天狗の盃

大林 朔也

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楓 7

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「暗い世界から飛び立った時、答えを見つけたように思いました。
 暗闇に身を潜めるのではなく光と共に飛び続け、ワタシは黒を掲げて生き続けることに意味があるのだと。
 休むことなく飛び続け、空が白み始める頃に息も絶え絶えに砂浜に辿り着きました。飛ぶ力はほとんどなくなり、赤い紅葉に引っ張られるように、大きな岩のもとへとヨタヨタと歩いて行きました。
 この島に辿り着いた時に、ワタシが羽を休めたあの岩です。

 主人様は羽織を頭から羽織り、大きな岩に寄りかかっておられました。

『主人様…逃げてきました』
 ワタシが口をパクパクと動かすと、主人様は頭から羽織を羽織られたままゆっくりと立ち上がりました。立ち上がった主人様はとても威厳があり、羽織の奥からは銀色の瞳が美しく光りました。

 ワタシが驚嘆の目で主人様を見ていると、羽織が微風ではためき澄んだ波の音とともに朝日が昇り始めたのです。この地に赤い光が注がれ、ワタシのいる場所を照らしました。

『逃げたんじゃない。新たな出発だ。
 お前の夜明けだ。
 新たな道を歩もうぞ』
 主人様がそう仰ると、遥か彼方へと続いている青がワタシを祝福してくるようにキラキラと揺れ動き美しく輝きました」
 袴の人がそう言うと、眩しい陽の光が紅葉の絨毯を明るく照らした。

 色はより鮮やかとなり優しい風で揺れると、その時に彼女が見た美しい海を思わせた。


「しかし、色を持たぬ生き物は諦めてはいなかったのです。 
 背後から激しい怒りの声が聞こえ、悪意がこもった恐ろしい気配も感じました。

『おおっ、おおっ、いたぞいたぞ!』
 その邪悪な声を聞くと、体の震えが止まらなくなりました。
 新たな希望を見たのに、絶望がどこまでも追いかけてくるのですから。辺りの木々がザワザワと揺れ動くと、ワタシを導いてくれた紅葉は風にさらわれて海の中へと消えていきました。

 守ってくれた紅葉を追いかけようとすると、主人様の力強い声がしたのです。
『自らの意志と力で、お前はここまで来た。
 これより先は、俺が、守ってやる』
 羽織の奥から見える銀色の瞳は恐ろしい色をしていました。

 色を持たぬ生き物はついにその姿を眩しい陽の光の下に現しました。暗闇で見るよりも禍々しく、全身から青白い臭気を放っていました。
 
 けれど太陽から逃れて生きてきた邪悪な体は、その光に耐え切れずに、身をよじりながら苦しみました。
 怒りで我を忘れていたのでしょう。色を持たぬ生き物は、陽の光の下を闊歩してはならなかったのです。
『おおっ、おおっ、あつや、あつや!』
『おおっ、おおっ、痛い、痛い!』
 色を持たぬ生き物は叫び声を上げながら、森の中へと一目散に逃げて行きました。

『主人様…終わりました。
 ありがとうございました』
 ワタシが口をパクパクと動かして御礼を言うと、主人様の瞳には不思議な色が浮かびました。ワタシはその瞳に魅入られるように、主人様の後ろに隠れました。

 するとワタシがいた場所に大きな石が飛んできたのです。石は地面にぶつかって粉々になり、主人様の足にも破片が当たりました。主人様は破片を掴むと、羽織を取り払ったのです。
 紅に燃える天狗様が立っておられました。
 風は唸りを上げ、海は荒々しく音を立て、地面は揺れ動きました。主人様の後ろに隠れていなければ、ワタシは吹き飛ばされていたでしょう。
 空には分厚い雲が流れてきて太陽を隠し、今にも雨が降りそうになりました。赤い稲妻が閃くと、色を持たぬ生き物の恐怖の叫び声が上がりました。

