天狗の盃

大林 朔也

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読心 3

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 鴉の鳴き声で目を覚ますと、見慣れない天井板が広がっていた。部屋の中を眺めると、障子の上の欄間には扇が彫られていて、床の間には花が一輪飾られていた。
 掛け軸には紅天狗らしき男の後ろ姿と、沢山の鴉が描かれていた。

(そうか…昨日のは…夢じゃなかったのか…)

 僕はゆっくりと起き上がった。
 背伸びをし、はめ殺しの丸い窓を見ると、高く聳え立つ木の隙間から燦々と降り注ぐ陽の光が見えた。
 僕は昨夜の紅天狗の言葉を思い出し、盃を取り返す計画を立てるんだったなと思って、紅天狗を探しに出かけた。

 外に出ると、今まで僕が住んでいた場所から感じていた以上に陽の光を強く感じた。
 眩い陽の光が全身を包み込み、強い力に守られているかのようにあたたかくなった。


 昨夜の月明かりの下では、景色は分からなかったけれど、9月上旬なのに辺りの木々は赤と橙と黄色に美しく色づいていた。

 燃え上がるような、美しい紅葉が広がっていた。
 血をたぎらせるような情熱的な色だった。

 僕は、その美しさに言葉を失った。
 言葉では表現することが出来ない。
 ただ溜息をつきながら見惚れているだけだった。
 心地よい風が吹くと、美しい紅葉が音を奏でるようにそよそよと揺れ、炎のように舞い上がっては散っていった。
 赤と橙と黄色の情熱的な世界の中で、僕は生きているような気になった。広がる情熱的な色は、僕の中で眠っている「ある感情」に火をつけてくれそうだった。
 遠い昔に…僕が諦めた感情を…もう一度呼び起こす力。
 その感情が何だったのか記憶を辿ろうとすると、何処からか箒で紅葉を掃く音が聞こえたので、僕はハッとして音のする方向に顔を向けた。

 袴姿の小柄な人が、箒を持って掃除をしていたのだった。

「すみません、紅天狗が何処にいるのか知りませんか?」
 僕は今しなければならない事を思い出し、その人に近づいて行って声をかけた。

 その人は、ゆっくりと振り返った。
 陽の光が降り注ぎ、爽やかな風が吹いて、その人と僕の間にハラハラと美しい紅葉が舞った。

 その人の容貌の美しさに、僕の心は大きく高鳴った。
 今、2人の間に舞った美しい紅葉が、さらにその人の美しさを際立たせた。

 雪のように白い肌に、ほんのりと色づいた赤い唇が艶めかしい。
 濡羽色の肩にかかる髪は揺れる風で艶めき、僕を見上げる長い睫毛に縁取れた黒い瞳は透き通っていた。あまりに魅力的な瞳は、男の頬を簡単に染め上げた。

(なんて…綺麗なんだ…)
 
 年齢は僕と同じぐらいで20歳を過ぎたような年頃だった。
 その人の声を聞く事に期待したが、透き通るような黒い瞳は僕を見上げると「忌々しい者」でも見るような目つきにかわった。

 その人は声を発することなく、紅天狗のいる方角を指差した。

 そして、すぐにまた後ろを向いて、掃き掃除をはじめた。
 その忌々しさがこもった瞳を何処かで見たような気がしたが、全く思い出せなかった。
 こんな魅力的な瞳をした綺麗な子を忘れるようなことは、絶対にないはずなのに。

 もう一度声をかけようとしたが、その人の後ろ姿からは「2度と話しかけるな」というオーラが出ていた。

 そこまで強気になれない僕は話しかけるのを諦めて、その方角に向かって歩き出した。
 
 紅葉のトンネルのような道を進んで行くと、石畳の道に差し掛かった。
 石畳の道には真っ赤な紅葉だけが舞い散り、その上を歩くたびにカサカサと嫌な音を立てた。
 道の両側には、天狗の像が一定の距離をとって立ち並んでいた。どの天狗の像も厳しい顔で大きな口を開け、手には見慣れない武器を持っていた。今にも恐ろしい声が聞こえてきそうな気がして、僕は徐々に早足になっていった。
 だが恐れの気持ちはあっても、天狗の像から目を逸らすことが出来ずに、僕はその一体一体を横目で見続けた。
 刀を振り上げて人間を斬り殺している恐ろしい像が目に入ると悪寒が走ったが、僕を最も怖がらせたのは、その次の最後となる天狗の像だった。
 その天狗の像は、武器ではなく扇を掲げていた。
 天狗は空高く扇を掲げ、何も残らないほどにグチャグチャになった「何か」を踏み潰していたのだった。
 ただそれだけなのに、僕は恐ろしくてたまらなかった。その顔は、血に飢えた猛獣だった。生命を弄び、喰らい、全てを無に化えていく…「恐ろしい天狗」そのものだった。

 僕は、その像を見ていると、何かを思い出しそうになった。
 僕が忘れている…或いは忘れさせられている…何か非常に「大切な事」を思い出しそうだった。
 
 だが、頭がひどく痛みだし、全身が燃え上がりそうなほどに熱くなっていった。
「まだ早い」とばかりに、その思い出さねばならないという感情ごと、全てが塵となってまた消えてしまったのだった。
 
 僕は頭を抑えてしゃがみこんだが、「早くこの場所を去れ」とばかりに見えない強い力に引っ張られて、石畳の道を抜けた。
 不思議な事ばかりが起こっているのだが、天狗の存在によって僕は多少のことでは驚かなくなっていた。

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