天狗の盃

大林 朔也

文字の大きさ
上 下
86 / 100

友と 2

しおりを挟む


「あと数年もすれば、鎌鼬はいなくなる。 
 好き勝手に生き、歴史を学ぼうともしない者達は、いずれは滅びいく。
 もう奴等は、そこで生きる資格はない。
 知っているということは、完全に無罪ではないのだから。
 鎌鼬は自らを問い直し、頭を退け、現実をたてなおさなければならなかったのに、それをしなかった。
 上空を飛んでいた様々な色をした鳥達が、鎌鼬にとって変わるだろう。無惨に殺された鎌鼬の死骸を喰らいながら、その力を鳥達は吸収していっているのだから。殺しているつもりだろうが、自らを殺し、破滅の道に進んでいるんだ。
 いずれは鎌以上に嘴が発達していき、あの鳥の中で頭となる者が現れる。そいつが鎌鼬の頭を殺し、鎌鼬は絶滅し、無数の色をした鳥達の新たな領域となる。
 鎌鼬はいなくなり、別の妖怪が住みつくんだ。
 女神の慈悲に気付いていれば、鎌鼬は死に絶えることはなかっただろうな」
 紅天狗はそう言うと、全てを飲み込んだ滝壺を見下ろした。滝壺は白い泡で溢れながら、激しい渦を巻いていた。
 
「神は、何の意味もない命など生み出しはせぬ。
 全ての者に、生まれてきた意味があるのだよ」
 と、紅天狗は低い声で言った。
 
 心の奥底では、あの鎌鼬だけでなく、鎌鼬の頭も殺してくれたらいいのにと思っていたのかもしれない。紅天狗に人間を殺して欲しくはないと言いながら、妖怪ならいくらでも殺していいと。誰も殺さないと言いながら、僕は紅天狗にソレを押し付け、世界を救った気になっていたのだろう。 
 以前は…あんなに紅天狗が妖怪を殺すことを恐れていたのに。
 憎しみと血のニオイは頭《あたま》をオカシクさせる。その考えは、すっかり紅天狗に見透かされていたのだろう。

 しょげかえりすっかり丸まっていた僕の背中を紅天狗は軽く叩くと、顔を上げた僕をじっと見た。

「学ばない者は滅んでいく。
 歴史を知らぬ者に、新たな道は開けない。
 そこにあるモノを、簡単に真実とは思ってはいけない。真実とは、力のある者によって、いくらでも塗り替えられる。
 考える力がなければ騙されて現実を見失い、利用され支配されるだけだ。
 力があるのならば、自らの手で変えていけばいい。
 だが力がなければ、変えようとしても食い潰される。綺麗事や正しいだけでは、成し遂げられない。力がないのならば「誰を」動かさねばならないのかを知ることだ。それも、力だ。そして動かす為には、自らが価値のある者だと示さなければならない。
 どうやっても、力がいるんだよ。
 さぁ、帰るか。
 昌景、よく頑張ったな」
 紅天狗はそう言うと、僕の手を掴んで手の平を広げた。
 こびりついていた血が綺麗になったのを確認すると、満足そうに頷いてから歩き出した。

 滝の裏側を出ると、全身が濡れているので風が吹く度に体がブルッと震えた。クネクネとした道を歩きながら、木々の隙間から降り注いでくる光を浴びているうちに服は少しずつ乾いてきたが、柔らかい土が濡れた靴に泥のようにこびりついていった。
 鬱蒼とした黒い木々を抜けると、色鮮やかな紅葉が僕を迎えてくれた。その色鮮やかさは、僕が帰るべきお堂が近づいてきたのだと教えてくれた。
 いつもとは違って青い空には沢山の鴉が飛んでいて、軒下では黒天狗と楓さんが楽しそうに話をしていた。咲き誇る紅葉の中にあっても、楓さんは綺麗で、隣に座る男の黄金色の髪も優雅な輝きを放っていた。2人は、あまりにも美しかった。

 2人の姿が見えると、空を飛んでいた鴉達が舞い降りてきて、紅天狗に羽織を渡した。紅天狗は血に濡れた着物の血を隠そうするかのように羽織を羽織り、頬についた血も拭った。
 黒天狗が僕達の方に顔を向けると、楓さんも僕達が帰ってきたことに気付いて立ち上がってくれた。

「おかえりなさい」
 楓さんは柔らかな微笑みを浮かべながら言った。
 その笑みは、異界で荒廃した心を救ってくれた。柔らかな表情をした誰かが帰りを待ってくれていることが、これほど嬉しいことだとは知らなかった。
 楓さんは何があったか知らないはずがない。
 彼女は異界に行ったことなどないが、異界の恐ろしさをよく知っている。羽織を着たとしても紅天狗の体からは血のニオイがしていて、僕はどこか疲れた表情をしているのだから。
 しかし彼女が柔らかい表情で迎えてくれたことで、ここは僕にとって安心でき守らねばならない場所だと心から思わせてくれたのだった。

