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「キサラギ」という名の楽園
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これは呪いだ。わたしは世界を呪う。電子の海の中にこの言葉を放つことで、均衡した世界は崩れ去るだろう。
わたしが世界を呪うまでもなく、この世界はべっとりと血糊がついたように呪いに塗れている。一人の男の血だ。たった一つの概念を人間の脳から排除することで、まき散らされた遅効性のウイルスのような呪い。その呪いを齎す施術は、わたしがこの文書を書き残している今まさにこの瞬間も行われている。
新生児の頭蓋を開口し、脳の中に目に見えないほど小さなチップを埋め込む、悪魔の手術。人間が持って生まれてくるはずの概念を封じ込める、忌まわしい儀式。
本題に入る前に、わたしが何者なのか、残しておく必要もあるだろう。
わたしはエリス。こんな名前だけど日本人だ。二十三歳の女。そして、如月博士の娘だと言えば、誰だか分かってもらえるだろうが、一応説明しておく。
わたしの父、如月幸一郎は先に述べた悪魔の手術の開発者であり、提唱者だ。わたしの父さえいなければ、人間はこんな懶惰な世界に生きることはなかっただろう。
如月幸一郎は世界から争いがなくならない理由を、宗教・文化・人種、もっと細かなことにまで至る互いの不寛容が原因だと考えた。相手を否定することは悪であり、世界から排除されなければならないと。「否定」が世界から消えて「肯定」に満ち満ちたとき、すべては許し許され、理想的な世界が実現するのだと唱えた。
そしてチップによる「否定」する感情の排除をする施術を生み出し、様々な人種や宗教というバックボーンをもった人たちから集めた、有志による箱庭実験を経て有用性を証明した。
――否定することを止めよう。そうすれば、人は理想の高みに近付ける。イカロスが届かなかった、バベルの塔が届かなかった、天という高みに、我々は昇るのだ。
父はそう訴えた。愚かなことだと思う。わたしから見れば、如月幸一郎は傲慢なロマンチストで、滑稽なエゴイストに過ぎない。だけど、父の理想に毒された人たちはそうは思わなかった。
そして、瞬く間に父の思想は世界を駆け巡り、国連が全世界に向けて手術を奨励する異例すぎる声明を発表した。
もちろん、すべての国が従うわけがなかった。だが、チップを埋め込まれた人々は「否定」の手段である武力による制圧という選択肢は絶対に選ばなかった。根気強く対話し、理解を求め、それでも相手が首を縦に振らなかったとき、彼らは自分自身を「肯定」するため、隠密裏に各国の首脳や有力者に手術を施し、自分たちと同じ「肯定」の機械人形に作りかえていったのだ!
その恐ろしさは、「肯定」の傀儡であるみなさんには分からないだろう。きっと平和に問題を解決した、素晴らしい手段じゃないかとわたしを説得するに違いない。
ここまで読まれた方の中には疑問に思われた人もいるだろう。なぜわたしが父の行いを否定できるのか。答えは一つしかない。
そう。わたしの頭にはチップは埋め込まれなかった。父と一緒に研究に当たっていた勇次郎叔父は、埋め込んだチップが億分の一の確率の不良品で、うまく作動しなかった。そして今の世界の在り方に疑問を抱いた。そこでわたしが出生したとき、自身が施術して埋め込んだように見せかけたのだ。
なぜそんなことをしたのか?
