天狗の盃

大林 朔也

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鵺 1

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 次の日、僕は不意に目を覚ました。
 朝日が昇っていれば部屋に光が射し込んでいるのだが、部屋は暗くて何の明かりも射してはいなかった。
 もう一度目を閉じて眠ろうとしてみたが、妙に目が冴えていて眠ることが出来なかった。
 微灯をつけると、ゆっくりと起き上がった。
 畳の上を静かに歩き、はめ殺しの窓からそっと外を見た。少し好奇心に駆られていたのかもしれない。
 満月に見える月は雲に隠れていたのだが、雲の隙間から僅かに漏れる光によって、ウヨウヨと泳ぐ黒龍の姿が見えた。鴉達は龍に姿を変えていて、辺りは静まり返っていた。
 耳を覚ましていると、風の音さえも聞こえるようだった。それに雨が降っていたのだろうか。ポトンポトンと雫が落ちる音も聞こえたような気がした。
 他には動くものの気配すらも感じない。草木も眠る時間なのだろう。時折聞こえてくる笛の音もしなかった。

 しばらくの間、僕は夜空に浮かぶ雲と黒龍を眺めていた。
 だが急に寒気がして、この静けさを恐ろしく感じるようになった。誰もいないはずなのに、誰かにじっと見られているような不気味さを感じたからかもしれない。
 僕は窓から離れると、布団の中にもぐり込んだ。
 身動きをせずに聞き耳を立てていると、風が騒がしくなった。
 風で枝が揺れ始めた音が「昌景」という僕の名を呼ぶ声に聞こえた。さらに枝が激しく揺れ出すと「外で待っている。早く来い。今すぐにだ」という急かすような声に聞こえてきた。
 紅天狗の声に似ているような気もしたが、どこか冷たくて妙な声色だった。
 僕は戸惑いながら、布団から顔を少しだけ出した。
 するとギラギラした光が射し込んできて部屋が明るくなり、部屋の壁が透けていき、外から僕に向かって手招きをしている男の姿が見えた。僕はギョッとしたが、その手の動きを見ていると「早く起き上がって、外に行け」とばかりに右足がビクンビクンと跳ね上がり歩き出そうとした。
 
 すると床の間の掛け軸が、風もないのにカタカタと動き出した。
 それに応えるかのように、地面を揺るがすような大きな黒龍の鳴き声が上がった。お堂に垂れ込めている紅葉がガサガサと動いて妙な声をのみ込むと、布団の側に置いていた短刀の目抜きの扇がぼうっと光り出した。
(夜に、お前を外から呼ぶようなことは絶対にないからな)
 紅天狗の言葉を思い出すと、僕は息を深く吸い込んで吐き出した。
(ここには、俺の力が宿っている。
 ここにいる者を守る力が、この建物には強く働いている)
 僕は短刀を手に取り、御守りのように握り締めた。
 右足がもぞもぞとしたが、短刀を左手で握りながら右足を押さえつけると大人しくなっていった。

 右足が静かになると、妙な声も聞こえなくなり部屋も暗くなっていった。黒龍の鳴く声が遠ざかり紅葉の揺れ動く音もしなくなると、雨がしとしとと降り出す音が聞こえてきた。

 時計を見ると、まだ午前2時だった。
 この時間に光が射すはずもない。
 僕は短刀から手を離したが、すぐに握れるようにまた布団の側に置いた。短刀を見つめながら雨がだんだん激しくなっていく音を聞いていると、ようやく瞼が重たくなっていったのだった。


 ※

 
 鴉の鳴き声で目を覚ますと、部屋には陽の光が射し込んでいた。
 布団を片付けて朝の支度をすますと、僕は軒下へと向かった。紅天狗が座っているかもしれないと期待したのだが、そこには誰もいなかった。

 雨に濡れて雫を垂らす紅葉は艶めかしかったが、その色は昨日に比べたら寂しげで元気がないようにも思えた。
 ふと地面に目を向けると、水たまりがいくつも出来ていた。
 ひんやりとした風が吹く度に紅葉はヒラヒラと散っていき、水たまりに浮かぶ紅葉はどんどん増えていった。先に沈んだ紅葉からクシャクシャになり色が褪せて水も濁っていくと、地面にポッカリと黒い穴があいたようになった。
 その変化は、あまりにも恐ろしかった。
 急いで靴を履きに行くと、昨日もらった箒等を手にして黒い穴へと一目散に走っていった。

