており、その視線は他の三人と比べて異質だった。手元のボードにほとんど目を落とさず、舞台に立つうら若きバレリーナを凝視している。
 また、堂々とふんぞりかえるその姿から、あの人物がもっとも位が高いのだろうと、ソフィアは思った。
 ついに、ソフィアの番になった。ソフィアが舞台袖にいる時点から音楽が流れ出す。演目は、登場前から始まっているのだ。ソフィアはぎこちないながらも、基本的なステップで舞台の中央に躍り出ると、予め決まっている流れ通りに演技をした。審査員たちが少女の、命を宿した彫刻のような圧倒的な容姿に息を呑んだことは言うまでもない。
 しかし、ソフィアはその様子を演目の合間にうかがっては、己の未熟さを恥じた。少女に自身の容姿が優れているという自覚や奢りなどまったくなく、単に自分の演技が見苦しいためにそのような反応をしているのだと思ったのだ。
 そして、強く意識せざるを得ないのは、やはりあの巨体の男からの粘ついた視線だ。箱庭にいた頃も、ソフィアは時折、主に彼女を見慣れない来訪者から、ガラス越しにそのような視線を向けられることがあった。自分の白すぎる肌や髪が物珍しい目で見られているのだろうとソフィアは思っていた。
 美しいというその言葉は、ガラス越しの少女に届くことはない。巨体の男からの眼差しに晒され、ソフィアはすっかり萎縮してしまった。
 しかし、無情にも音楽が止まることはない。ソフィアは踊り続けた。自身の容姿を恥じ、消え入りたいと願いながらも、少女はついに踊りきった。
 胸につけたナンバープレートの数字と名前を読み上げ、ソフィアは足早に舞台袖へ消えた。しばらく待って審査員の言葉を聞いてから去る者もいれば、恥じらいと緊張からすぐにいなくなる者もいる。別段、不思議に思われることはなかった。
「少々、離席する」 
 ソフィアの姿が舞台袖に消えた直後、巨体の男が立ち上がり、残る三人の審査員の制止も聞かずに半ば駆け出すようにしてその場から消えた。彼の非常識極まりない行動はしかし、それ以上咎められることはなかった。彼はそれほどに偉かった。
 肩を落として歩く純白のレオタードの背中を見つけ、男はその巨体を揺らしながら駆け寄る。
「ソフィア君、と言ったかな」
 名を呼ばれ、少女が振り返ると、そこにはあの汗だくの大男がいるではないか。丸々と肥えた豚のような男から至近距離で見下ろされ、ソフィアは恐怖する。
 少女が一歩後ずさるより先に巨体の男がさらに詰め寄って来た。
「あぁ。その肌、その髪、そしてその顔立ち。間違いない」
「なん、でしょうか」
 息のかかる距離に迫られ、ソフィアが口を開くと、巨体の男はニンマリと笑った。クリストファーとは似ても似つかない、醜い笑みだった。
「君は素晴らしい。その容姿、あの演技。他の出場者を見るまでもない。君が一番だよ」
「本当ですか!?」
 巨体の男は気味が悪かったが、自身の容姿や演技を褒められ、ソフィアは素直に喜んだ。絶賛してくれているがために息を荒げて詰め寄ってきているのだと思うと、警戒心も解けた。
「申し遅れたね。私はマグヌス。マグヌス・ベルトルト男爵だ。名誉審査員兼審査員長をしている。私が一番だと認めたからには、君は間違いなく優勝だよ」
「優、勝?」
 ソフィアにはあまり実感が湧かなかったが、きっとクリストファーが大いに喜び、褒めてくれることだろう。そう思うと、少女の口元にも笑みが浮かんだ。
「それで、今後のことで少し話があるから、悪いがついて来てくれないか?」
「わかりました。では、私を指導して下さっている方も呼んできますね」
 ソフィアではこの名誉審査員の言葉の半分も理解できないかもしれない。クリストファーを呼びに行こうとするのは自然な流れだった。しかし、ソフィアの肩をぶよぶよに膨れ上がった大きな手が掴む。
「いいんだ、君一人で」
「ですが……」
「大丈夫。そんなに難しい話はしない。それに、すぐ終わる」
「……わかりました」
 男爵の位を持った大人の言うことなら、正しいに違いない。ソフィアが疑問に思うことはなかった。
 オイルランプで照らされた廊下は、明かりが足りず、薄暗い。マグヌスが肩に手を回してくれていなかったら、ソフィアは一人では絶対に歩けなかっただろう。
 やがてついたのは、明かりの灯っていない真っ暗な部屋だった。
「待っていなさい、今明かりをつけてくる」
 マグヌスが木製の引き戸を開くと、立て付けが悪いらしく、大きな音がたった。マグヌスにまったく気にした様子はなく、暗闇の中に躊躇わずに入っていく。そして、すぐにオイルランプの橙色の明かりがついた。