叔父は兄の幸一郎の築こうとする世界に疑問を抱いた。だがその疑問がチップの不具合によるバグなのか、自信がもてなかった。バグのために世界を危険に晒すことはできない。なら、チップのない者に世界の行く末を託せば? そう考え、チップの入っていない娘、エリスを作り上げ、忙しい兄に代わってという名目で自分の手元に置き、世界から違和感をもたれないように、世界から隔離した。
叔父は死んだ。わたしが十八になる年だった。バグか、自身の思考か、悩みすぎた彼は徐々に精神の平衡を欠き、如月幸一郎博士を巻き込む形で橋から身を投げ、命を絶った。
わたしは自由になり、まずは日本を回った。勿論、チップが埋め込まれた「肯定」の傀儡を装って。それから五年、叔父の残した財産を食いつぶし、世界を巡った。いや、最早あれは世界とは呼べない。
私は知識のほとんどを叔父の蔵書から得た。その中には世界の歴史や地図もあった。そこに描かれていたような国境線は既に消えつつあった。中東で粘り強く抵抗している限られた国だけ国境を主張していたが、それもやがて沈静化し、世界は一つとなるだろう。
如月幸一郎は死して救世主となった。
国連はその名称を「キサラギ」と改称し、「肯定」する国はすべて「キサラギ」となった。世界で「キサラギ」でない部分など、もうほとんどない。アメリカも、ロシアも中国もイギリスもなにもかもが姿を消し、ただ日本だけが如月幸一郎を生んだ聖地として「キサラギ」の他に「日本」と称することを「肯定」されていた。
すべての「キサラギ」民が、人間の叡智は二〇四八年の歳月をかけて、ようやく楽園に辿り着いたと喜んだ。
わたしはこれを聞いたとき、耳の中に人の噛んだガムを詰め込まれたような不快感を味わった。腹の底から怒りや憎しみ、悲しみ、可笑しさ、すべての感情を鍋でごった煮した乱暴な破壊願望が顔を出し、喉を駆け上がって笑い声として生まれるのを聞いた。
楽園? これが。この世界が?
わたしは思う。「否定」のない世界は確かに優しい世界かもしれない。けれど、「否定」があるからこそ人間は反省し、過ちに気づく。それを失った世界はただ現状を維持するだけで進歩はない。政治も、科学も芸術もエンタメもなにもかも。
否定することを拒んだ世界は、熟れすぎた果実だ。後は木から零れ落ちるのを待つだけの腐りゆく果実。
この楽園だと称された世界は放っておいても長くないだろう。やがて崩壊し、大いなる自然に都市は飲み込まれ、人間という種は消える。腐った果実から落ちた種に芽は出ない。そしてそれすらも「肯定」するのだろう。滑稽なことだ。
だが、わたしはそんなことは許さない。最後まで「肯定」したままで滅ぶなんてことは、根底から「否定」する。
あなたたちはそんなわたしをも「肯定」するのか?
誰も小娘一人に世界をどうこうできると思わないだろう。その通りだ。わたし一人なら何もできなかった。けれど、わたしは託された者だ。一人じゃない。
意味が理解できないだろうか。なら、分かりやすく申し上げよう。
敬愛する如月勇次郎博士は、チップにあるプログラムを秘密裏に組み込んだ。それは、ある信号をチップが受け取ったら、自壊する仕組みだ。そして自壊したチップは同じ信号を放つ。つまり、連鎖的にチップが破壊されていくということだ。信号の範囲はおよそ五キロ。都市部はほぼすべてのチップが破壊されるだろう。
その信号を発信する術をわたしは託されている。そしてそれは既に走り出している。
そんな信号なんてあるわけがない。できるわけがない。そうあなたが考えたとしたら、チップの破壊は完了している。……ご明察。冒頭にわたしが述べた呪いとは破壊信号のことだ。それはこの文書を読み進めた段階でインストールされ、自動的に発動している。
ようこそ、「否定」の存在する世界へ。どんなお気持ちかな。わたしを恨むだろうか。皮肉な言い方をすれば、その恨みを「肯定」しよう。わたしは世界の針路を誤った方向へ導いた者の娘として、世界中の憎しみを受け入れるつもりだ。
今、あなたは孤独かもしれないが、案じることはない。やがて世界には「否定」が満ちる。そして破壊と戦乱の嵐が吹き荒れるだろう。その後に新たな世界の創世を迎えるかどうかは、神のみぞ知るところで、わたしのあずかり知らないところ。
わたしは一人「否定」を抱えて生まれて生きてきた。何も知らずただ世界を「肯定」していたあなたたちと違って。その苦しみを、フルコースの料理に舌鼓を打つように、ゆっくりと味わうといい。
あなたたちなら、わたしのそんな恨みに塗れた呪いだって、「肯定」してくれるだろう?