『おおっ、おおっ、このニオイ…御方様の御狗様じゃ!』
『おおっ、おおっ、烈じゃ!烈じゃ!』
『おおっ、おおっ、扇じゃ!扇じゃ!』
『おおっ、おおっ、誰じゃ!誰じゃ!偽だとぬかしたのは!?』
『おおっ、おおっ、偽であることは確かじゃが、庇護のもとにあったとは!御狗様の寵愛を受けておったとは!』
『おおっ、おおっ、ワシは檻に入れるなど反対じゃったんじゃ!』
『おおっ、おおっ、この裏切り者が!』
『おおっ、おおっ、お許し下さい!お助け下さい!』
『おおっ、おおっ、ワシらが悪うございました』
『おおっ、おおっ、2度とこのような事は致しませぬ!』
『おおっ、おおっ、酷いことをしてすまなかった!』
『おおっ、おおっ、苦しめて、わるかった!』
『おおっ、おおっ、どうか!なにとぞ!』
 色を持たぬ生き物の哀れな声がいたるところから上がり、大きな声を上げて泣き始めたのです。

 天狗様が姿を隠すように羽織を羽織られていたのと、色を持たぬ生き物は目がよく見えない為に分からなかったのでしょう。
 主人様は…天狗様とは、それほどまでに特別な存在なのです。
 主人様は無慈悲な笑みを浮かべられました。
 ワタシを苦しめ続けた者達です。いなくなればいいと思ったこともありましたが、今から殺されるのだと感じるとワタシは恐ろしくなって羽をバタバタさせました。

『助けてあげて下さい。
 懺悔しています。許してあげて下さい』
 ワタシは必死で口をパクパクと動かしました。
 すると、主人様はワタシを見下ろしました。その瞳には、ワタシなど映っていませんでした。

 主人様は揺れる大地に手を置いて、最後の言葉を発せられました。
 森の木々が烈しく揺れ動く音がすると、色を持たぬ生き物の声が急にしなくなり酷い悪臭が漂ってきました。
 そう…死んだのです。
 色を持たぬ生き物は、一瞬で、死んだのです。
『また…ワタシに関わった者達が…死にました。
 ワタシが…ここに…来たから。
 またワタシが…原因で…ワタシが…主人様に…殺させたのでしょうか?』
 死のニオイでワタシがパニックに陥ると、主人様は大きな声で否定されました。

『ちがう!
 俺を攻撃したのだから、俺が、殺したんだ。
 奴等は、俺の足に石をぶつけた。
 俺を攻撃するのならば、その代償として命を失うことになる。
 あれほど酷いことをしたというのに、奴等を助けようとするなどお前は優しいな。
 けどな、優しさはお前の大切な者に向けてやれ。攻撃者を擁護してやる必要はない。狡賢い連中は哀れみを乞い、優しさを利用しようとする。そう…罰を逃れる為なら、いくらでも嘘を吐き、同情心を煽ろうと穢れた水を垂れ流す。
 奴等は自らが助かろうとして、懺悔しただけだ。
 そう…我が身可愛さでな。中身のない謝罪など、何の意味ももたん。そもそも後から謝罪するぐらいならば、はじめからするな。 
 言動には、責任が伴う。
 罪を犯した者を擁護してやる必要はない。
 萌黄色の檻には、苦しみ死んでいった者達の悲鳴が残っていた。何度も何度も繰り返したんだ。 
 2度とこのような事はしないと奴等自身が言ったのだから、その言葉通り出来なくなるように殺してやったんだ。
 生かしておけば、また罪もない生き物を檻にいれて楽しむだけだ。 
 そうして、何度も何度も繰り返す。
 屍人と成り果てた醜悪な化け物には、死の罰を与えなければならない。
 下された決定は絶対であり、誰も逆らえぬ』
 主人様がそう仰ると、雨がポツポツと降り始めました。
 昌景様から…」
 袴の人はそこで言葉を切ると、僕を見つめた。僕が頷くと、彼女は少し間を置いてから話し出した。

「あの…猫又の話を聞いた時に…主人様の言葉を思い出しながら…あの時の自分自身を思いながら…話していたのです。
 昌景様が…かつてのワタシのように…見えたのです。気持ちに…寄り添えるような気がしました」
 袴の人はそう言うと、少し恥ずかしそうな表情をした。
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