「おいで」
 出てきたマグヌスに手を引かれるままついていくと、そこには何かの機材が山積みになっていた。物置きとして使われていることは明白だったが、今後の重要な話なら人気のない場所でするのは当然だろうと、ソフィアはどこまでも楽観的だった。 
 しかし、突然マグヌスの巨体が迫ってきて突き飛ばされ、ソフィアはようやっとことの異常性に気づいた。
 鼻息を荒げるマグヌスは、ソフィアの目など見ていなかった。ソフィアの四肢や胸元に、粘つくような視線をせわしなく彷徨わせている。逃げ道は閉ざされ、そうでなくともマグヌスの巨体によって塞がれている。考えている暇もなく、風船のような巨体が近いてくる。水が入ったようにぶくぶくに膨らんだ手が、ソフィアのレオタードの肩の紐を強引におろし、左の胸元をはだけさせる。
 ソフィアはあまりのことに戦慄した。自分でも驚くほど大きな甲高い声が出る。
「騒ぐんじゃない。お前ごとき、犯罪者に仕立て上げることだってできるんだぞ?」
 息苦しくなるほど強く口元をふさがれ、ソフィアは必死にもがいたが、大人の力に敵うはずもない。心の中で叫ぶしかなかった。クリストファーの名が、その姿が、何度も反芻される。
「ソフィア!!」
 夢を見ているようだった。白い長袖のシャツに黒のウェストコート、折り目のついた同色のズボンを履いた金髪の男が、引き戸を開け放って飛び込んできた。男は黒真珠の瞳で視線を巡らせたあと、一瞬で状況を理解し、マグヌスを引き剥がして壁に投げ出した。
「何をしている!?」
「……クリストファー」
「先生!!」
 はだけてしまった胸元を押さえながら、ソフィアはクリストファーに抱きつく。見上げる少女の表情が曇った。クリストファーは、笑っていなかった。この半年間、ソフィアの前で笑みを絶やさなかったその白人の男は、冷徹な鋭い瞳で、壁にもたれかかる巨体を睨みつける。
「私にこんなことをして、ただで済むと思うなよ、クリストファー。裁判所でお前が何を言っても、誰も聞く耳を持たないぞ。その娘も、すぐに私のものにーー」
「裁かれるのはお前の方だ、マグヌス!」
 クリストファーが懐から取り出したのは、あのペッパーボックスピストルだった。ソフィアはそれで、マグヌスを追い払うのだと思った。だが、その期待は裏切られることになる。
 破裂するようなつんざく音が、二度、三度と響いた。恐怖のあまりソフィアはまばたきを忘れて硬直した。かろうじて、視線だけは動かすことができた。ピストルを向けられてからマグヌスがいやに静かだ。横目で見て、ソフィアは後悔する。
 体の硬直が解け、膝から崩れ落ちた。寒くもないのに震えが止まらなかった。
「あ、ああぁぁぁ……」
 クリストファーが、ペッパーボックスピストルを取り落とした。少女が見上げると、クリストファーは両の手のひらで顔をおさえ、子どものように震えていた。血の気がひいたその肌は、病的に青白い。明らかに異常だった。
 ソフィアは、いつかクリストファーが、人の心に穴を空けるための道具だと言っていたのを思い出す。引き金を引き、我に返って事態を飲み込んだクリストファーの心に、このとき、確かに穴が空いた。
 それでも、クリストファーは振り絞るようにして、浅い息を吐きながら声を上げた。
「ソフィア、聞きなさい」
 少女が、ゆっくりとクリストファーの方を見上げると、クリストファーはソフィアの肩にもたれかかるように崩れながら、続ける。
「私はもう、君の先生ではいられないだろう。だから、忘れないでくれ。君や私を、誰も咎めたりはしない。けれど、この世の中は、善人ばかりじゃない。生き残るためには、疑うこと、そして、選択することが、必要不可欠だ」
「どういう、ことですか?」
 ソフィアには、言葉の意味も、その重みも理解することはできなかった。心に穴が空いたクリストファーは、このまま死んでしまうのかもしれないと、心底怯えた。
「誰か、誰か!」
 クリストファーを肩に抱いたまま、ソフィアは必死に声を上げた。やがて数人が駆けつけ、事態は終息する。
 意識が朦朧とし、半ば心神喪失状態となったクリストファーは大人たちの手によってすぐに病院に担ぎ込まれ、ソフィアも同じ病院へ連れられた。
 だが、明らかに死亡していたマグヌス男爵は、警察の捜査の観点からか、日頃の悪評からか、警官たちが到着するまで、誰にも触れられることはなかった。
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