それでは、よき「否定」の世を「肯定」されますように。ごきげんよう。
如月エリス
わたしが世界を呪うまでもなく、この世界はべっとりと血糊がついたように呪いに塗れている。一人の男の血だ。たった一つの概念を人間の脳から排除することで、まき散らされた遅効性のウイルスのような呪い。その呪いを齎す施術は、わたしがこの文書を書き残している今まさにこの瞬間も行われている。
新生児の頭蓋を開口し、脳の中に目に見えないほど小さなチップを埋め込む、悪魔の手術。人間が持って生まれてくるはずの概念を封じ込める、忌まわしい儀式。
本題に入る前に、わたしが何者なのか、残しておく必要もあるだろう。
わたしはエリス。こんな名前だけど日本人だ。二十三歳の女。そして、如月博士の娘だと言えば、誰だか分かってもらえるだろうが、一応説明しておく。
わたしの父、如月幸一郎は先に述べた悪魔の手術の開発者であり、提唱者だ。わたしの父さえいなければ、人間はこんな懶惰な世界に生きることはなかっただろう。
如月幸一郎は世界から争いがなくならない理由を、宗教・文化・人種、もっと細かなことにまで至る互いの不寛容が原因だと考えた。相手を否定することは悪であり、世界から排除されなければならないと。「否定」が世界から消えて「肯定」に満ち満ちたとき、すべては許し許され、理想的な世界が実現するのだと唱えた。
そしてチップによる「否定」する感情の排除をする施術を生み出し、様々な人種や宗教というバックボーンをもった人たちから集めた、有志による箱庭実験を経て有用性を証明した。
――否定することを止めよう。そうすれば、人は理想の高みに近付ける。イカロスが届かなかった、バベルの塔が届かなかった、天という高みに、我々は昇るのだ。
父はそう訴えた。愚かなことだと思う。わたしから見れば、如月幸一郎は傲慢なロマンチストで、滑稽なエゴイストに過ぎない。だけど、父の理想に毒された人たちはそうは思わなかった。
そして、瞬く間に父の思想は世界を駆け巡り、国連が全世界に向けて手術を奨励する異例すぎる声明を発表した。
もちろん、すべての国が従うわけがなかった。だが、チップを埋め込まれた人々は「否定」の手段である武力による制圧という選択肢は絶対に選ばなかった。根気強く対話し、理解を求め、それでも相手が首を縦に振らなかったとき、彼らは自分自身を「肯定」するため、隠密裏に各国の首脳や有力者に手術を施し、自分たちと同じ「肯定」の機械人形に作りかえていったのだ!
その恐ろしさは、「肯定」の傀儡であるみなさんには分からないだろう。きっと平和に問題を解決した、素晴らしい手段じゃないかとわたしを説得するに違いない。
ここまで読まれた方の中には疑問に思われた人もいるだろう。なぜわたしが父の行いを否定できるのか。答えは一つしかない。
そう。わたしの頭にはチップは埋め込まれなかった。父と一緒に研究に当たっていた勇次郎叔父は、埋め込んだチップが億分の一の確率の不良品で、うまく作動しなかった。そして今の世界の在り方に疑問を抱いた。そこでわたしが出生したとき、自身が施術して埋め込んだように見せかけたのだ。
なぜそんなことをしたのか?