「ただいま」
 と、紅天狗は言った。

「ご無事で何よりです、主人様。
 昌景さ…ま…」
 彼女の黒い瞳が、僕の右腕に注がれた。血は滝の水で洗い流されて綺麗になっていたが、鎌で切られた傷はしっかりと残っていた。

「大丈夫だよ。
 ちょっと切られただけだよ。もう痛みはないから」
 僕はそう言ったが、楓さんは心配そうな目で傷口を見つめるばかりだった。

「そうです…か。
 何か出来ると良いのですが…ワタシの妖術で治せたらいいのですが…」
 楓さんが困った顔で言うと、紅天狗が僕の右腕を掴んだ。

「楓が妖術を使えば、傷口を治す前に倒れるぞ。
 これは鎌鼬に切られた傷だ。俺の妖術でなければ治らんさ。
 それに憎しみの念も染み込んでいる。術者が弱ければ、手痛いしっぺ返しをくらうぞ。
 茶でも飲んでから、治すとするか」
 紅天狗はそう言うと、黒天狗の隣にどさりと座り込んだ。



 黒天狗は黙ったままお茶を注ぐと、何も言わずに紅天狗に湯呑みを渡した。

「おぅ、ありがとな」
 と、紅天狗は言った。

 黒天狗は頷くと、もう一つの湯呑みにもお茶を注ぎ、立ったままの僕にも手渡してくれた。

「ありがとう…ございます」
 僕は少し驚きながら受け取った。

 青い瞳が湯呑みを握る僕の右腕の傷口をじっくり見てから、足のつま先まで向けられた。

 僕は途端に気持ちが落ち着かなくなり、その視線から逃れるように紅天狗の隣に座った。心を落ち着かせようとしてお茶を飲むと、冷めてはいたが優しい香りが体の中に広がっていった。青い視線はゾクリとしたが、恐ろしい天狗が淹れてくれたお茶とは到底思えなかった。

 僕がお茶を飲み終えると、紅天狗は右腕の傷口を治してくれた。鵺の時のように綺麗に治っていった。

「ありがとう」
 僕は元通りになった右腕をさすりながら言った。

「どういたしまして。明日は、休みにしよう。黒天狗と話があるからさ。
 おっ、そうだ。忘れるところだった。
 これ、土産だ」
 紅天狗はそう言うと、黒天狗に白い袋を渡した。黒天狗は白い袋の紐を緩めると、中の物を大きな手の平の上に出した。コロコロと転がり出てきたのは、沢山の木の実だった。
 
「この木の実は、どうされるのですか?」
 と、楓さんが言った。

「ある部分をくり抜いてから、木に下げるんだよ。
 数日間太陽の光に当てておけば、独特の臭いを発する。人間にしか分からない臭いだ。
 そうすれば「秘境だ」と言って、勝手に入り込んでくる人間共がいなくなる」
 と、黒天狗は答えた。




 
 その夜、僕はよく眠れなかった。
 灯りをつけたまま天井板を見ていると、這っている蜘蛛が落ちてきた。びっくりして起き上がると、腹の上は降ってきた蜘蛛が流す真っ赤な血で染まっていた。布団も、真っ赤な血で染まっている。
 めくれあがった服から臍が見えると、蜘蛛が臍に顔を突っ込んで体の中に入ろうとしていた。
 声にならない叫び声を上げながら、蜘蛛を掴んで壁に向かって放り投げた。急いで短刀を握り締め、血溜まりの布団から抜け出した。

 だが、全ては、幻だった。
 蜘蛛もいなければ、布団も真っ白で綺麗だった。
 
 僕は背中を壁につけながら、よろよろと崩れ落ちていった。
 鵺の時も、そうだった。
 1人になれば、死が、僕を追いかけてくる。
 荒い息を吐きながら額の汗を拭っていると、床の間に置かれている箱の中から、その存在を知らしめるような奇妙な音が聞こえてきた。その音は様々に変化し、やがては琵琶のようなとても心地よい音色になった。
 僕は夢見心地になり、何もかもを忘れてフラフラと近づいて行った。木箱の蓋を開けて、鈴を取り出したくなったが、黒い霧のようになった掛け軸が目に入ると、僕の手がピタリと止まった。

 目を覚ませとばかりに頬をパンッと叩くと、僕は鈴に背を向けて布団へと戻った。妙な幻を見た布団で寝ることは嫌な感じがしたが、畳の上で寝るわけにもいかない。
 何度か大きく息を吐きながら、心が決まるまで布団の上で座っていた。
「よしっ!」と声を出してから布団の中に入ると、優しげな笛の音が聞こえてきて、僕の恐怖は静まっていった。
 目を閉じて笛の音に一心に耳を傾けていると、僕は夢一つ見ない眠りに落ちていったのだった。


しおりを挟む

処理中です...