 この数分の間にも侵食は進み、黒い穴はどんどん大きくなっていた。

 僕は慣れない手つきで変わり果てた紅葉を集め始めた。濡れた葉を掃くことがこんなにも難しいと思わなかったが、この変わり果てた景色をこのままにしてはおけなかった。
 黒く変わっていく姿は、どこか紅天狗の翼を思い起こさせたのだ。
 手を一生懸命動かして袋がようやく一杯になると、数羽の鴉がバラバラと舞い降りてきた。鴉達は僕の顔を見ると「任せろ」と言わんばかりに袋を掴み、青い空へと飛び立っていった。風が吹く度に嘴で紅葉を掴み、水たまりに沈むのを阻止してくれたりもした。
 そうして僕達は紅葉を集め続け、袋がなくなる頃に黒い穴も姿を消した。地面は箒の跡が幾つもついて汚くなってしまったが、黒い穴があるよりかはいいだろう。心なしか鴉達も喜んでくれているような気がした。

「ありがとう」
 僕がそう言うと、鴉達は「どういたしまして」と言うかのように鳴き声を上げた。

 色を変えた紅葉が取り除かれ、鴉達が水たまりの周りに集まると濁りも不思議なことに消えていき、陽の光が反射してキラキラと輝いた。水面に映し出される鴉の姿は、この上もなく美しかった。
 元の美しい景色が戻ったように感じると、僕は軒下に座った。箒を立てかけると、両手を頭の後ろに回してゴロンと横になった。
 少しの疲れと達成感を感じながら青い空を眺め、鴉達の楽しげな声を聞いていたのだが、それに混じって男の声が聞こえるとガバッと起き上がった。

 足音は全く聞こえなかったのに、紫色の布に包まれた縦長の大きな荷物を抱えた紅天狗が立っていた。


「おはよう。
 運ぶの手伝おうか?」
 と、僕は言った。

「大丈夫だ。ありがとな。
 昌景の部屋に置くんだ。
 今から、いいか?」

「あっ、もちろん。いいよ」
 僕はそこで靴を脱いで部屋へと戻って行くと、その大きな荷物が入るように襖を開けた。

「おっ、ありがとな。
 昌景、閉めてくれ」
 紅天狗が部屋に入ってくると、男の体から独特のニオイが漂った。
 何をしてきたのかは聞かないでも分かった。怯えることはもうなかったが、何度嗅いでも慣れることはないだろう。
 紅天狗は部屋の隅にその荷物を置くと手招きをした。僕は襖を閉めてから畳の上を静かに歩き、紅天狗の隣に立つと光沢のある美しい布を見つめた。

「贈り物だ」
 と、紅天狗は言った。



「これ…何?」
 と、僕は言った。

 その言葉に答えることなく紅天狗は僕の肩に手を置いて紫色の布に触れた。
 軽やかに取り払われると上品な香りが漂い、透き通った鏡があらわれた。神秘的で美しく、穢れも清らかさも何もかもをありのままに映し出す鏡だった。

 だがその鏡を見ていると、心も体も丸裸にされるような気がして落ち着かなくなった。鏡が光ると、鏡の中に引き摺り込まれるような恐ろしさも感じた。引き摺り込まれたが最後、僕は死ぬまで彷徨い続けるのだろう。
 
「鏡なら…洗面所にあるから」
 僕が独り言のようにそう言うと、僕の肩に置かれた紅天狗の手には力が込もった。

 鏡には、2人の男が映っていた。
 紅天狗と僕だ。
 紅天狗は微笑みを浮かべていたが、僕の表情は硬かった。

「毎日、頭のてっぺんから爪先まで見るんだ。
 自分を見つめられるように」
 と、紅天狗は静かな声で言った。

 透き通った鏡に布がかかると、僕は胸を撫で下ろした。
 紅天狗は僕に鏡を磨く道具を手渡すと部屋から出て行ったが、すぐにまた戻ってきた。その手の中には、小さな木の箱があった。

「昌景、もう一つ贈り物だ」
 紅天狗がそう言うと、僕は箱の中を覗き込んだ。

 箱の中には、鈴が入っていた。
 鈴は黄金のような輝きを放っていて、鈴を括りつけている紐は深みのある紫色だった。紅天狗は鈴緒を手に取ると、静かに振ってみせた。なんの音もしなかったが、外で鳴いている鴉の声が急に凄みを増した。

「昌景、振ってみろ」
 と、紅天狗は言った。

 大きな手から渡された鈴は、とても小さくて軽かった。
 僕は紅天狗がしたように振ってみせたが、どんなに振っても振っても音はしなかった。

「音がしないけど、壊れているのかな?」
 僕は首を傾げながら、しげしげと鈴を見つめた。

「俺には聞こえる。
 その者によって、響く鈴の音色が変わるんだ。
 昌景の音色、しっかりと聞かせてもらった」
 紅天狗は僕の目をじっと見つめた。その銀色の瞳には不思議な色が浮かび、僕は動くことが出来なくなった。

「これより先、異界に行くのが辛くなれば、鈴を振れ。
 終わらせることが出来る」
 紅天狗は僕の目を見ながらそう言った。


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