叔父は兄の幸一郎の築こうとする世界に疑問を抱いた。だがその疑問がチップの不具合によるバグなのか、自信がもてなかった。バグのために世界を危険に晒すことはできない。なら、チップのない者に世界の行く末を託せば? そう考え、チップの入っていない娘、エリスを作り上げ、忙しい兄に代わってという名目で自分の手元に置き、世界から違和感をもたれないように、世界から隔離した。
叔父は死んだ。わたしが十八になる年だった。バグか、自身の思考か、悩みすぎた彼は徐々に精神の平衡を欠き、如月幸一郎博士を巻き込む形で橋から身を投げ、命を絶った。
わたしは自由になり、まずは日本を回った。勿論、チップが埋め込まれた「肯定」の傀儡を装って。それから五年、叔父の残した財産を食いつぶし、世界を巡った。いや、最早あれは世界とは呼べない。
私は知識のほとんどを叔父の蔵書から得た。その中には世界の歴史や地図もあった。そこに描かれていたような国境線は既に消えつつあった。中東で粘り強く抵抗している限られた国だけ国境を主張していたが、それもやがて沈静化し、世界は一つとなるだろう。
如月幸一郎は死して救世主となった。
国連はその名称を「キサラギ」と改称し、「肯定」する国はすべて「キサラギ」となった。世界で「キサラギ」でない部分など、もうほとんどない。アメリカも、ロシアも中国もイギリスもなにもかもが姿を消し、ただ日本だけが如月幸一郎を生んだ聖地として「キサラギ」の他に「日本」と称することを「肯定」されていた。
すべての「キサラギ」民が、人間の叡智は二〇四八年の歳月をかけて、ようやく楽園に辿り着いたと喜んだ。
わたしはこれを聞いたとき、耳の中に人の噛んだガムを詰め込まれたような不快感を味わった。腹の底から怒りや憎しみ、悲しみ、可笑しさ、すべての感情を鍋でごった煮した乱暴な破壊願望が顔を出し、喉を駆け上がって笑い声として生まれるのを聞いた。
楽園? これが。この世界が?
わたしは思う。「否定」のない世界は確かに優しい世界かもしれない。けれど、「否定」があるからこそ人間は反省し、過ちに気づく。それを失った世界はただ現状を維持するだけで進歩はない。政治も、科学も芸術もエンタメもなにもかも。
否定することを拒んだ世界は、熟れすぎた果実だ。後は木から零れ落ちるのを待つだけの腐りゆく果実。
この楽園だと称された世界は放っておいても長くないだろう。やがて崩壊し、大いなる自然に都市は飲み込まれ、人間という種は消える。腐った果実から落ちた種に芽は出ない。そしてそれすらも「肯定」するのだろう。滑稽なことだ。
だが、わたしはそんなことは許さない。最後まで「肯定」したままで滅ぶなんてことは、根底から「否定」する。
あなたたちはそんなわたしをも「肯定」するのか?
誰も小娘一人に世界をどうこうできると思わないだろう。その通りだ。わたし一人なら何もできなかった。けれど、わたしは託された者だ。一人じゃない。
意味が理解できないだろうか。なら、分かりやすく申し上げよう。
敬愛する如月勇次郎博士は、チップにあるプログラムを秘密裏に組み込んだ。それは、ある信号をチップが受け取ったら、自壊する仕組みだ。そして自壊したチップは同じ信号を放つ。つまり、連鎖的にチップが破壊されていくということだ。信号の範囲はおよそ五キロ。都市部はほぼすべてのチップが破壊されるだろう。
その信号を発信する術をわたしは託されている。そしてそれは既に走り出している。
そんな信号なんてあるわけがない。できるわけがない。そうあなたが考えたとしたら、チップの破壊は完了している。……ご明察。冒頭にわたしが述べた呪いとは破壊信号のことだ。それはこの文書を読み進めた段階でインストールされ、自動的に発動している。
ようこそ、「否定」の存在する世界へ。どんなお気持ちかな。わたしを恨むだろうか。皮肉な言い方をすれば、その恨みを「肯定」しよう。わたしは世界の針路を誤った方向へ導いた者の娘として、世界中の憎しみを受け入れるつもりだ。
今、あなたは孤独かもしれないが、案じることはない。やがて世界には「否定」が満ちる。そして破壊と戦乱の嵐が吹き荒れるだろう。その後に新たな世界の創世を迎えるかどうかは、神のみぞ知るところで、わたしのあずかり知らないところ。
わたしは一人「否定」を抱えて生まれて生きてきた。何も知らずただ世界を「肯定」していたあなたたちと違って。その苦しみを、フルコースの料理に舌鼓を打つように、ゆっくりと味わうといい。
あなたたちなら、わたしのそんな恨みに塗れた呪いだって、「肯定」してくれるだろう?
それでは、よき「否定」の世を「肯定」されますように。ごきげんよう。
如月エリス
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